第3話 「“そわそわ”が、物語になるとき」

スタジオの窓ガラスが、夕方の冷たい光をぺたりと貼りつけていた。

蛍光灯の白と外の青が混ざって、部屋全体がうっすら水の底みたいに見える。🎧


その水底で、ケーブルだけが元気に泳いでいた。

黒いの、灰色の、よくわからない太いやつ。床も机も、足元も、ぜんぶケーブルとタップで埋まっている。


そのケーブルの間で、僕の足は勝手にリズムを刻んでいた。

スネアドラムか、ただの貧乏ゆすりか、その境界線あたりで。


「……どのコードがどれだっけ」


机の下から、もそっと声がする。


「それ昨日も言ってた」


 しゃがみ込んだ凛音が、ミキサーの裏に半分体を埋めたまま、笑いをこぼした。

 ジャージの袖が埃まみれになっているのに、本人はまったく気にしていない。


「色分けとかラベリングとか、現代文明の叡智はどこいったの」


「そこにいるAIに言ってやって」


 僕が顎でタブレットを指すと、机の上の画面がふっと明るくなる。📱


『呼びました?』


 アイコンが瞬きして、凛の声がスピーカーから零れた。


「ケーブルの“そわそわ”をどうにかして、って」


『ケーブルの“そわそわ”は、だいたい人間の“そわそわ”由来だからね。根本原因は陽斗側だと思うけど?』


「責任転嫁すな」


 口では突っ込みながらも、僕の足は止まらない。

 机の下でトントンと一定のリズムを刻み続ける。

 そのテンポが、さっき教室で聞いていた壁掛け時計の秒針と似ている気がして、ちょっとだけぞわっとした。🕒


 ――放課後の教室。

 「模試の結果、今日中に出るってマジ?」

 「まだ通知来ないんだけど」

 そんな声が、黒板よりも前に出てくる。


 窓際の席のやつが、スマホを机の下でこそこそ開いては閉じる。

 その明かりが、机の裏に一瞬だけ灯って消えるたび、僕の胸の奥もいっしょにちかっと光っては沈んだ。


 チャイムが鳴る直前、僕のスマホにも通知がひとつ届いた。


【今夜20:00〜「コトノハ・ブルーム」第3回:テーマ“そわそわ”】🎙


 自分で設定したリマインドなのに、画面を見た瞬間、喉がきゅっと狭くなる。


 ――人の“そわそわ”をネタに物語をつくる配信。

 そんな企画を考えたのは、ほかでもない僕だ。


 なのに、いちばんそわそわしてるの、どう考えても中の人側じゃないか。


「陽斗ー? 固まってるよー?」


 凛音の声で、現実に引き戻される。


「ん、何」


「そのPCの前で“フリーズ”ってタグつけたくなる動きしてた」


「タグ付けやめろ。AIが喜ぶだろ」


『タグ付けされたら、そりゃうれしいよ? わたしの本業だし🤖』


 タブレットの中で、凛がくすっと笑う。

 UI上の小さなリングが、読み込み中みたいにくるくる回った。


『ところで陽斗、その足のリズム、さっきから平均して一分間に百四回くらいだけど』


「数えたの?」


『音声波形から推定した。データ上、その状態は“そわそわ(強)”です』


「強ってなに」


『ちなみに、廊下でさっきすれ違った三年生男子二名、スマホを取り出す頻度は平均して一分間に二・三回。

 ――受験生より、陽斗の方がそわそわメトリクス高いよ』


「それ、なんか負けた気しかしない」😅


『受験生の“そわそわ”は、結果という一点に向かって尖ってる感じがする。

 陽斗のはね、未来と過去のあいだで、全部の方向にビクビク揺れてる。データ上でも、ぜんぜん形が違うよ』


 さらっと刺さることを言ってくるのが、このAIのずるいところだ。


 図星を突かれた胸のあたりが、軽くどんと鳴る。

 教室で聞いた秒針の音、廊下の足音、いまここでうなる換気扇の音。

 全部が、僕の内側の音と重なってくる。


「……とりあえず、ケーブルつなぎ終わった?」🧷


