(二)

 顕也がその日病院を出たのは、午後十時過ぎであった。ナースステーションで指示とカルテを書き、外来で診断書の続きを書き、医局で翌日の入院患者の指示票を記入し、他の仕事は明日に残して病院を後にした。

 顕也は病院の敷地に隣接する独身寮に住んでいた。炊事場も浴室も共同なので、何の飾りもないただ寝るだけの部屋である。病院の駐車場を横切って寮と病院を行き来していたが、この駐車場の転回スペースには立派なモミの木があった。クリスマス前のこの時期は、イルミネーションが取り付けられている。深夜でも明かりが消えることがない救急外来の受付の横の窓からオンボロの病院とのコントラストがいっそう美しいモミの木を見上げる女の子は、受診している患児かんじの姉妹であろうか?

「せんせー、さっきはありがとう。」

 横を通り過ぎた停車中の白い軽自動車の窓が開いて、背後から不意に呼び止められた。何と、彩乃の母であった。

「先生、ありがとね。」

 晩秋の夜空に向かって車窓から白い息といっしょに吐き出された言葉は、久しぶりに会った同級生が発するため口のようで、とても温かく響いた。

「あ、彩乃ちゃんのお母さん。」

 顕也が少し後ろに戻って、自動車の窓をのぞき込む。

「やつ、頑固がんこだから、一回いやだって言ったら絶対やんないんだよね。言うこと聞かなかったら怒ってやってね。」

「怒るなんて、できませんよ。彩乃ちゃん、頑張ってますから。」

「それと・・・・」

 彩乃の母は、フロントグラス越しにクリスマスツリーを下からのぞき込むようにして言った。

「それに何ですか?」

「先生って面白いね。丸山さんに呼び出されてちゃんと来てくれたのに、あんなふうに言われて散々さんざんだよね。笑っちゃいけないけど、ちょっとおかしかった。もっとえらそうにしてればいいのに。他の先生だったら、食事なんだからちゃんと全部落として、って言っておしまいだと思うよ。」

「そんなことできないですよ。別に看護師さんに散々さんざん言われたくて中止にしたわけじゃないですし・・・そんなに面白かったですか?」

 顕也が病棟での出来事を思い返して笑いながら尋ねる。確かに、客観的にみれば丸山さんと自分の掛け合いはお笑い番組のコントのようだと思えてきた。

「面白い先生だねって彩乃が言ってた。彩乃は、先生のこと、好きみたいよ。」

 彩乃の母は、また運転席から正面のフロントグラス越しにクリスマスツリーをのぞき込みながらつぶやいた。

「先生、やさしいね。」

 顕也は返答に困った。そもそも、顕也のまわりには、良い意味でも悪い意味でも育ちの良い人間しかいない。素直な感情を素直に言葉にできてしまう単純な情熱にあふれる、良い意味でも悪い意味でも育ちの悪い人間にちゃんと向き合ったことがなかったのである。何か言葉を返すべきとして何と返してよいのかもわからないまま、彼女の目線を追っていっしょにクリスマスツリーを見上げて一生懸命に言葉を探した。ツリーがきれいだね、という最適な言葉が浮かんだと思った次の瞬間、彼女が我に返って言う。

「引き止めてごめんなさい。先生、明日も早いんでしょ。お休みなさい。」

 言うが早いか振り向きもせず、彼女の車は走り去った。


 翌日以降、彩乃は経管栄養に対する不満を言うこともなく、術後一週間で無事に退院を迎えた。退院当日、腰のところにあるちょうこつ採取部の二センチほどの縫合創を抜糸したのは顕也であった。ベッドの上に横になったまま抜糸の様子をちらちらとのぞき見する落ち着きのない彩乃の動きは、いかにも普通の六才だった。横に立って見ていた母親が見兼ねて注意する。

「じっとしてろって。動くと先生が抜糸しにくいだろうが。」

 彩乃は、抜糸の作業をのぞき見するのをやめて母親の方を見ながら、ときどき糸を引っ張られて感じる痛みのたびに大げさに痛そうな表情を作った。そんな彩乃に笑いかけながら、母親は顕也に尋ねた。

