第1話
翌日の放課後、俺は自分の行動に、言葉にしづらい小さな違和感を覚えていた。
授業中、ふと視線が時計へ吸い寄せられる。針は確かに動いているはずなのに、その進みはどこか粘つくように重たく、けれどそう思う自分が可笑しくて、無理に教科書へと視線を戻す。だが、数分も経たないうちに、また同じ場所へ目が戻っている。
昨日の校門で聞いた、あの細い声の余韻が、耳の奥に留まり続けているせいだ。
「……明日も、来ますよね」
雨に濡れた前髪の隙間から覗いた、揺れる瞳。そのときの自分の返事——「多分、来る」——が、妙に胸の内側に張りついて離れない。
チャイムが鳴り、教室の空気がざわりと動く。
周囲の生徒が騒ぎ出す中、俺はいつもより静かな手つきで鞄を肩に掛け、廊下へ出た。湿気を含んだ放課後の空気は、雨の残り香を含んでどこか澄んでいる。窓の外では、昨日の名残りの水たまりが午後の光を受けて、薄く震えていた。
そのとき、背後から、覚えのある足音が近づいてくる。
一定の間隔で、一定の深さで。まるで、昨日の続きをなぞるみたいに。
今日も来た。
約束したわけでもなく、言葉を交わしたわけでもない。
それでも二人とも、今日を当然のように「続き」として迎えている。
胸の奥で、何かがひっそりと弾けた気がした。
▼
校舎裏のベンチに辿り着くと、雨上がり特有の濃い匂いが漂っていた。
濡れた土の匂い、刈り残された草の匂い、そして雨が世界を洗い流したあとの、どこか新しい空気の匂い。ベンチの座面にはまだ細かな雫が残っていて、俺はハンカチでそれを拭い、ゆっくり腰を下ろした。
彼女も隣に座る。いつものように、気持ちだけ距離を空けて。
——しかし今日は、いつもの「らしさ」が欠けていた。
彼女は鞄から青い文庫本を取り出したが、ページを開くことなく膝に置き、指先で表紙をやわらかくなぞっている。
いつもは、読むふりだけはしていた。目は文字を追っていなくても、少なくとも本は開いていた。
今日は、それすらしない。
俺は空を仰ぐ。薄い雲がゆっくりと引いていくその向こうに、雨を飲んだ世界の柔らかな光がある。濡れた葉は夕方の光を反射して、どこか心の底を撫でるような明るさを携えている。
沈黙が落ちる。
いつもなら優しい沈黙なのに、今日は少しだけ重たく、つかみどころがない。
風が吹き、湿り気を帯びた空気が二人の間を通る。
その沈黙は、昨日のものとも、今までのものとも違っていた。
何かが変わろうとしている——そう思わせる静けさだった。
「……昨日」
不意に、彼女が口を開いた。
その声は、雨上がりの空気に紛れそうなほど小さかった。
「昨日、帰るとき……どうして、立ち止まってくれたんですか?」
予想外の問いだった。
告白ほど重くはなく、確認にしては勇気を必要とする。そんな微妙な色をした言葉だった。
俺は言葉を選ぶ。
曖昧に逃げることもできたが、それは嘘になる気がした。
「声が……なんか、その……放っといたら後悔しそうで」
彼女の指が表紙の上で止まる。
ほんの刹那、彼女は息を呑んだ。
「……そう、なんですか」
その声は、さっきよりもさらに細く、揺れていた。
沈黙が戻る。
だがその沈黙は、明らかに距離を縮めていた。
ほんの一センチ。
されど確かに。
▼
ぽたり、と音がした。
見上げると、枝先に残った雫が落ち、彼女の文庫本の青い表紙に小さな輪を描いていた。
「あ……」
彼女が本を引こうとした瞬間、俺も反射的に手を伸ばして庇おうとする。
そして——触れた。
彼女の細い指先に、俺の手の甲がかすかに触れた。
それは一瞬で、けれど驚くほど鮮明な感触だった。
「……っ」
彼女が小さく息を呑む。
俺が慌てて手を引くよりわずかに遅れて、彼女の手が離れる。その遅れが、なぜか胸の奥を静かに揺らした。
「ご、ごめん」
「いえ……大丈夫、です」
本を拭く彼女の手元は、いつもより少しぎこちなく見えた。
俺は視線を上げ、雨上がりの空を吸い込む。
心臓の鼓動が、普段より一拍だけ速い。
「……濡れちゃいましたね」
「すぐ乾くよ」
「はい……」
沈黙。
だが今度の沈黙は、どこか柔らかかった。
風が止む。
水たまりに映る空がわずかに揺れ、また静まる。
▼
校門へ向かう帰り道、足音は自然と揃っていた。
昨日より一歩分だけ、互いの距離が近い。
別れ道に差しかかると、彼女は昨日と同じ場所で立ち止まった。
前髪にはまだ雨の名残が宿っていて、それが夕映えに溶けるようにきらめく。
「……その、今日も……来てくれて、ありがとうございました」
俺は首を振る。
「別に。来たかっただけだよ」
彼女は小さく笑った。
昨日より自然で、昨日より一瞬長い笑みだった。
「……また、明日」
そう言って歩き出した彼女の文庫本から、薄い紙片がひらりと落ちた。
「落ちたぞ。栞」
拾い上げた栞には、端に小さな苗字が書かれていた。
丁寧な筆跡で、けれど少しだけ恥ずかしげに。
彼女は顔を赤くして駆け寄り、両手で受け取った。
「あ、ありがとう……ございます」
去っていく背中は、今度は逃げるようではなく、ただ照れているように見えた。
▼
歩きながら、俺はさっき見た文字を思い返す。
初めて知った彼女の苗字。
それだけのことで、どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。
濡れた地面には夕方の光が反射していて、昨日より世界が少し明るく見えた。
雨上がりの道は、確かに昨日よりも優しかった。
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