第十三話 死闘


 まずい、まずい、まさかここで出会うなんて。

 さっきまで気が緩んでいたのに獣の出現で焦っていた。なんで、ここで、もう帰れるって時に。

 エメットは僕の前で固まっていた。突然の獣の襲来に恐怖と驚きでどうすればいいかわからなくてそうなっているように見える。

 僕は彼女の手を引っ張りながらゆっくりと後ずさりする。


 「…ダニエル、どうしよう。」


 彼女は不安そうな顔でこっちを見て呟く。その声は震えていた。


 「落ち着いて、まずはゆっくり後ろに下がって。獣から目を離さずに。」


 彼女をできるだけ安心させようと落ち着いた声で言ったつもりだったが、喉から出たのはかすれた弱々しい声だった。

 

 僕らは獣から目を離さずに一歩ずつゆっくりと後ろに下がる。脳裏にはおじさんが言っていた言葉が浮かんでいた。


 「いいか、これだけ言っているし森に入ることはないと思うが、もし、もしだぞ。獣に出会ってしまったら、まずは獣から目を離さずにゆっくりと後ろに下がるんだ。」


 「なんでですか。」


 「サイズや種類にもよるが獣は人ほど知能が高くない。だから出会ってしまっても人を自分より弱く襲える獲物だとすぐには認識しない。まずは目線を合わせて後ろに下がる。」


 「それだったら、出会ったらすぐに逃げた方がよくないですか。獲物だと思われる前に。」


 僕が疑問をぶつけるとおじさんは得意げに首を振った。


 「それじゃだめだ。背中を見せて逃げるのは自分たちが相手より格下で弱いって教えるようなものだ。だから獣は瞬時に獲物だと考えを改めて襲われるぞ。」


 たしかに背中を向けて逃げられると相手に自分はあなたより弱いって伝えてるのと同じだ。実際、村の子どもらに見つかった時一目散に逃げると大体追いかけてくるし。まあそれとは少し違うのかもしれないが。


 「わかりました。獣に出会ったら目を合わせてゆっくり下がるですね、でもこれで逃げられずに獣が追いかけてきたり襲ってきたらどうするんですか。」


 「うーん、そん時は逃げるしかないな。でも獣は大体足が速いしすぐ追いつかれるぞ。大きく鈍重な奴からは逃げきれるかもしれないが。」


 逃げるしかないと言っておきながらおじさんは自分の説を自分で否定した。


 「それ以外の獣ならどうしろっていうんですか、まさか戦えとでも。」


 「戦うのも手だが、今のダニエルじゃ一撃で嚙まれたり切り裂かれたりして死ぬのがオチだ。」


 「じゃあどうしろと、そのまま死ねって言うんですか。」


 あまりにもおじさんが有効な方法を教えてくれないもんだから少しイラっとしておじさんに文句を言う。


 「そうは言ってないだろ、そもそも獣には出会わないようにするのが前提だしな。そうだなぁ、もしも絶体絶命の状況になったなら、その場の状況、持ち物を活かして何とかするしかない。例えば、相手の獣が四足の大きな獣ならば高いところに逃げれば追われないかもしれん。木の上とかだな。他にもその時に持っている物で獣の気を逸らせそうならば、その物を投げるのも手だ。」


 急に対処法の難易度が上がったな。その場の状況を活かすか。


 「…、それって難しくないですか。」


 「難しいよ、俺でもできるかわからん。」


 「おじさんにもできるかわからないのに僕にできるわけないじゃないですか。」


 僕が半分諦めたようにおじさんに言うとおじさんは僕の髪をわしゃわしゃとして


 「もちろん難しいことはわかってるけど、ダニエルならできると思ったから言ったんだ。」


 おじさんのそういう僕を信じているという言葉は何度か聞いたが、そのたびに嬉しい気持ちになる。その言葉は僕を見てくれてるってわかるから。恥ずかしいのでその気持ちを口には出さないが。


 目の前の獣に意識を戻す。目の前に現れた時からずっと目を離さずにゆっくりと後退しているが、獣は一定の距離を保ったまま僕らを追いかけてきている。どうやら離れそうにない。