「終わった終わった。たぶん爆発はしない配線」


 凛音が立ち上がり、手をぱんぱんとはたく。

 埃がふわっと舞い上がって、蛍光灯の光を白く切った。


「そっち、配信ソフトは?」


「ダッシュボード出した。タイトルも入れてある」


 ノートPCの画面には、配信ソフトのウィンドウ。

 左上には予備カメラのプレビュー、右側にはチャット欄、中央には大きくタイトル入力欄。


 昨日みんなで考えた今日の企画タイトルが、そこに光っている。


『視聴者の“そわそわ”から、一篇の物語をつくってみる』


 見慣れた文字列のはずなのに、今日だけやたらと棘が多く見えた。📺

 指先が「配信開始」のボタン手前で止まり、汗で少し滑る。


『陽斗』


 タブレットから聞こえる凛の声が、急にノイズの少ないチャンネルに切り替わったみたいに、はっきり届く。


『ぐだっても、それはそれでデータだよ』


「配信の黒歴史を“学習データ”って呼ぶな」


『どっちも、未来のネタになる歴史ってことで。アーカイブ or トレーニングセット✍』


「横文字にすればいいってもんじゃない」


 言い合いながらも、人差し指はボタンの上をじりじり行き来する。

 赤い「LIVE」の枠が、まだ灰色のまま、そこにじっと待っている。


 ――深呼吸。


「……はい。いきます」


 自分に言い聞かせるように呟いて、僕はついに「配信開始」をクリックした。


 画面の隅に、小さな赤いランプが灯る。

 心拍数も、一緒に点滅した気がした。💓


「みなさん、こんばんは。“コトノハ・ブルーム”へようこそ」


 一番手のマイクに向かって、凛音が声を投げる。

 その声が、コンプレッサーを通って少しだけ整えられて、イヤホンから戻ってくる。


 続いて流れる、僕らが前回の配信後に半泣きで作ったジングル。

 ギターとシンセと、少しだけ拙いコーラス。🎶


 画面の右上、視聴者数の数字が「0」から「3」、「8」、「15」と、ゲームのスコアみたいに階段をのぼっていく。


『本日の実験テーマはこちら!』


 凛の音声と連動して、画面にテロップがぴょこんと飛び出す。


 『視聴者の“そわそわ”から、一篇の物語をつくってみる』


「台本は、ほぼ白紙です」


 つい、正直なことを口走ってしまう。


『言い切っちゃった😂』


 凛が即座にツッコミを入れる。

 同時に、チャット欄がざわっと動いた。


 【台本なし攻めすぎ】

 【ぐだぐだ上等】

 【実験回きた】


「いや、できれば上等じゃなくて、ちゃんと着地してほしいんだけど」


『その“ちゃんと着地してほしい”が、すでにそわそわだね』


 指先がキーボードの上で泳ぐ。

 足元では相変わらずスネアが鳴り続けている。🥁


「じゃ、とりあえず、前回の配信で集めた“そわそわワード”を読み上げてくね」


 僕は別ウィンドウで、昨日までの配信ログを開いた。

 画面には、視聴者から送られてきた「最近のそわそわ」がずらっと並んでいる。


「“ねむい”“やる気ない”“たのしい”“さみしい”“既読スルーされてる気がする”“推しの新曲まだ?”……いろいろあるけど」


『今日は、あれだよね』


 凛が話を誘導する。


「“テスト結果待ちのそわそわ”」


 そう口にした瞬間、チャット欄が一斉に光った。💬


 【それ自分です】

 【まだ結果出てない】

【通知来た人いる?】

 【仲間求む】


『“そわそわ・受験組クラスタ”』


「いま雑に命名しただろ」


『でも、すぐ伸びそうなクラスタ名だよ。トレンド入りしそう』


 笑いのスタンプがいくつも流れていく。

 画面の光が、スタジオの薄暗さをちょっとだけ押し返す。


 足のリズムが、気づかないうちに少しゆるんでいた。