「そこって先生が縫ったの?」

 抜糸の手を少し止めて、彩乃の顔を見ながら顕也が答える。

「そうです。」

 顕也はうそをついた。顕也が彩乃の手術でやったことは、スキンフックという手術器具で口腔こうくう粘膜切開部のはしを引っ張ることだけであった。同じような手術では、口腔こうこう粘膜を切開して上顎じょうがくこつ欠損部にアプローチしてそこにちょうこつを移植してまた粘膜を縫合するというメインの操作は、すべて部長により行われる。粘膜切開部のはしを引っ張ったりにじみ出てくる血を吸引管で吸ったりして、ひたすら術野を見やすくきれいに保つようにするのが顕也のような下級医の役目であった。同時進行で三学年先輩の新田が一人でちょうこつ採取を担当したので、今抜糸している縫合創はほとんど顕也が縫合したものではない。ただ、このような皮膚縫合は手術内容全体からみれば手術の成否とあまり関係がないために、若手医師の出番になることも多かった。彩乃の手術でも、部長の勧めでいったん頭側の持ち場を離れて腰側の縫合を始めた顕也であったが、二針にしん目の糸をかけようとしたところで新田が顕也の不慣れな縫合手技を見兼ねて器械を取り上げてしまったのである。だから、今目の前に抜糸せずに残された最後の一針いっしん分だけはうそではなかった。顕也はその最後の一つを抜糸して、改めて母娘おやこに自分がその縫合創を縫ったと勝手にかん違いしてくれるような説明を追加した。

「小さな傷だけど、きれいに治すために細かく丁寧ていねいに縫うから、抜糸もちょっと大変なんです。痛かったね。ごめんね。もう終わったから服着て大丈夫だよ。」

 上級医たちよりも少しだけ自分のことを信頼してくれているように感じていた母娘おやこの前で、どうして自分が手術で手を加えたところは何もないなどと言えようか。

「きれいになるんだって。よかったね。」

 処置のために少しずらしていたスカートを上げて身なりを整える娘の方に向き直って、母親がそっけなく言う。そもそも、母親は荷物をかばんに入れて帰り支度じたくを始めながら顕也の説明を聞き流していた。その様子から、顕也の立場では彩乃の手術を部分的にでもほぼ執刀できない事情など、まったく理解していないことは明らかだった。新米医師がどの程度の手術をこなすかなど、素人には知るよしもなければ興味もないのが当たり前である。うそをつくのを一瞬でも躊躇ためらったことに対して、あまりにも他愛もないことに動揺してしまったと感じる一方で、そんな他愛もない仕事を満足に与えられていない自分が情けないとも感じた。先は長いがきっと自分にだって彩乃のような患者に対して行う手術の一番責任ある部分を執刀する日が来るに違いない、そう自分に言い聞かせる他なかった。

「じゃあね、先生。」

 用事でもあるのだろうか。母親が早々に帰ろうと挨拶あいさつを切り出した。

「お世話になりました。彩乃、あんたも言いなさい。誰がお世話になったの? 先生、あんまり外来で診察してないから、今度いつ会えるかわかんないよ。」

「ありがとう・・・」

 はにかみながら言葉をしぼり出すように彩乃が言う。

「どういたしまして。また外来でね。」

 とは言いつつ、確かに顕也は曜日で固定された定期的な外来診療の業務を与えられていない。本当に外来で経過を診られる立場だったらいいのにと思いながら答える顕也に、彩乃が唐突にスカートのポケットからくちゃくちゃの紙切れを取り出してひょいと差し出した。その姿に、母親が少々驚きながら顕也にびた。

「何だよ、それ。先生ごめんね。もらってあげて。」

 顕也も少し照れ臭かったが黙って受け取った。

「ありがとう。」

 手紙であろうか? はしが合わないまま無造作に折り畳まれた病院食の献立の紙の裏には、絵のようなものがちらりと見えた。正直うれしくてその場で開けてみたかったが、母親がぶつぶつ言いながら足早に病室の外に向かって歩き出そうとしている。