 持ってる手札を活かすか。相手の獣を改めて見る。最初に木から降りて来た時は、かなり大きく僕らを丸のみできるように見えたが、改めて見てみるとそこまで大きくない。せいぜい、僕の背丈より少し大きいくらいでおじさんよりは少し小さいくらいだろう。


 見るからに足が速そうな見た目だ。走って逃げてもすぐ追いつかれるだろう。

 では、戦えばなんとか勝てるだろうか。いや無理だ、あいつの爪と牙はとても鋭く引き裂かれでもしたら致命傷だ。

 そういえば、あいつは四足歩行だ。もしかしたら木の上に逃げれば逃げ切れるかもしれない。


 「エメット、もしかしたら木の…」


 そこまで言いかけて口をつぐむ。そういえば、あの獣は木の上から降りてきて僕らの前に立ちふさがったんだった。木登りは少なくとも苦手ではないだろう。じゃあどうする。


 「ダニエル、、」


 落ち着け、僕が焦ってどうする。エメットをさらに不安がらせるだけだ。持っている手札、そういえばと僕は家からおじさんの狩猟用のナイフとおばさんの杖を持ってきたことを思い出す。これでなんとかするしかない。


 でも、これで戦うのか?魔法はおばさんに教わり始めてから結局一回も使えたことがなかった。だから杖で戦うことは無理だ。じゃあこのナイフであの獣を倒すしかないのか。

 でもナイフは当然ながらいつも剣術の練習で使っている剣ほど長くない。つまり近づかなければ攻撃できないということだ。しかもその攻撃で倒す、もしくは致命傷を与えなければ反撃を食らって死ぬ。


 どうやって倒すか考えていた時、エメットが僕のコートの袖を引っ張った。


 「ダニエル、後ろ....。」


 一歩ずつ下がっていた背中に何かが当たる。獣から目を離さずに空いている方の手で背中に当たった何かを触る。後ろには木があった。あれだけ開けた場所にいたのにもう端まで下がっていることに驚く。これ以上は下がれない。


 もうあまり考えている時間はないようだ。

 なんとかする考えはすでに浮かんでいる。かなり無謀な策だが。うまくいっても獣を倒せる保証はない。でもそれ以外には倒せそうな方法がない、確実に死ぬ。

 

 「はぁぁぁぁ。」


 声に出るくらい大きく息を吐く。やるしかない。おじさんの言葉を心の中で唱える。そうだ、僕ならできる。

 隣で震えているエメットをさらに不安にさせないように声を落として話しかける。


 「落ち着いて、僕に考えがあるんだ。上手くいけばなんとかなるかもしれない。」


 「ほんとに?」


 「うん、そのためにちょっとやってほしいことがあるんだけど。」


 そう言ってエメットに自分の考えた策を伝える。これが成功するには彼女の協力が必要だ。少し難しいことを頼むことになる。もしかしたら無理だと断られるかもしれない。


 「…ということなんだけどやってくれる?」


 エメットは少し黙った後頷いて、


 「わかった、けど....ダニエルは大丈夫なの?危険だよ。」


 自分より僕の心配か。僕はいまできる精一杯の笑顔を作って彼女に、


 「大丈夫、こう見えても村一番の猟師のおじさんに色々教わってるし。それに逃げるのは得意なんだ。」


 と安心させるように言った。


 「....気を付けてね。」


 エメットは僕の笑顔で答えたことを信じたかどうかわからないが、少なくともこの考えには乗ってくれるようだ。

 そうと決まれば、実行だ。僕は腰からおばさんの杖を取り出す。

 『おばさん、杖、大事にしてるのにこんな使い方してごめんなさい。』

 そう心の中で謝り、杖を獣の方に向ける。


 「おい、こっちだ。かかってこい。」


 獣の視線が僕に集中したのをみて、獣から目を離さずに杖を振り回してそばの木から徐々に離れる。

 獣は案の定、僕が離れた方を追いかけてきた。僕に獲物の目線がいったのを確認してエメットは気づかれないように木の裏に回って音を立てないようにゆっくりと木に登り始めた。


 よし、まずは上々だ。狙い通り僕に目を向けさせることができた。

 

 再び獣の方に意識を戻す。さっきまで一定の距離を保って追いかけてきていたのに今はその場にとどまって動かない。ただ僕に向けられる目はさっきより鋭く、僕を見据えていた。


