第34話 着替えない強さ
店舗兼自宅の二階。
八畳の和室には学習机とクローゼット、淡い色のカーテンがあり、暮らしの気配がそのまま残っている。
西日が差し込む窓辺では、ベッドに並んだぬいぐるみが、まるで今日の出来事の重さを共有するように寡黙に佇んでいた。
そのベッドの端、日差しを避けるように部屋の隅へ身を縮め、土井中梅子は体育座りで泣いていた。
ゴシックロリータ風の衣装は、この姿勢には不似合いに見える。
だが今の彼女に“らしさ”を気にする余裕はなかった。
こめかみの上をズキンズキンと刺す痛みは、泣きすぎた証。
それでも涙は止まらない。
泣きたくないと思うと逆に思考がそこへ引き戻され、虚空を見つめて何も考えまいとすれば、痛みだけが増幅された。
押すことも引くこともできない。
涙の正体に直面すれば恐怖が強まり、避ければ胸の奥がひび割れそうに痛む。
にっちもさっちもいかない袋小路のなかで、ただすすり泣くしかなかった。
泣いてばかりで嫌になる。
けれど、泣いている自分自身をきちんと客観視できるほど、まだ成熟していない。
自己嫌悪すら扱いきれず、痛みはどこにも逸らせないまま真正面から降りかかってくる。
それでも、落ち込むだけの自分で終わりたくはなかった。
前へ進みたい。
停滞の淵に沈んだままではいたくない。
涙を拭えないまま、それでも梅子は今日の出来事を整理し始める。
まるでひとりで反省会を開くように。
何が一番、堪えたのだろう?
いじめは終わらないと突きつけられたことか。
忘れたい過去を鮮明に思い出してしまったことか。
弱さを晒してしまったことか。
そのせいで、今度は大切な“友達”が傷つく立場になってしまったことか。
答えは一つではなかった。
全てだ。
どれか一つを選んだところで、胸にのしかかる重さは変わらない。
どんな詭弁や虚勢をもってしても、痛みの総量は覆い隠せなかった。
その痛みに押し潰され、心が軋んだ。
“弱いんだ、私は”
せっかく出来た友達に「またね」と言うことすらできず、加藍の影に隠れたまま別れてしまった。
それは、彼女達の真っ直ぐな優しさに対して失礼にあたるのではないか……そんな後悔が、胸の奥を刺し続けた。
深く長い溜息を落としたとき、部屋の戸が、控えめにノックされた。
「ウメちゃん、いいかな?」
加藍の声。
そのひと言を聞いただけで、心が揺れ、甘えたくなる。
だが梅子は返事をしなかった。
きっと気付いてくれる……そう思い、ただ静かに待った。
「入るね?」
そっと戸が開き、畳の上に足音が落ちる。
顔を上げなくても、加藍の気配が部屋の空気を柔らかく変えるのが分かった。
それだけで、梅子の頬は泣きながらも緩む。
来てくれた。
それが嬉しくて、また涙が溢れる。
寄り添ってくれることが嬉しいのに、甘えてばかりの自分が情けなくて、袖はさらに濡れた。
今の梅子は“フォルティス”ではない。
強さを演じているのでもない。
土井中梅子として、丸裸の心で泣いていると、加藍はすぐに気づいた。
「服がシワになるよ?」
「……兄さんがアイロンかけてくれればいい」
困ったような、けれど優しさを滲ませた頬笑みを漏らしながら、加藍はベッドの縁に腰掛けた。
「その服だと暑くないかい? のどは渇かない?」
梅子は首を振る。
「おなか空いてない?」
また首を振る。
「食べたいものはあるかい? と言っても、今から献立は変えられないか。ははっ」
返事はない。
けれど加藍は焦らず、見守るように優しく頬笑んだ。
「……今日は本当によく頑張ったね。もう休んでもいいんだよ?」
それでも返事は来ない。
ただ、クッションに顔を押し付け、息と涙を吸わせている。
「……前に話したじゃないか。服はその人のいちばん外側の部分を表すことも出来る。人は装いで替われる。でも、重ねすぎた服は自由を奪って重くなるし、どんなに服を重ねても、その人の奥の奥までは替われない。替わった振りを演じても、重い服に体力を削られて、いつか疲れてしまう……。だからウメちゃんは“着替える”んじゃなかったのかな?」
叱るでも諭すでもなく、ただ優しく、梅子を守りたいという気持ちだけで紡がれた声。
「しつこいようだけど、張り詰めた時間の分だけ緩ませてほしい。ウメちゃんを想う俺のためにも」
その真っ直ぐな思いやりに、梅子はさすがに黙っていられなくなった。
「……脱いだ瞬間に大声出して泣いちゃいそうで怖いの」
「泣けばいいじゃないか」
「あの子達に負けたみたいで嫌。それに、下のママ達に心配掛けたくない」
心配はされるだろう。
だが、受け止めてもらえる。
泣く日があってもいいと、母はきっと言う。
それは加藍も、痛いほど分かっている。
ただ、梅子の気持ちがそれを許さない。
だから加藍は言わない。
代わりに、そっと頭に手を置いて撫でた。
拒まれない。
その小さな肯定が、梅子の心をわずかに温めた。
やがて、くぐもった鼻をすする音が聞こえると、撫でる手を止め、加藍は穏やかに問いかけた。
「……ウメちゃん。君は今、何をしたい?」
