第3話 : 田辺家の温度に千華(中身秀次)が撃沈する夜
田辺秀次の身体に入った千華は、
夕闇に沈みはじめた住宅街を、重い足取りで歩いていた。
足元がふらつく。
脳の奥がまだ、さっきの出来事の残響でじんじん痺れている。
(……最悪。今日、人生でいちばん最悪の日だわ)
他人の身体。
他人の声。
他人の歩幅、呼吸、癖。
自分が自分でない世界を歩く気持ち悪さは、
言葉にできないほど強烈だった。
けれど――本当に恐ろしいのは、この先だ。
(“帰る家”が違う)
自分の家に帰れない。
代わりに、「田辺秀次」として家族の前に立たなきゃいけない。
(バレたら終わり。……本当に、全部)
震える手で玄関の鍵を回す。
ガチャ――。
扉を開けた瞬間。
「兄ちゃーーんっ!!?」
「ひっ……!?」
廊下の奥から、小さな影がロケットみたいな勢いで飛び込んできた。
田辺柚。
秀次の妹。
中学二年。底抜けに元気で、感情のブレーキがほぼ存在しない。
「なんでこんな時間に!? 遅いよ!!
帰ってこないからずっと心配してたんだから!!」
「ちょ、ちょっと……!?」
抱きつかれた瞬間、千華(中身秀次)は条件反射で身体を固めた。
(ち、近っ……! こんなの……経験ない……!)
胸の鼓動が暴れて、耳の奥まで熱くなる。
柚はさらに顔を覗き込み、じっと目を細めた。
「兄ちゃん……なんか変じゃない?」
「へ、変じゃないわ……じゃなくて、違う。変じゃない。……変じゃない」
「噛みすぎ!!」
(死ぬ……)
その時、台所から足音がして――
「おかえり、秀次。遅かったのね」
柔らかい声が、ふわっと届いた。
夕飯の匂いと一緒に現れたのは、エプロン姿の母親だった。
その瞬間、胸の奥に、ぱきん、と細いひびが入るような痛みが走る。
(……あったかい)
匂い。
声。
表情。
“家庭”というものが、こんなにも柔らかくて、
こんなにも自然に人を迎え入れるものだなんて。
「手、洗ってきなさい。夕飯、もうすぐ温め直すから」
「……っ」
優しさが刺さる。
優しすぎて、逆に痛い。
(こんなの……知らない)
千華は俯きながら洗面所へ向かった。
鏡に映るのは秀次の顔。
だけど、その表情に滲んでいるのは、紛れもなく彼女自身の戸惑いだった。
食卓につくと、湯気の立つ味噌汁と焼き魚が並べられる。
柚がテンション高めに喋り出した。
「でね! 今日学校でさ――」
「柚、食べながら喋らないの」
「だって兄ちゃん聞いてるよね?」
「えっ……あ、聞いてるわよ……じゃなくて、聞いてる。聞いてる」
「兄ちゃん今日どうしたの!? 優しいんだけど!!」
(う……)
“優しい”と言われた瞬間、心臓が重く跳ねる。
(だって……私、普段こんな会話、したことない)
家族で囲む食卓。
くだらないことで笑い合う声。
誰かのために用意されたご飯。
「帰ってくる」のが前提みたいに向けられる言葉。
その全部が――
(……まぶしい)
慣れていない温度に、胸がじわじわ苦しくなる。
耐えきれず、思わず口が動いた。
「……いい家だね」
「え?」
柚が聞き返す前に、千華は慌てて箸を動かし、誤魔化した。
「……あの、母さん。何か手伝うことない?」
「珍しいわね。どういう風の吹き回し?」
「兄ちゃんが自分から手伝うって、逆に怖いんだけど!!」
「え、そんなに!?」
「だって兄ちゃんって普段“めんどいー”しか言わないもん!」
(この家、情報が刺さる……)
いつもの秀次とのギャップが激しすぎるのだろう。
柚と母は、揃って全力で怪しんでいた。
夕飯を終えると、
千華(中身秀次)は逃げるように秀次の部屋へ駆け込んだ。
ドアを閉めて、背中を預ける。
「……この家、うるさい……」
でも、その次の言葉は、無意識にこぼれ落ちた。
「……でも、温かい」
口に出した瞬間、喉がきゅっと詰まる。
(なんで……こんな気持ちになるの)
自分の家にはなかった空気。
無条件に向けられる心配。
“居場所”として受け入れられている感覚。
(……こんなの、反則だ)
「……汚っ!?!?」
視線を落とすと、床一面に散らばる漫画、脱ぎっぱなしの制服、プリントの山。
綺麗とはとても言えない。
むしろ、かなり酷い。
なのに――千華は、不思議なほど落ち着いていた。
「なんで……?」
雑然としているのに、ちゃんと“人が暮らしている匂い”がする。
それが妙に心地よくて、胸の奥が温まっていく。
椅子に腰を下ろした瞬間、机の上のスマホが震えた。
――ピコン。
【千華(中身秀次) → 秀次(中身千華)】
『帰った?』
『無難に会話できた?』
『怪しまれてない?』
『ちゃんと三秒以内に返して。死刑ルールは継続』
「……休ませてよ……」
思わず苦笑が漏れる。
でも、その通知が、胸のどこかをまたじんわり温めた。
(私……今日、誰かにここまで細かく気にかけられたの、初めてかも)
スマホの光だけが部屋を照らす。
千華(中身秀次)はゆっくり布団に沈みこみ、天井を見つめた。
身体は限界まで疲れているのに、
胸の奥には、不思議な安堵が残っていた。
(……こんな“夜の温もり”があるなんて、知らなかった)
静かに目を閉じる。
他人の家なのに、他人じゃないみたいな場所。
そんな矛盾した温度に、初めて救われながら――
彼女は知らない。
この夜の温もりに、
明日の“地獄の登校編”が、容赦なく追い打ちをかけてくることを。
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