第2話

 翌日、俺は授業中に何度も彼女の苗字を思い出していた——教科書の行間に、黒板の文字の隙間に、その二文字がちらついて消えないのだ。

 昨日、しおりの端に書かれていた小さな文字。


 島崎しまさき


 そう書かれていた。

 教科書を開いていても、黒板を見ていても、その二文字が頭の中に浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がってくる。ふと視線を向けると、彼女は相変わらず静かに席にいる——窓際の三列目、いつもと変わらない姿勢で、教師の言葉を聞いているのか、それとも別の何かに意識を向けているのか、その表情からは読み取れない。

 でも、今は違う。


 名前を知ってしまったのだ。

 名前を知らないままで会っていた時間が、今になって急に奇跡のように思えた——あの沈黙の中で、あの距離の中で、互いの名前すら知らずに並んで座っていたことが、非常に稀有で、繊細で、壊れやすいものだったのだと、今更ながら理解する。


 あんなに自然だった沈黙が、今は少しだけ不自然な気がする。名前を知っているのに、呼ばない。呼べない。それが妙に意識されて、教室の空気そのものが変質したかのような錯覚に囚われ、小さな焦りが胸の奥底でじわじわと育ち始めている。




 ▼




 チャイムが鳴る。


 鞄を肩に掛けて、廊下へ出る——放課後の空気が、いつもより濃密に感じられた。

 背後から、あの足音が近づいてくる。


 しかし今日は、昨日よりわずかに近い距離でついてくる気がした——もしかしたら気のせいかもしれないが、確かに音が近く、その足音の持つリズムが、俺の心拍と微妙に共鳴しているような感覚すらある。


 廊下を歩きながら、俺は二度ほど口を開きかけた——何か言おうとして、でも適切な言葉が見つからず、結局何も言えずに唇を閉じる。

 振り返ると、彼女も唇を動かしかけて、止めていた——まるで鏡に映した自分の動作を見ているかのように、二人は同じタイミングで躊躇し、同じように沈黙へ戻っていく。


 二人とも、名前の話題を避けながら、しかし激しく意識している。


 校舎裏のベンチに着くと、いつものように座る——古びた木材の感触が、今日はいつもより確かに手に伝わってくる。


 彼女も静かに腰を下ろす。今日は昨日よりさらに、距離が近い気がした——物理的な距離は数センチの差に過ぎないが、その数センチが持つ意味は、昨日までとは比較にならないほど重い。


 彼女は鞄から文庫本を取り出した——青い表紙、そして白いしおりがページの間に挟まっている。昨日、地面に落ちて俺が拾い上げたあのしおり。今日は落とさないよう、まるで壊れ物を扱うかのように慎重に扱っているのが、その指先の動きから見て取れる。


 本を開くが、視線は文字を追わない——ページの上に落とされた視線は、活字を読むというより、何か別のものを探しているかのように、一点に留まったまま動かない。

 俺も空を見上げるが、何を見ているのか自分でもよく分からない——雲の形も、空の色も、視界に入っているはずなのに、意識はそこにない。


 沈黙が流れる。


 いつもなら心地よい沈黙のはずなのに、今日は少しだけ重い——まるで透明な液体の中に、わずかな濁りが混じったかのような、そんな微妙な違和感がある。


 "名前"という言葉が、二人の間に見えない壁のように立っている——いや、壁というより、透明な膜のようなものかもしれない。触れれば破れてしまいそうで、だからこそ慎重にならざるを得ない、そんな脆い境界。


 風が吹いた。


 俺は思わず口を開いた。


「あの、昨日の……名前」


 彼女はびくりと肩を震わせた——まるで静寂の中に突然石を投げ込まれた水面のように、その小さな身体全体に波紋が広がるのが見えた気がした。


 本を持つ手が、わずかに強張る。


 でも、俺は最後まで言えなかった——言葉が喉の奥で引っかかって、それ以上進まない。


「……なんでもない」


 自分でも情けないと思う返答だった。


 彼女も、何か言おうとして言わない——唇が動いて、息を吸う音がわずかに聞こえて、でも声にならずに、また静寂へ戻っていく。


 "名前"が二人の喉元に引っかかったまま、沈黙が続く——その沈黙は重く、しかし同時に、何かを待っているかのような期待をも含んでいた。


 そのとき、突然の春風が吹いた——予告もなく、強く、容赦なく。


 強い風。


 彼女の本のページが激しくめくれて——まるで鳥が羽ばたくかのように、紙が音を立てて翻る。


 白いしおりが、ふわりと宙を舞った。


「あ……」


 彼女が慌てて手を伸ばす——その動作は反射的で、しかし間に合わない。

 しかし俺の方が早かった。


 地面に落ちる前に、空中でしおりを掴む——その薄い紙の感触が、指先に残る。

 彼女と、視線が合った。


 昨日よりも長い時間——数秒なのか、それとも数十秒なのか、時間の感覚が曖昧になる。


 俺はしおりを彼女へ差し出しながら、口を開いた——今度は、言葉が喉の奥で止まらなかった。


「昨日も……これで、君の苗字知ったんだよ」


 彼女は唇を噛み、小さくうなずいた——その仕草には、恥ずかしさと、それを認めることへの勇気とが混在していた。


「……恥ずかしかった、です」


 その声は小さくて、でも正直で。


「うん、まあ……俺も、ちょっと恥ずかしい」


 彼女は少しだけ、ほっとしたような表情を見せた——肩の力が抜けて、呼吸が深くなって、緊張の糸がわずかに緩む。


 恥ずかしさを共有できた。


 初めて、感情を分け合えた気がした——言葉にならない何かを、互いに認め合えた瞬間。


 沈黙が戻る。


 しかしその沈黙は、さっきまでのものより軽い——重苦しさが消えて、代わりに柔らかな期待のようなものが漂っている。

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