第二章:コトバの探求と、静寂の試練
4.真実のコトバを探して
結の診察室には、都心で使っていたものとは違う、古びた木製の机があった。その引き出しから、亡き母の古いノートを取り出す。母の筆跡で書かれた詩の一節を、結は改めて目に焼き付けた。
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すべてのおわりはしぬことでなく なくなることでなく かたかつくことでなく すてることではさらになく ほんとうの これっぽっちのうそのないことの じぶんのうまれたときのコトバにかえるときである
「生まれたときのコトバ……」
それは、救命医療で扱う「心停止」や「生存率」とはあまりにも遠い、純粋で哲学的な概念だった。結は、これから出会う患者たちの「終わり」を、この詩的な定義で捉え直すことから始めなければならない。
ノックの音とともに、元工場経営者の患者、宮内治(60)が入ってきた。彼は末期の肺がんで、しかしその表情は驚くほど穏やかだ。
「瀬尾先生、お疲れ様です。今日もいい天気ですね」
「宮内さん。昨日より体調はいかがですか」
「変わりませんよ。私はずっと『いい製品を作る』という言葉に縛られて生きてきた。でも、残された時間、本当に大事なのは……」
宮内は言葉を探し、結も黙って待った。だが、彼は結局言葉を見つけられず、笑って首を振った。
「言葉が見つからないんです。でも、もうすぐ分かる気がする」
結は戸惑った。都会の病院なら、患者は「苦痛を取り除いてほしい」「命を延ばしてほしい」と明確な要求をする。だが、このホスピスに来る患者たちは、皆、自分の中にある何か真実を探し、言葉の限界に挑んでいるようだった。
5.言葉の鎧と、光の音楽
結は、神楽宙の部屋を訪れる。宙はヘッドフォンを外し、苛立ちを隠せないでいた。
「もうダメです。全然、曲が聴こえない。頭の中で鳴っているはずなのに、遠い海のひびきみたいに、ぼやけていく……」
宙の絶望は、彼がアイデンティティとしていた「音」という形を失いつつあることへの恐怖だ。
「神楽さん。あなたは、ピアノを始めたきっかけを覚えていますか」
「父が、僕のために初めて買ってくれた、小さなキーボードです。その音は、まるで光みたいに明るかった」
「その光、今のあなたには見えませんか?聴こえない音ではなく、その光を追いかけてみませんか。それが、あなただけの**『生まれたときのコトバ』**かもしれません」
宙は何も答えなかったが、窓から差し込む光を見つめ、指先でその熱を確かめた。結の言葉は、彼の絶望の固い殻に、微かな亀裂を入れたようだった。
一方、七瀬薫は、相変わらずタブレットを離さなかった。
「七瀬さん。あなたは、『捨てることではさらになく』、本当に大切にしたいことは何ですか?あなたの人生を固めてきた全てを手放した後、残るものは?」
「私は最後まで私です」
七瀬は傲然と答えたが、その瞳の奥には、恐怖と孤独が宿っていた。彼女の築いた形は、まるで彼女自身を閉じ込める分厚いコンクリートの壁のようだった。
6.海のひびきと、命のしるし
庭では、藤代律が土屋に言葉の哲学をぶつけていた。
「土屋さん。このホスピスは詩的だが、言葉が多すぎる。患者たちは『感謝』だの『後悔』だのと、美しく飾り立てた言葉で自分を包装しようとしている。終わりは、もっと無言の、残酷な真実であるべきだ」
「それは、あなたが過去に語らなかった言葉を、今探しているだけではないか?」
土屋の言葉は、藤代の理知的な鎧をあっさり貫いた。藤代は一瞬たじろぎ、憎々しげに顔を背ける。
「草花の言葉は、いつも一つだ。『だけど』も『それから』もない。ただ、ある」
その日の夕方、患者の宮内治の容態が急変した。瀬尾は救命医時代のように処置を施そうとするが、彼の穏やかな笑顔と「言葉が見つからない」という言葉を思い出す。
「宮内さん。もう、頑張らなくていいんです。あなたは、素晴らしい人生を歩みました。あなたは、本当に嘘のないことを、見つけましたか?」
宮内は、かすかに頷き、力のない瞳を窓の外の夕日に向ける。
「……ただ、笑うこと」
それが、宮内の残した最後の「コトバ」だった。彼の表情は、安らかで、まるで重い衣を脱ぎ捨てたかのように見えた。
宮内を見送った後、結は茫然として庭に出る。土屋が、静かに茶を淹れてくれた。
「彼は最後に、『ただ、笑うこと』と言いました。まるで、おわりの先に、たのしさがあったみたいに」
「そうだ。それが、いのちのしるしだ。彼は、人生という重い衣を脱ぎ捨てて、裸のコトバに帰った」
結は茶を飲み、海の音に耳を傾ける。彼女の中で、「死=敗北」という概念が、宮内が残した「ただ、笑うこと」という嘘のないコトバによって、少しずつ溶かされ始めているのを感じた。
(私がやるべきことは、彼らを救うことじゃない。彼らが、本当の自分に戻るのを手伝うことなんだ。)
結の心は、母の詩の真髄へと、ゆっくりと舵を切り始めた。だが、その探求の旅は、結自身の過去の因縁と、図らずも深く交錯することになるのだった
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