相馬の願い

 明朝、目が覚めたのは空が白み始めた頃だった。あまり長くは眠れなかったようだが、随分と熟睡したのか体に疲れは残っておらず、頭もすっきりしていた。


 登は身を起こし、借りた半纏に腕を通して部屋を出る。物音はせず、裏庭の井戸へ向かうべく足音を忍ばせながら土間へ向かう。


 辿り着いて見れば、勝手口の閂は外れていて、おやと思う。耳を澄ませると、井戸のほうからかすかな水音が聞こえていた。


 登はそっと裏庭へ出た。そうして井戸端を見やれば、わずかに湿気を帯びた冷たい空気の中、既に起きて朝食の支度を始めていたらしいマツが、野菜を洗っているのが見える。


「おはよう、マツさん。精が出るね」


 声をかけると、懸命に桶の野菜に向かっていたマツが、ぱっと顔を上げた。


「中島様、おはようございます。お眠りになれましたか?」

「お陰様で、すっきりしてるよ。急だったのに、すまなかったね。ありがとう」


 歩みを寄せて改めて礼を言えば、マツはやわらかくはにかんで、まなじりを下げた。


 顔を洗ってよいか訊ねると、丁寧に場所を譲ってくれたので、手早く済ませる。濡れた顔を手拭いで拭き、登は薄雲のかかった空を仰いだ。


 静かだ。まだ鳥の声もせず、人々が動き出すにも早い時刻で、時折さわりと吹く風の音と、傍らでマツが野菜を洗う水音くらいしか聞こえない。


「中島様は……」


 不意にささやかな、優しい声がかけられる。


 視線を返せば、マツが手を止め、前掛けで手を拭いながら立ち上がって登に向き直った。


「旦那様のご心友であったと、以前から伺っておりました」

「あいつから?」


 思わず訊き返すと、マツはそっとあごを引く。


 どう言葉を返すべきかわからず、登は手持無沙汰に髪をかき上げた。


 当然、否定はしない。その通りであるからだ。登も同じように思っていた。


 ただ、あの忘れもしない日のことを、果たしてマツは知っているのか。


「何か、改めて言われると、困っちまうんだが」


 結局言葉を濁し、登は苦笑で誤魔化した。


 マツはあまり気に留めた様子もなく、ただ物静かに、そして妙に寂しげにも見えるようなハの字眉で微笑みを浮かべた。


「何卒、ご自愛くださいませ。それが、旦那様の一番の願いでもございますから」


 登は答えられなかった。形にならない言葉を舌の上で転がして、しばらくしてからようやく口を開く。


「あいつ、口は上手くないけど、顔に全部出るだろ」


 マツは大きく目を瞬かせた後、ふふ、とかすかな声を立てて笑った。道端に咲く小花が風に揺れるような、ささやかで可愛らしい笑い方だった。


「あいつのこと、頼みます。支えてやってください」


 言うと、マツは目を伏せ、またどこか寂しげに見える微笑みに戻って登に頭を下げた。


「朝食は、お召し上がりになりますか?」

「いや、支度ができたらすぐに出ます。あいつがまだ寝てるなら起こさなくていい。あいつも承知のことなんだが、また近い内、訪ねさせてもらいます」


 マツはもう一度深く頭を下げると、洗い終えた野菜桶を抱えて台所へ向かっていった。


 細い背中を見送って、登は息を吐き、また空を仰いだ。薄雲はかかったままだったが、先より少し青みが増していて、ちょうどどこかで一羽の小鳥が鳴き始めた。

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