美人症候群
@Kawaiminato
日常編(一)
診察台の上に脱ぎ捨てられた白衣のポケットの中で再び院内PHSが鳴る。白衣の横には
「あー、また電源切っとくの忘れた。はい、もしもし。」
そもそも当直の時間帯なのに、いくら主治医であろうと日勤の医師に電話をかけてくるのはおかしい、という思いを返事の
「村沢です。何でしょうか?」
相手は四階東病棟の看護師、それも人使いが荒くて後輩たちからもっとも恐れられている丸山さんだった。当直医は自分よりも三学年先輩の新田先生だからあまり強気に出られない。より立場の弱い自分が院内に残っていれば、彼女にとってはしめたものである。当然のことながら、この手の電話で
「えっ、まだやってるんですか? だって、もうすぐ消灯の時間ですよね。」
二日前に手術をした川原彩乃の経管栄養についての電話であった。口の中の手術の後、傷を清潔に保つためにしばらく行われるのが、手術中に鼻から胃に通しておいたチューブで直接流動食を投与する経管栄養である。それが気持ち悪くて、どうやら自分で調節コックを回してストップしてしまっていたらしい。六才にしては素晴らしい自己主張だと感心する。
「もっとゆっくり落としてあげればいいじゃないですか? 消灯時間が過ぎても他の子に迷惑がかかるわけでもないし、形成外科の立場から言わせてもらえば何時までかかってもいいですよ。あとでそういう指示を書いておきますから・・・」
顕也がすべて言い終わらないうちから、PHSの向こうでもの
「うかがいます。」
いったん耳から離れていたPHSを再び口元に運んで返答すると同時に、顕也は足元の何十年使われているのか見当もつかない電気ストーブのスイッチを切った。もちろんPHSの電源を切るのも忘れない。白衣の
顕也が出て行った外来の静けさからは、昼間の病院の騒々しさをとても想像できない。開設以来三十五年間、横浜こども病院は建物もシステムも職員の意識も患者さんの利用スタイルもおそらく何も変わりなく、外来では朝から夕方までわんさと押しかける
しかし、夏冬を問わず夜八時には外来の空調がストップしたり、勤務時間に関係なく院内にいれば頼まれた仕事を受けることが当たり前だったりすると、やはりストレスは
誰もいなくなって静まり返った外来のデスクの上には、電源が切られた顕也のPHSが残された。その横に、記入途中の診断書がある。患者は十八才女性、診断名の欄には「左
四階東病棟もすでに静まり返っていた。他の診療科で今日手術を受けた子の両親であろうか。自分と同じような年齢の両親と廊下ですれ違っただけである。物心付くような年齢に達した子供たちは、外来での様子とは打って変わって、入院してみれば例外なく手術や処置の後の痛みなどに耐える仲間への
顕也は、まずナースステーションに顔を出す。電話の
「彩乃ちゃん、見てきたの?」
顕也は
「今から見てきます。」
「ここに来ても仕方がないと思いますけど。電話で言ったとおりで経管栄養を嫌がってるんだから、今から残りの分も落とす必要があるんだったら、ちゃんと説明してあげて下さいね。」
百パーセント彼女の言うとおりであることを、頭では理解できた。外来と手術にほとんどの業務時間を
「今日一日に投与した経管栄養の量と、朝からの尿量を教えてもらえますか?」
「朝と昼の分は全部落とし切れて、夕方の分はまだ半分以上残ってる感じかな。おしっこは、ふつうに出てるって言ってました。」
的確な患者の把握も、正直なところ脱帽ものである。看護師三人の準夜勤で三十人以上の患者を相手にしながら、さっき手術が終わったばかりの他の科の
「ふつうに出てるって言っても尿量がわからないと判断が難しいので、検温表を見せてもらっていいですか?」
顕也が尿量と言った瞬間に勝敗が決まった。