その一言が、梅子の思考に空気を送り込む。
停滞していた心の動きが、ゆっくりと前へと傾き始めた。
反省ばかりして、前に進むための思考をしていなかったことに気づく。
涙が少しだけ減る。
そして――
「……優ちゃんを助けたい」
袖から顔を上げ、赤い目のまま前を見て言った。
「……そっか」
加藍は撫でていた手を離し、静かに受け止める。
いじめる側の嗜好は残酷で、弱者を壊すのが早い。
初谷優の限界は、そう長くない。
突発的に、ふとした拍子に、倫理の梯子が外れてしまえば……。
その未来を、加藍は容易く視ることができた。
だからこそ、梅子がその未来を迎えることなど、絶対にさせたくない。
「……そうだね。小さい頃からの友達なんだ。助けたいよね」
梅子は小さく頷いた。
「……君のドレス姿を見ても嘘偽りなく素直に素敵だと褒めてくれて、お互いを励まし合って、それぞれの場所で頑張っていこうって言い合える友達……。君を、俺とは違うところから支えてくれる優さんは俺にとっても大事な人だ。だから君達だけの問題じゃない。……でも、俺は今回、見守ることしかできない」
その現実に、梅子の体が強張る。
「正直、君をほんの少しでも傷付ける可能性がある場所に一人で送り出すのは力ずくでも止めたい。常に君の傍にいたい」
彼も、本当はついていきたい。
だが、それは叶わないと知っている。
「兄さんなら付いてきてくれるだろうなって思ってた。……けど、それじゃダメなの」
梅子の腹筋が緊張でぎゅっと収縮する。
「兄さんにいたら、あの子達が言う“素”の私じゃなくなる。だから一人で行かなくちゃいけないの」
「……そうだね」
梅子が覚悟を固めているのを、加藍は理解していた。
立ちすくんだ体を、何とか奮い立たせている。
「……でもね……やっぱりね……怖い……怖いよ……学校に行くのは……怖い……」
絞り出すような言葉とともに、袖はさらに涙を吸った。
「それに行ったって、優ちゃんを助けられるのかな? 何も解決できないんじゃないかな? 私には兄さんとの居場所があるけど、私がやったことが悪く働いて、優ちゃんから学校を取り上げることになっちゃわないかな?」
慰めだけでは傷つく。
現実だけでは折れてしまう。
その間に言葉を置くことは難しい。
「今までの事の全部を解決することは難しいかもしれない。でも、優さんはきっと、ウメちゃんが来てくれるだけで喜んでくれると思う。絶対に笑ってくれるさ」
「……うん」
それが気休めであることを理解しながら、それでも梅子は涙声で頷いた。
「……全てにおいて、ウメちゃんは何も悪くない。だから謝る必要なんてどこにもない。……けど、あの子達にはそれが必要なんだね……」
微笑みが消える。
梅子が見ていないのを幸い、滲み出た黒い感情を押し隠す。
「あの子達も、他人を貶めることでしか自分を保てない弱い子達なんだ。いや、自分の弱さを認めてないのだから、君よりもっと――」
そこまで言ったところで、梅子の強張りに気づく。
「ああ、ごめん。人を悪く言ったって、後味悪いだけだから口には出さないでおこうって約束だったね」
自戒のために、加藍は静かに目を閉じる。
深い呼吸で感情を流し、いつもの優しさへと戻していく。
「……波風立たせないで、あの子達の理不尽な怒りを静めるには、ウメちゃんが頭を下げることが最善なんだと君は考えているんだね?」
梅子はゆっくりと頷いた。
「……私は在宅でいることを選んで、これからも辞めるつもりなんてない。でも、だからこそ学校には、あんまり関われない。そんな私が……“在宅の私”が、あの子の前で土下座すれば、あの子も満足すると思うの」
震える声。
それでも、その結論は真剣に考え抜いたものだった。
加藍は胸の奥で、梅子の恐怖をそのまま受け取る感覚を味わった。
彼女は傷つきやすい。
恐怖はすぐに器から溢れ、心の全体を濡らしてしまう。
溺れてしまうこともある……だからこそ、支えなければ。
「情けなくて、恥ずかしくって、惨めだけど……私はそうしたいと思う」
その真面目さと純粋さを、加藍は誰よりも知っていた。
だからこそ、折れやすい芯を守りたいと思った。
同時に、その芯を折ろうとする存在を、激しく憎悪した。
「……そうなんだね」
憤怒を押し殺し、優しさだけを梅子へ向けて。
加藍は、静かに頷いた。
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🎍新年のご挨拶🎍
あけましておめでとうございます!
昨年はたくさんの応援や温かいお言葉を、本当にありがとうございました。
今年もこの物語と向き合いながら、精一杯書いていきたいと思います。
本年も、どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
皆さまに、たくさんの御多幸が訪れますように🍊
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