第2話 鏡の中の美少女と“地獄の入れ替わり会議”

 ――静寂。


 遠くで鳴っているような耳鳴りとともに、意識がゆっくり浮上していく。


 時間の感覚がない。

 夢の底をさまよっていたような、濁った水の中を漂っていたような――そんな曖昧な世界から、ようやく浮かび上がる。


(……ここ……どこだ)


 瞼が驚くほど重い。

 指先が冷えていて、手足の感覚すら曖昧。

 自分という輪郭がぼやけていくような奇妙さに、軽く吐き気がした。


 それでも俺は、重い瞼をこじ開けた。


 視界に飛び込んできたのは、黄昏に沈む境内。

 石畳、揺れる木々の影、古びた社殿――見覚えのある神社の景色だ。


(戻って……きた?)


 身体を起こそうとした瞬間。


「……っ!?」


 自分の喉から、聞き慣れない高さの声が漏れた。


 同時に――


「お前……誰だよ」


 震える声が聞こえた。

 その声は少女のものじゃなく、俺の声だった。


 ゆっくり顔を向ける。


 そこに立っていたのは、黒川千華――の姿。


 だが、その瞳には明らかに俺と同じ混乱が渦巻いている。


「……は?」


「は、じゃないわよ!!

 なんでアンタの声が私から出てんのよ!!」


「いや知らんわ!! 俺が聞きたいわ!!」


 叫んだ瞬間、胸に違和感が走る。

 喉の高さが違う。声の響きも違う。

 耳に返ってくるのは――鈴みたいな、少女の声。


(これ……俺の声じゃねぇ……)


 慌てて立ち上がり、ふらつきながら鏡の方へ歩く。

 怖い。だが確かめずにはいられなかった。


(頼む……違ってくれ……!)


 鏡を覗き込んだ瞬間。


「…………っ」


 呼吸が止まった。


 ――そこにいたのは、紛れもなく黒川千華だった。


 長いまつげ。透き通る肌。

 眉の角度も、瞳の色も、全てが“本物”の彼女だ。


(いやいやいやいやいや……!!)


「なっ……なんでこうなるんだよ!!?」


「うるさい!! こっちの台詞!!」


 振り返ると、俺の姿をした千華が

 顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいた。


「アンタ、私になってる!!」


「お前こそ俺になってんだろ!!」


「なんでよ!!」


「知らん!!」


 境内に俺と千華の“中身逆転ボイス”が響くという、地獄みたいな光景。


(……本当に……入れ替わってる……?)


 常識では否定できる。でも目の前の事実が全部を塗りつぶす。


「とにかく落ち着きなさい!」


「無理だろ!? こんな状況で落ち着ける人間がいたら連れてこい!!」


「声、高っ!!

 アンタの声、私の身体に合わなすぎなんだけど!!」


「お前の声が俺の身体から出てんのも地獄なんだが!?」


 互いに詰め寄り――


「ちょ、近い近い近い!!」


「アンタが近いのよ!!」


 フワッと甘い香りが鼻をかすめる。

 自分の姿なのに、自分じゃない――脳が追いつかず、現実感が崩れていく。


 怒鳴り合って、わめき散らして、ようやく落ち着いた頃。


 俺の身体に入った千華が、大きくため息をついた。


「……で。これ、どうするわけ?」


「どうもこうも……どうしようもなくないか……?」


「帰らなきゃいけないんだけど、私」


 ――その瞬間、頭が真っ白になった。


(あ……やべぇ……帰宅……)


「待て待て!!

 この姿で俺んち帰るの!? 俺が!!?」


「私だってアンタの姿で帰りたくないわよ!!」


「お前……俺の生活全否定か!!」


「事実でしょ!!」


 喧嘩にしかならん。


「学校は!? 明日どうするのよ!?」


「どうもできねぇよ!」


「やるしかないのよ!!

 “私を演じて”明日一日乗り切りなさい!!」


(うわあぁ……絶対無理だ……)


「まずはスマホ交換しましょう」


「え、俺のスマホ……?」


「当然でしょ。情報も連絡先も全部アンタ側の身体に入ってるんだから」


「お前……管理職かよ……」


「ルールは大事なの!!」


 ビシッと指を立て。


「第一条。連絡は三秒以内に返すこと」


「無理だって!!」


「三秒以内。既読スルーは死刑」


「なんだよその社畜ルール!!」


「アンタのせいで私の人生が終わるかもしれないの!

 こっちも必死よ!!」


「お前の言動で俺の人生終わるのも同じだからな!?」


「互い様でしょ!!」


(あぁ……終わった……俺の平和な生活……)


 ふと、千華が少しだけ視線を落とした。


「……帰らなきゃいけない理由があるのよ。今日だけは」


 その声は、最初に神社で震えていた時と同じ“影”を含んでいた。


「……そうなのか」


「アンタは?」


「俺? 帰らないと妹が騒ぐし……母さんにも心配されるし……」


「……家族、いるんだ……」


 その一言には、微かな寂しさが滲んでいた。


「お前は?」


「…………………………」


 長い沈黙。

 聞くな、と背筋が直感した。


 境内を出る直前、千華――俺の身体に入った千華が俺の肩を掴んだ。


「秀次」


「……なんだよ」


「私の人生……壊さないでよ。ほんの一日でも。

 あなたが変なことをしたら……」


 その瞳は、脆い強がりで必死に形を保っているように見えた。


「絶対許さないから」


「……お前こそ。

 俺の家族泣かせたら、マジで容赦しねぇぞ」


 口調は荒いのに――

 どちらの声にも、妙な怯えが混じっていた。


(……この入れ替わり、終わるのか?

 それとも……)


 分からないまま、

 俺たちは別々の方向へ歩き出した。


 互いの家へ。

 互いの“人生”へ。


 そしてこの帰宅が――


 コメディと地獄の扉を同時に開くことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る