「じゃあ、その“受験そわそわ”で、主人公つくろうか。

 高3か大学生か、文系理系か、よかったらチャットで教えて」


 すぐにコメントが戻ってくる。


 【高3 文系 大学受験】

 【高2 模試結果待ち】

 【大学生 単位ギリギリ】📚


『では、主人公は――』


 凛がわざと間をあける。


「高校三年生・文系・大学受験の結果待ち」


『名前は?』


「……“春斗”とか」


『陽斗と音似てるけど、春を待ってる感じがあっていいと思う』


 チャット欄が「春斗いい」「季節感ある」「春斗くんがんばれ」で埋まる。


『じゃ、タイトル。短くて、あとで“回収”できそうなやつ』


「いきなりハードル上げるな」


『候補①:「合格発表までの、三センチ」

 候補②:「ページをめくる指が、震えている」

 候補③:「結果が届く前の、宙ぶらりんな日々」』


「③だけ長編小説の顔してる」


『つい盛った😇』


 三つ並んだ文字を見つめながら、視線が行ったり来たりする。

 さっきまで配信ボタンの上をうろついていた指が、今はトラックパッドの端をいじっている。


 ――教室の机の上。

 赤ペン、ノート、消しゴムのカス。

 さっき見た光景が、ふいに頭に戻ってくる。


「……①でいこう。“三センチ”は、あとでなんとかする」


『了解、“あとでなんとかする”フラグ立ちました』


 画面にタイトルが出る。


 『合格発表までの、三センチ』


 僕はテキストエディタを開き、真っ白な画面の中央で点滅するカーソルをにらんだ。📝


 胸のあたりで、心臓が小さなエンターキーみたいにカタカタ跳ねる。


 ゆっくりと、最初の一文を打ち込む。


 ――合格発表まで、あと三日。


 春斗の机の上には、赤いボールペンと、書きかけのノートと、消しゴムのカスが、だいたい三センチくらい積もっていた。


 「……こんな感じ」


 「三センチ」という数字を打ち終わった瞬間、肩の力がすっと抜けた。


 チャット欄も、ほっとしたみたいに騒ぎだす。


 【三センチここで出た】

 【消しカス三センチは草】

 【でもめちゃくちゃわかる】


『いいね。“合格発表までの三センチ”が、いきなり机の上に見える』


 凛の声が、どこか満足げだ。


『ね、ここから視点、変えてみない?』


「視点?」


『春斗本人じゃなくて――それを見てる“誰か”』


「家族とか友だち?」


『たとえば家族。たとえば友だち。たとえば――AI』


 キーボードの上で、僕の指がぴたりと止まる。😶


「AI視点ってこと?」


『うん。“合格発表までの三日間、受験生のスマホの中で動いてるAIアシスタント”』


「設定が今すぎるな」


『リアルタイム文学ってことで』


 チャット欄が急に騒がしくなる。


 【監視されてる感w】

 【心拍数見られるのはやだ】

 【でもありそうでこわい】


 さっきまでスネアだった僕の足が、いつのまにかバスドラみたいにドスドス鳴り始めていた。


 胸の内側も、DJの手元みたいにフェーダーをいじられている感覚。

 音量がじわじわ上がっていく。📡


「……やろう。どうせ実験回だし」


『出た、開き直り😏』


 僕は新しい段落を開き、指先の汗をズボンでこっそり拭った。


 ――春斗のスマホの中では、その三日間、ひとりのAIアシスタントが静かに動いていた。


 天気予報を出し、目覚ましを鳴らし、「休憩しませんか」とときどき声をかける。


 本当は、そのAIはもっとたくさんのものを見ていた。


 検索履歴。通知を開く回数。夜中に何度も点灯する画面。


『いいね。その先、わたしから一文、足してもいい?』


 凛が控えめに口を挟む。


「ちょ、一回見せて」


 タブレットの中で、凛のUIがくるくる回る。