 次の流れに移るにはエメットが木の上に登りきるのを待たなければならない。

 なんとかしてそれまでしのがないと....。


 このままにらみ合ってるだけで終わるならそれに越したことはない。

 だがそんな期待も虚しく、獣は立ち止まった位置から一歩前足を動かした。

 それはただの距離を詰める一歩ではなく、獲物に飛び掛かる助走の一歩目のように感じた。


 右か、左か、正面か。いずれにせよ絶対に躱さなければ....。獣の動きに集中する。しばらくそのままの状態が続き、永遠とも思える時間が流れた後それは唐突に訪れた。

 

 僕めがけて獣が飛び掛かって来たのだ。想像していた以上に速い。突然なのもあって完全に動きが遅れた。やばい、避けないと。


 焦ったのもあって足に必要以上に力が入った。そのせいで足元の雪が崩れ、流れで足が雪の中に沈む。


 「しまった、」


 そう思った時にはすべてが遅かった。足から順に体が傾き、地面に倒れ込む。咄嗟に顔を上げる。頭の少し上に獣の爪があった。


 『死』


 頭の中でその言葉が浮かぶ。しかしそうはならなかった。獣の爪は頭の上で空を切った。

 獣は飛び掛かった勢いのまま僕の頭上を通り過ぎ、離れたところで着地する。


 さっき雪に足を取られ倒れ込んだことで獣が目測を誤り、攻撃を外した。やってしまったミスが結果的に僕の寿命を延ばしたのだ。


 助かったと安堵している暇もなく、僕は急いで体を起こして立ち上がる。いまのはたまたま避けられた。でも次はこう上手くいかないだろう。獣は既に次の攻撃に移ろうとしている。


 獣との距離が近すぎると避ける間もなく迫られてあの爪と牙で裂かれてしまう。かといって距離が開き過ぎると目移りしてエメットの方に行ってしまうかもしれない。適度な距離、それが大事だ。


 二度目の飛び掛かりが来る。今度はさっきよりも距離があった。それに少し遅いような気もする。なんとか横っ飛びで避ける。でも完全に避けきれず、避ける際にコートの端が獣の爪に当たり、紙のように裂けた。


 杖に加えてコートもか。おばさんにどれだけ怒られるか考えただけでも震えそうだ。とはいえ、この場を生き残れないとそんな場面も訪れないのだが。


 獣の攻撃を避けながら、エメットの方を見る。登りきるにはまだ時間がかかりそうだ。ここからは体力勝負だな。獣の攻撃をなんとか間一髪避けれてはいるがそのたびにコートやら来ている服に爪が掠り、破れている。

 

 あれからさらに何度か攻撃を避けた時だ。今の攻撃もなんとか間一髪で躱すことができた。


 体が重い。息も上がっている。さっきより動きが悪くなっているがなんとか獣の攻撃を避けれている。


 獣の方を見る。獣は疲れ切っている僕とは違って終始変わらない様子で襲い掛かってくる。

 でも連続で攻撃といった変則的なものではなく、規則的に攻撃しては少し待って再び攻撃という動きを繰り返している。

 見た目からは分からないが奴も疲れてきているのか?そういえば、明らかに前よりも動きは悪いはずなのになぜ攻撃を避けれているのだろうか。

 考えろ、もしかするとそこに獣を倒すヒントがあるのかもしれないのだから。


 必死に避けながら考える。考えられる理由は....、まず獣も僕と同じく疲れていて攻撃が鈍ってきている。まさか。さっきも考えたがそんなわけがない。最初から僕以上に動き回っているのに、呼吸をしている以上息も切れるはずなのにそれが全く見られない。


 でも、....。襲い掛かってくる攻撃をまたもや間一髪で避ける。

 ぎりぎり避けきったと思ったがまた、やつの爪によって服が破られた。今度は腕にも鋭い痛みが走る。


とっさに腕を見ると裂けた服から肌が見え、次第にその周りが赤く滲んでいった。幸いにも傷はそこまで深くなさそうだ。出血もそこまでひどくならなければいいが。


 さっきの攻撃も僕に当たるか当たらないかギリギリのところにきた。もしかして....。頭の中に嫌な考えが浮かんだ。次の攻撃がくる。


 直前まで色々なことを考えてたせいで明らかに動き出しが遅かった。避けれない、そう思ったがそれでも攻撃はちゃんと当たらなかった。


 先ほど浮かんだ疑念が確信に変わった。おそらく、獣は僕に攻撃を当てないようにしている。正確には僕がギリギリ避けれるかどうかの速さに手加減しているのだ。


 でもなんのために。真っ先に思いついたのはいつでも仕留められるが、わざと手加減をして楽しんでいるかもしれないということだった。そういえば、少し前に読んだ本の中に獣に関連する記述があったな。


