大島清慎

「大丈夫だよ、心配性だなぁ」

「はっはっは、おヨネちゃん、すっかり世話女房だなあ!」

「ええ、先生のお世話は、父さんから任された大事な仕事ですもの!」


 番頭のからかいにもうろたえず、ヨネは満足げに表情を花開かせて胸を張った。


「髪の組紐も、わたしが結んだんですよ。先生は妙にヤケッパチなところがあるけど、私のお気に入りを結わえたら、汚さないよう気遣ってくれるんです。見目も今時の傾奇者っぽく箔がつくし、名案でしょ!」


 若さゆえの考えなしか、わかってのことか。よもや二十も歳の離れた登の女房になど本気でなりたいわけでもなかろうが、この積極性には登のほうが閉口するしかない。


 女を懐に入れる気は、今後もうないと思っているから、尚さらだ。


 登は二度、所帯を持つことに失敗している。特に五年前、心友に裏切られた『血生臭さ』は脳裏と鼻腔にこびりついて、未だ吐き気を催すこともある。釘締めされたように、頭の奥が痛むのだ。


 しかしそんなことを知る由もない番頭は、それ見ろとばかりに登を肘で小突いてくる。


「――ああ、すっかり事が済んだみたいですね」


 ふと、ヨネの後ろから新たな声がかかった。酒焼けした耳馴染みのある渋い響きに、登はこれ幸いと身を乗り出した。


「トラさん、無駄足を踏ませてすまない! 来てもらって何だが、助っ人は不要だったよ」


 謝りつつも言葉が少々弾んでしまった登に、現れた男――大島清慎という三十路過ぎの青年は、軽く首を捻っている様子だった。


 大島は登より三つ四つばかり年下だが、元幕臣。先の御一新の戦の折、新選組と共に各所での戦を戦い抜いた同志だった。今はこの浜松の登記所で代書を勤める役人だ。かつて登が大島の命を救った縁があり、戦後に行き場を失くしていた登に声をかけ、浜松宿の顔役に繋いでくれた恩人である。御一新前には大島寅雄と名乗っていたため、登は彼が名を変えた今も親しみを込めて「トラさん」と呼んでいた。


「いやあ、無事なら何より。登さんの呼びかけなら、いくらでも無駄足踏みますよ」


 酒好きのザルである大島は、酒気が抜けていてもすっかり焼けて戻らない声を転がし、明るく笑った。浅黒い目尻に小じわが寄り、頬にえくぼが現れる。五分刈り頭にがっちりした体格だが、笑うと愛嬌が覗くので、威圧を感じさせることのない好漢だ。


「それにちょうど、登さんに会いに行こうと思ってたところですから」

「俺に?」

「大島様。まさかまた、明るい内から先生を酒席に誘おうっていうんじゃないでしょうね」


 小首をかしげた登の隣で、ヨネが胡乱な半眼になって腕を組む。


 大島は、してやられたとばかりに自身の頬を叩き、首をすっこめた。


「主題は酒じゃないんだが、ついでに誘おうと思ってたのがしっかりバレてるなぁ」

「大丈夫だよ、おヨネちゃん。中島の旦那はザルを通り越して枠だから」

「ザルでも枠でも、飲みすぎが体に良くないのは変わりないでしょ!」


 番頭が助太刀をくれたが、正論中の正論に男三人とも頭が上がらず、たじたじになる。


 ヨネは若いが誰よりしっかり者だ。登もヨネの存在には助けられているし、ありがたいとも思っている。


 が、だからこそ余計に――好感の先に血濡れた相貌が浮かび、かつての心友の澱んだ瞳が、ちらつくのだ。頭の芯が、釘で刺され、かき回されたように痛む。


「……トラさん、酒はともかく、話はどこで聞こうか」


 登は改めて逃げを打ち、つつと大島に歩みを寄せて苦笑いした。


 大島も笑みを消しきれないゆるんだ顔で「僕の家でどうですか」と誘導に乗る。


 登はうなずいて、「行ってくるよ」とヨネと番頭に目配せした。


「飲みすぎちゃ駄目ですからね!」


 背にかかる声へ手を振り返し、登と大島は二人して早足になった。

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