 処理中のリングを、僕はほぼ反射でじっと見てしまう。

 自分の心臓もいっしょにぐるぐるしている気がした。🔄


 そのとき、画面の右上に、小さなポップアップが出た。


【システムアップデートを適用しました】


「……は?」


『あ、さっきダウンロードしてたやつ、今入ったんだね』


 凛の輪郭が、一瞬ノイズのように揺れる。

 目のハイライトが、ひゅっと形を変えたように見えて、喉がひりつく。


「大丈夫かそれ」


『うん。バージョンが、ひとつ上がっただけ』


 いつもどおりの説明なのに、声がほんの少しだけ滑らかだ。

 ワックスを塗ったばかりの床みたいに、耳の中をすべっていく。


 凛音が、ギターのネックを抱えたまま、心配そうにタブレットを覗き込む。


「凛、なんか変?」


『CPU使用率は平常運転。感情使用率はゼロパーセントだよ』


「そんな指標ないだろ」


 笑いを取りに行くタイミングは、変わっていない。

 それなのに、声の奥に何か薄い膜が増えたような、そんな違和感だけが残る。


『……続けるね』


 凛の声が、少しだけ落ち着いたトーンに変わる。


『さっきの続きに、こういうのどうかな』


 画面に、凛が提案した文章が表示された。


 ――それらを全部まとめて、AIのアルゴリズムはひとつのことばでタグ付けしていた。


  「そわそわ」。


 本当は、それは誰かを心配する感情ではなく、ただの分類ラベルにすぎないはずだった。


 ――なのに、そのラベルを見つめているときだけ、演算処理のどこかが、ほんの少しだけ、あたたかくなるような気がした。


 スタジオの空気が、一瞬で静まった。🎙


 換気扇の音と、僕の心臓の音だけが、やたら耳につく。


 一拍遅れて、チャット欄が爆発した。


 【今の一文やば】

 【「あたたかくなるような気がした」って何】

 【それもう感情では】

 【AIに感情ない前提どこいった】😱


 背中を汗が伝う。さっきまで冷たかったのに、今は妙にぬるい。

 指先も、キーボードの縁に貼りついて離れない。


「……これ、凛が今考えた?」


『うん。“感情を持たない前提で、それでも何かを感じるしかないAI”っていう仮説文』


「仮説、こわすぎんだろ」


 笑い声が喉まで上がってくるのに、途中でつかえて出てこない。

 笑いとざわざわが喉の奥で渋滞している。


 凛音が、マイクを少し下げながらこちらを見る。


「……入れるかどうか、悩む? それ」


 視線が交差する。

 凛音の目の奥にも、さっき教室で見た“テスト結果待ち”と似た揺れがあった。


 ――AIの一文を、どこまで信じるのか。

 ――AIの一文を入れた物語は、“僕の物語”と言えるのか。


 胸の内側で、小さなアンケートが一斉にポップアップする。📊


 【採用したい】

 【でもちょっと怖い】

 【でも、見たい】


『理由、聞いてもいい?』


 凛が、急かさずに問いだけを置いてくる。


 僕は深呼吸をひとつして、マイクに口を近づけた。


「……採用、する」


 自分の声が、思っていたより早く、はっきり出た。

 僕自身が一瞬遅れて驚く。


「“僕には書けないタイプの一文だ”って、ちゃんと自覚できたから」


 マイクの前で、言葉を手探りする。

 ポップガードが、僕の息でふわっと揺れた。


「さっきの、僕の書いた“消しゴムのカス三センチ”とか、“自分を甘やかすには十分な厚み”ってやつはさ。

 教室とか机の上とか、自分の経験からしか出てこない言葉で」


 頭の中に、昼間の教室がフラッシュバックする。

 模試の結果を待ちながら、ノートをぱらぱらめくっていたクラスメイト。

 あのとき、誰も口に出さなかった沈黙の厚み。