 獣は基本、人よりも知能が劣るため襲ってくる時は食料を得るためや身を守るためなど目的があってのことだが、まれに知能が高い獣は獲物を得るためではなく、狩りをしたいがために襲ってくることもあると。


 つまりはそういうことか。僕が命がけなのに対して獣は獲物である僕をいたぶっているのだ。全くもって最悪な気分だが、こちらは時間稼ぎをしたいため本気で来られるよりは好都合だ。


 エメットはそろそろ登りきっただろうか。そう思った瞬間、背後からドサッと何かが落ちる音が聞こえた。まさか、反射的に音のした方を向く。


 やはり音はエメットの登っていた木からで、彼女は木の幹を登り切り太い枝へと移ろうとしていた。そのタイミングで枝に積もっていた雪が落ちて音がしたのだ。ひとまず彼女が落ちたわけじゃなかったので安心する。


 獣はその音に反応し、明らかにエメットの方を見ていた。エメットも獣の意識が自分に向いたのを見て動きを止めた。


 まずい、ここまで来て僕から標的が彼女に変わってしまうとこれまでの全てが水の泡になり、倒せる可能性もほぼゼロになってしまう。どうする、どうやって僕にもう一度目線を向けられる?


 右手に持ったままだった杖を再び見る。


 「おい、こっちだ。」


 大げさに杖を振りながら囮になろうとする。でも、獣はもう興味を失ったのかこちらをむこうともしない。


 「こっちを向けって言ってるだろ!」


 半分やけくそになって僕は手に持っていた杖を獣に向かって投げた。杖は自分でも見事と思える放物線を描いて獣に当たった。


 獣は唸り声を上げながらこちらへと向き直る。獣の気を引ければ当たらなくても近くに落ちるだけでもいい、と思って投げたのだがまさかあんなにきれいに当たるとは。いつも練習している弓は全く当たらないのになと嘆く。


 しかしそんな余裕があったのも獣が襲い掛かってくるまでだった。こちらに向き直った時からわかっていた。さっきと違い、明らかに怒っている。杖を投げて当てたことで刺激してしまったのだ。子どもが投げた木の棒なので痛いわけないのだが。