「尿量なんて見てるの、術後一日だけよ。形成外科で手術する子たちはみんなそう。先生たちが毎日自分で出してる指示よ。そんなこともわかってないんだったら、毎回最初から指示に入れないでくれる? 子供たちって尿器にうまく出せなくて、チェックするのけっこう大変なんだから!」
顕也が自滅したのが明らかだったので、逆に丸山さんは優しくなった。
「じゃあ、行くわよ、先生。何言うかわかんないから、私が付いてってあげる。小谷さん、さっき言ったのわかった? ちょっと行ってくるから、書き直しててね。」
照れ笑いするしかない状況になった顕也を
顕也は、丸山さんと肩を並べて彩乃の部屋に向かう。確かに自分はまだまだペーペーで、当直帯の時間に電話をしないでほしいなどと言っている場合ではないのかもしれない。丸山さんがどんな思いで新米の自分にこの用件で電話したのか知る
「すみません。彩乃ちゃんのこと、あんまり見てなくて。」
顕也が素直に謝る。
「そうね。今日は添い寝でもしてあげて。」
冗談にしては語気が強く、かといって怒るようでもなく丸山さんが言い放つ。彩乃の部屋では、他の三人の子供たちは案の定ゲームに夢中になっていた。
彩乃は、間仕切りカーテンを閉めた窓
「彩乃ちゃん、先生が来たよ。お鼻の
彩乃の母親は、窓を背にして腕を組んで仁王立ちしていた。顕也と同じか少し年上くらいであろうか。スラリとした体形とくっきりした目鼻立ちが印象的である。不謹慎にも、外来で初めて見かけた時から、顕也の頭には美人の母親をもつ
「おメエがやるって言ったからやってもらった手術だろぉ? ふざけるんじゃないよ。がんばんなくてどうすんだよ。」
彩乃のことを引っ
「先生に聞いてごらん。『晩ごはん食べなくてもいい?』って。」
晩ごはんという丸山さんの意外な言葉に、母親の目線が点滴棒に吊り下げられた栄養剤の袋に移る。怒りの表情が消えた母と黙って
「彩乃ちゃんは、ふだん食べ物は何が好きなの?」
外来で見たクールな美人に戻った母親が答える。
「お魚だね。ふだんから食は細い方で、お肉とかはあんまり食べないかな。」
「じゃあ、お
顕也がプロトコールを無視して経管栄養を中止する正当性を母親に説明し、本人にも優しく声をかけた。
「彩乃ちゃん、大丈夫だよ。今日はもうやんないから。」
泣き
しかし、なぜか丸山さんは不満げであった。
「朝の分からあんなに頑張ってたのに、そんなに簡単に中止にしてもいいようなものだったら、いつもどんな具合か聞いて最初から調節してあげてもいいんじゃない? 傷を治すために必要だってことは彩乃ちゃんが一番よくわかってるんだから、これで傷が治らなかったら彩乃ちゃんはもっとつらいよね。」
せっかく丸く収まりそうなところにそれはないんじゃないの、と思いながら、
「でも、受け入れられないものは受け入れられないんだから、できる限りベストを尽くすってことしかないと思いますよ。今はもう限界みたいだから、明日また様子をみて頑張ってもらいましょう。」
患者には優しい丸山さんが見せる主治医への厳しい姿勢を
「ちゃんと中止理由をカルテに書いておいてくださいね。指示も書いてください。」
「いいですよ。自分が責任をとるから、とにかく今日は中止にしてください。」
立ち去ろうとする丸山さんの背中に向かって発することになってしまった感情的な顕也の
「すみません。自分がもう少し彩乃ちゃんの具合を伺うようにするべきでした。とにかく今日は中止で大丈夫ですから、心配しなくて大丈夫です。」
自分でもびっくりするぐらい、顕也はこの二人に
「わかりました。」
母親の無機的な返事と消灯が重なった。枕元のライトが逆光になって、顕也から
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