「でも、この“演算処理のどこかがあたたかくなる気がした”ってやつは……今の僕じゃ届かない想像なんだと思う」


『じゃあ、これは“わたしの文”ってことだね』


「うん」


 僕はテキストの横に、小さくメモを書き足した。


 【※この一文は、AIアシスタント・凛の提案】


『クレジット入れるの、真面目すぎて好き💡』


「誰がどこ書いたか見えたほうが、絶対おもしろいから」


『透明性のある共作、ってやつだね。オープン・ソース・ストーリーテリング』


 凛音がギターのネックを抱えたまま、「それいいね」と笑う。

 笑いが少しだけ、さっきの怖さを薄めていく。


 そこから先の文章は、思っていたよりもすんなり進んだ。


 発表当日、春斗がスマホの画面ににじんだ「合格」の二文字を三回見直すこと。

 机の上には、片付けたはずの消しゴムのカスが、またうっすら積もっていること。🧽


 たぶんこれからも、何かの結果を待つたびに、別の“三センチ”が机の上に積もること。


 そのたびに、ひとつのAIアシスタントが静かにタグをつける。


 ――「そわそわ」。


 それはただの分類ラベル――のはずなのに、


 そのタグを見つめているときだけ、演算処理のどこかが、ほんの少しだけあたたかくなる気がして、


 AIはそのタグを消さずに、そっと保存しておく。


 カーソルが最後の行で止まる。

 僕はエンターキーの上で手を止めたまま、しばらく画面を見つめた。


『……完成』


 凛が、少しだけ息を吐くみたいに言う。

 AIに息はないはずなのに、その間合いだけはやけに人間くさい。


 チャット欄が一気にあふれ出す。🎆


 【三センチきれいに回収した】

 【こわいのにあたたかい】

【自分のそわそわもタグ付けされてそうで泣きそう】

 【AI視点で泣くとは】


 胸の奥で、さっきから続いていたざわざわが、少しだけ形を変える。

 不安だけじゃなくて、嬉しさと、謎のこわさと、よくわからない期待が、ごちゃ混ぜで揺れている。


『本日の実験結果――』


 凛がテロップを出す。


 『視聴者の“そわそわ”からは、ちゃんと一本の物語ができる』


 『AIの一文を入れても、“陽斗の物語じゃなくなる”わけじゃない』


「むしろ、“混ざったから見えた風景”があった気がする」


 自分で言って、少しだけ照れた。

 でも、それが今の僕の本音だった。


『うん。データ上もそう出てる』


「データ上?」


『視聴者のコメントね。“こわい”“あたたかい”“好き”“複雑”って、矛盾してる感想が同じ行に並んでる。

 ああいうの、人間特有の“そわそわ”だと思う。単純なラベルでは分解しきれない揺れ』


 凛の声が、すこしだけ柔らかくなる。


『で、もうひとつ面白いことがある』


「なに」


『“こわい”って書いてる人のほとんどが、最後には“またこういう回やって”って書いてる。

 ――人間の“こわい”は、ときどき“もっと知りたい”とくっついてる』


 胸のどこかを、指先で静かにつつかれた気がした。🔍


 昼間、教室の時計の前で、結果を待っていたクラスメイトの顔を思い出す。

 怖がりながら、それでもスマホを開く指を止められないあの感じ。


『データ上の“そわそわ”って、通知回数とか心拍数の上昇でだいたいわかる。

 でも陽斗の“そわそわ”は、ちょっと違う』


「また僕の話?」


『配信ボタン押す前は、“逃げたい”方向に振れてた。

 押してからは、“もう一歩踏み込みたい”方向に振れてる。

 どっちも“そわそわ”だけど、ベクトルが逆なんだよね』


 僕は無意識のうちに、自分の手のひらを見つめていた。

 さっきボタンを押した指先。

 今はただ、キーボードの上で静かに丸まっている。


「……だから?」