 攻撃に備える。飛び掛かってきた獣は明らかにさっきより速い。でも避けられる、そう思い実際避けれたのだが、肩にただならない衝撃がきて吹っ飛ばされる。


 雪の上をなすすべもなく転がる。爪による攻撃は避けたのだが、振り向きざまにぶつかられ吹っ飛ばされたのだ。


 左腕に力が入らない。骨が折れたのか、肩が外れたか。いずれにせよもう避けるのは限界だ。こうなったらエメットだけでもなんとか逃げてもらおう。


 「ダニエル!」


 エメットの声が聞こえる、わかってる、けどもうまともに動けそうにない。


 「ダニエル、いけるよ!」


 もう一度聞こえた彼女の声にもうろうとしていた意識が冷水を浴びたようにはっきりした。


 顔だけ動かし彼女の方を見ると彼女は、枝の上に乗れており、準備万端といったような感じだった。

 なんとか間に合ったか。諦めかけていた心に再び気力が戻る。左腕は力が入らないので右手で体を起こして立ち上がる。獣はエメットの声なんてお構いなしで僕だけを見ていた。


 「わかった、行くよ。」


 エメットに声を掛けて僕は彼女のいる木の方に全速力で走る。

 少しして獣は僕を追ってきた。勝負は一瞬だ。エメットがミスをしても僕がミスをしても終わる。両方が成功しなければ生き残る可能性はない。


 獣は僕との距離をみるみる詰める。ここまで来て追いつかれるわけにはいかない。死に物狂いで走る。

 エメットがいる枝の真下を通り過ぎ、振り返る。獣はもうそこまで来ていた。

 後は彼女にかかっている。エメットの方を見る。何も声はかけなかったが、彼女は僕の方を見て頷いた。

 腰にあるナイフを抜いて構える。

 獣が彼女のいる真下を今にも通り過ぎようとした時、彼女は着ていたコートを広げて落とした。タイミングよく獣が通り過ぎ、獣の顔にコートがかかる。


 獣は急に視界が遮られたため僕に向けてまっすぐ走っていたのが、ふらふらと右や左にそれるようになりスピードを落として止まった。


 首を振ってなんとか視界を遮るものを落とそうとしている。この隙を逃すわけにはいかない。獣のそばに近寄る。狙うのは首元、それ以外は致命傷にならない。柄を持っている手に力が入る。

 一呼吸おいて僕は相変わらずコートをはらおうとしている獣に飛び掛かった。助走の勢いのままナイフで獣の首元めがけて突き刺す。


 なにか柔らかいものを突き刺した感触とナイフの柄からしたたる血が見えた。しかし、浅い。獣が動いていたせいで狙いがずれ、コートの上から刺してしまった。


 獣の絶叫が響く。とっさに離れる。ナイフは刺さったままだ。獣は痛みでもだえ苦しみ、めちゃくちゃに暴れ始めた。顔にかかっていたコートが半分ずり落ちる。

 刺さったのは首元ではなく目だった。左目からだらだらと血が流れている。倒しきれなかった。失敗したのだ。


 「....倒せた?」


 木の上からは見えにくいのだろう。エメットは木から降りてこようとしていた。


 「エメット降りちゃだめだ。」


 「え?」


 とっさに叫んだがもう遅かった。獣は声がした方に向かって突進した。その先には降りてきた彼女が。


 「よけて!」


 エメットは獣をみて固まったがすぐに避けようと動き出す。が、もう獣の鼻先は彼女のそばにあった。

 獣の突進をくらい、エメットは吹っ飛ばされて雪の上を転がった。


 「エメット!、」


 呼びかけるが返事はない。彼女は横たわったままだ。獣はなおも血を流したまま暴れまわり、僕の方に突っ込んでくる。避けきれないととっさに構えたがなすすべもなく吹っ飛ばされる。そばにはエメットがいる。もう一度呼びかけるが反応がない。気を失ってるだけだと思いたい。


 次の攻撃が来る。避けようとしたが、踏みとどまる。僕の後ろにはエメットがいる。僕が避ければ動けない彼女に当たってしまう。避けられない。


 飛び掛かってきた獣を腕で止めようと上がらない左腕で防ぐ。鋭い痛みが襲う。獣にコートの上から腕を噛まれたのだ。


 「うぐぅ、」


 飛び掛かってきた勢いのまま押し倒される。空いている右手で刺さっているナイフを奥に突き刺す。でも獣は腕を離さない。

 これ以上押し倒されないようナイフを離し手を地面につく。


 手に雪とは違う感触があった。なにかは見えなくても触っただけでそれがなにか分かった。おばさんの杖がそこにあった。

 持ち慣れたそれを握る。そして獣に力いっぱい刺した。杖は刺さらず、折れた。当然だ、所詮は木なのだから。

 もうどうしようもないのか。ダメもとで折れた杖を獣にぶつけながら叫ぶ。


 「水よ、その偉大なる恵みを我らにも分け与えたまえ!」


 おばさんに教わった魔法を唱えるが当然ながらなにも起こらない。今まで使えたこともないのだから当然と言えば当然だ。それに杖も折れているし。それでも僕は魔法にすがるしかなかった。


 「水よ、その偉大なる恵みを我らにも分け与えたまえ!」


 獣のかむ力がさらに増した。腕がキリキリと鳴っている。


 「水よ、出ろ、出ろ、出ろ、でろ!」


 なにもおこらない。腕から血が流れていくのを感じる。感覚がなくなりそうだ。体全身の血がたぎっているように熱い。もう死ぬのかな。最後のあがきだ。


 「でろよ!」


 残る力を振り絞って折れた杖を獣にぶつけながら叫んだ。


 折れた杖の先が輝く。もう意識がない。瞼が閉じそうだ。意識を失う前に見えたのは杖先を中心に広がる閃光と吹っ飛んでいく獣の姿だった。

 

 

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