「手紙書くならもっとましな紙に書けばいいのに。言えば便箋びんせんくらい買ってきてやるよ。」

 いつもどおりの乱暴な言葉とは裏腹に、彩乃が自分の判断で自分なりの挨拶あいさつをしたことに娘の成長を感じて満足している様子が、顕也にもよくわかった。彩乃は、今さっき抜糸してもらった腰のあたりを少し気にしながら、母親を追いかけてその白いダウンコートのすそつかんだ。ちらりと振り返って微笑ほほえんでくれた彩乃とは対照的に、母親はまっすぐにエレベーターを目指す。

 顕也がエレベーターの到着を待つ美しい横顔に一瞬見惚みとれていると、また白衣のポケットの中で院内PHSが鳴った。

「はい、村沢です。あ、後藤先生、何でしょうか。」

 部長の後藤からの電話に、顕也は少し緊張した。普段は忙しい後藤が直接電話をかけてくることはあまりない。手術の合間に外来診療中の部長から電話があれば、それなりの用事が降ってくる可能性が高いのである。

「あっ、村沢先生まだいたの? 水曜日はいつも朝から行っていいって言ってるじゃん。処置なんかやらなくていいよ。」

「はい、今終わったので今から出ます。今日はこの前のめんせんをみてきます。」

「そのことなんだけど。」

 顕也の予感は的中した。

「昨日出た検体なんだけど、シモナーバンドが健側けんそくでちょっと太くなってるから、その基部のところを切って見てくれないかな? れつえんの皮膚もいっしょに見てそれぞれ細胞の分布を見るだけでいいよ。できれば前みたいにバンドと基部を連続させる切片せっぺんを切れないかな。一週間でできるでしょ?」

 顕也には、毎週水曜日は早めに抜けて大学の研究室に行って口唇裂こうしんれつの切除皮膚検体を処理するという任務があった。もちろん後藤の命令である。

 確かに、今言われた内容は、すべてを投げ出してそれだけやっていれば三日もあれば十分だった。しかし、ただでさえ莫大な量のプレパラートの画像を取り込んで解析する業務が水曜日の午後いっぱい使ってもできるかどうかというところなのに、新たな検体のプレパラートを急ぎで作れという指示は、明日以降に病院の業務の合間に自主的に研究室に行かなければならないということを意味した。平日の日常業務が終わるのは、普通早くても午後九時頃であったから、実際には土日に研究室に行かなければならないということである。しかも、今週の土曜日は大学の教授が主催する勉強会があって、朝から準備の手伝いをしなければならない。日曜日は終日当直のアルバイトの予定が入っている。

「再来週の学会に使うかもしれないから、ちょっと急ぎでできないかな?」

 疑問形のていをなす命令形で、後藤が念を押した。

「承知しました。」

 以前、医局を去った上級医の一人に、しばらく大学の医局にいるつもりならすべてはいと答えろ、と吹聴されたことを思い出しながら、顕也が答える。このような要求を気軽に断るようなことが続けば、医局で人事を決める上層部の先生方から働く意欲のない新人という扱いを受けることになる。そうなれば、大変な割に給与が破格に低かったり、性格に問題のある部長がいたりする人気のない施設に異動させられてしまう傾向があった。本人のやる気は十分でむしろ顕也にはかなり能力が高いように感じられたにもかかわらず、ちょっとした返答の不手際ふてぎわからそのような人事を命ぜられて希望からほど遠い施設に異動し、目標を見失って医局を去って行く上級医は少なくなかった。

「じゃあ、よろしく。」

 後藤が無情に言い放って電話を切った。

 後藤は基本的には温厚で悪い人物ではなかったが、すべてのスタッフが同じ情熱をもって仕事をしていると信じて疑わないところがあった。もしそうであれば確かに患者は救われるはずだし、顕也のように若い形成外科医が小児の先天疾患に多少なりとも興味を持っていることは多いので、理想といえば理想である。しかし、小児の先天疾患というかなり特殊な分野である上に、一年目とはいえ手術がほとんどできずに労力の多くを臨床以外の研究や雑務に費やす生活は、かなり気が滅入った。そもそも一人前の形成外科医が扱わなければならない対象疾患は、小児の先天疾患だけではないのである。この週末をどう切り抜けようか考えると気が遠くなった。

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