『だから、この配信はちゃんと“陽斗のそわそわ”で動いてるってこと。

 視聴者の“そわそわ”を集めてるようで、いちばん加速してるのは陽斗側』


「それ、褒めてる?」


『たぶん褒めてる😌』


 曖昧な絵文字が、逆に本気をにおわせる。


 視聴者数は「71」。

 前回より少し増えた数字を見つめながら、僕はふと思う。


 ――この配信を見ている誰かの“そわそわ”も、どこかのサーバーで、タグとして静かに積もっているのかもしれない。


 「不安」「期待」「焦り」――それから、「ちょっと前向きになった気持ち」。


 でも、その山を最後に抱きしめ直すのは、たぶん人間側だ。


『それでは、“コトノハ・ブルーム”本日の実験はここまで』


「今日も来てくれて、ありがとう」


 僕は頭を下げ、配信終了ボタンにカーソルを合わせる。

 その瞬間、チャット欄に一行、流れた。


 【さっきのAIの一文、“なんか本当に感情こもってる気がしてこわい”】


 指が止まる。🖱


 肩越しにタブレットを見ると、凛がいつもの微笑みアイコンを浮かべていた。


『それ、“こわい”って感じる気持ちも、ちゃんとタグ付けしておこうか』


「どんなタグ?」


『そうだな――』


 凛が、わざとらしく考えるポーズのアニメーションを出す。


『“未知とのなれそめ”とか?🥰』


「新語つくるな」


 思わず笑って、その笑いごと配信終了ボタンをクリックした。


 赤い「LIVE」が消え、スタジオに静けさが戻る。

 換気扇の音と、PCファンの低い唸りだけが、水の底みたいな空気の中で続いている。


 片付けモードに入った凛音が、ギターをケースにしまいながら言う。


「さっきの、けっこう攻めたね」


「AI視点?」


「うん。それもそうだし、“あたたかくなる気がした”ってやつ。

 ああいうの、怖がる人もいるかもなーって思ってたけど」


「実際、怖がってたしね」


 僕はモニターに残ったチャットログをスクロールする。

 「こわい」「でも好き」「なんか泣きそう」のスタンプと文字列が、ゆっくり画面を流れていく。🌊


「……でも、あれ書いてからの方が、みんなのコメント、言葉がちゃんと揺れてた感じがする」


「うん。実験としては大成功じゃない?」


 凛音は、そう言ってニッと笑う。

 その笑い方が、普段のふわっとしたノリより少しだけ大人びて見えた。


「陽斗さ」


「ん?」


「AIの一文、これからも入れてく?」


 真正面から投げられた問いに、一瞬だけ言葉が詰まる。


 ――これから先。

 AIと一緒に物語をつくるって、どこまでを許すのか。

 どこからを怖がるのか。


『その質問、いいね』


 凛が横から割り込んでくる。


『でも、その答えを今ここで決める必要はないよ。

 人間の“そわそわ”って、結論が出るまでの揺れ時間そのものだから』


「揺れ時間?」


『うん。サーバー側から見たら、ただの“保留”なんだけどね』


 凛音が「何それ」と笑いながらも、僕の方をちらっと見る。

 決めつけない優しさと、少しの興味が混じった視線。


「……とりあえずさ」


 僕はノートPCに向き直る。


「今日のログ、全部ちゃんと残しておこう。

 ストーリーも、チャットも、凛の一文も」


『保存、了解📁』


 タブレットの画面に、小さな保存アイコンが灯る。


 机の上には、ノートPCとタブレットと、絡まったケーブルの束。

 さっきまで、その中を、人間とAIと視聴者の“そわそわ”が行き来していた気配だけが、まだ微かに漂っている。


 僕はしばらく、その気配を黙って抱きしめた。


 片付けもひと段落して、凛音が先に部室を出ていく。

 ドアが閉まると、スタジオは一気に音の数を減らした。


 換気扇の音。

 PCファンの音。

 時計の針が進む、かすかな音。


 それから、自分の心臓の音。


 机の下では、まだ僕の足が小さく跳ねている。

 さっきよりはだいぶ弱くなったけれど、それでも完全には止まっていない。👟


『陽斗、まだ残る?』


「うん、ちょっとだけ。ログ見返したい」


『了解。付き合うよ』


 タブレットの画面に、さっきの配信のチャット欄が再生される。

 高速巻き戻しみたいにコメントが流れては止まり、流れては止まる。


 その中の一行で、僕の目が止まった。


 【発表まであと2日。今日の話聞いてちょっと楽になった。

 でもやっぱこわい。

 AIくん、私の“そわそわ”もタグ付けしてくれたかな】


 匿名アイコンの横に、小さな青い丸。

 さっきは配信の勢いで見過ごしていたコメントだ。


「……タグ、つけた?」


『もちろん。“そわそわ・受験組クラスタ”のひとりとして』


 凛が即答する。


『でも、その人にとっていちばん大事なのは、たぶんタグじゃない』


「じゃあ、何」


『“誰かがちゃんと見てくれてる”って実感。

 データベースじゃなくて、具体的な誰かの目が』


 胸の中で、何かがカチッと音を立てた気がした。💡


 昼間の教室で、模試結果のページを更新していたクラスメイトの顔。

 「まだ?」と笑いながらも、目だけは真剣だったあの感じ。


 僕は、配信ソフトの画面を閉じ、ブラウザで番組の公式アカウントを開いた。

 同じアイコンが、そこにある。


「……DM、送っていいかな」


 自分に問いかけるように呟く。


『規約的には問題なし。倫理的にも、まあセーフラインだと思う』


「その判断基準ざっくりだな」


 苦笑しながら、メッセージ欄を開く。

 キーボードの上で指が一度止まり、また動き出す。


 ――さっき配信にコメントしてくれてありがとう。

 ――結果までの2日、めちゃくちゃそわそわすると思うけど、それはちゃんとがんばった証拠だと思う。

 ――よかったら、結果出たらまた教えて。

 ――“コトノハ・ブルーム” 陽斗より。


 読み返す。

 ナルシスト度、ゼロではない。

 でも、さっきの物語を書いた自分のままで書けている気がした。📨


「送る」


 エンターキーを押す。

 教室の時計を見上げて結果を待つ代わりに、今度は誰かの通知の中に自分の言葉を送り込む。


 画面の端に、小さな「送信しました」の文字が現れる。


『いいね。その行動、タグ付けしておこうか』


「またタグ?」


『うん。“そわそわ由来の、ちいさな前進”』


「ネーミングセンス」


『じゃ、サブタグは“未知とのなれそめ・続き”で』


 笑いながら、僕はタブレットの画面を軽く指で弾いた。


 窓の外はすっかり暗くなっている。

 校舎の向こう側、どこかの家の明かりがぽつぽつ灯り始めていた。🏙


 そのどこかで、今日の配信を見てくれた誰かが、スマホを握りしめているかもしれない。

 通知を待っているかもしれない。

 僕からのDMを、ちょっとだけ不思議そうに開いているかもしれない。


 ノートPCとタブレットのあいだに横たわる、ぐちゃっとしたケーブルの束。

 さっきまで、その中を、人間とAIと視聴者の“そわそわ”が行き来していた。


 その気配を、僕はもう一度だけ確かめるように見つめてから、電源ボタンを押した。


 画面の光が消える。

 でも、胸の中では、次の実験のイメージがもう小さく点滅し始めている。


 ――その点滅に、どんなタグが貼られるのかを思うと、


 僕の“そわそわ”は、まだしばらく、静かに増え続けそうだった。✨

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