海の響きで、ごちそうさま

御園しれどし

第一章:敗北の光と、海辺の哲理

おわりはたのしい 

おわりはうつくしい 

おわりはいのちである

すべてのおわりは

しぬことでなく 

なくなることでなく

ほんとうの 

これっぽっちの

うそのないことの

じぶんのうまれたときのコトバに

かえるときである

(小川茂年著・生きている104号より)



 1.ICUの白と死の沈黙


 都心の夜は、白く乾いた光に満ちていた。その光は、救急病院の集中治療室(ICU)の無機質なステンレス壁を反射し、医師たちの疲労を鋭く浮き彫りにする。

 瀬尾結は、35歳。かつては「命の砦」を信じ、眠ることを拒んでメスを握り続けた救命医だった。だが、この日も、彼女の数時間にわたる懸命な蘇生措置は、モニターに映る平坦な線という名の敗北で幕を閉じた。


「アドレナリン!もう一度!」

 彼女の叫び声は、虚しく響き、すぐに沈黙に吸い込まれていった。白い布が、苦痛に歪んだままの老人の顔を覆う。

「瀬尾先生、もういい。無理だ」


 同僚の言葉に、結は手袋を脱ぐ。その手は震え、心には深い虚無が残った。

(私は、この人が生きるための数分間を、必死で引き延ばしただけだ。だが、この人にとって、それは本当に望んだ生だったのか?)


 彼女の頭には、常にある疑問が渦巻いていた。「死」は、本当に医師にとっての敗北なのか?彼女の仕事は、いつも喪失という結末で終わる。その結末に、何の意味があるというのだろう。


 数日後、結は辞表を提出し、都心を離れることを選んだ。


 2.「オワリの家」への道


 結が新しく赴任を決めた場所は、人里離れた海辺の崖の上に立つ、古い洋館だった。そこは、終末期ケアを専門とするホスピス、「オワリの家」。


 カーナビの案内を頼りに細い山道を登りきると、突然、目の前に光と海が広がる。風が強く吹きつけ、結のスーツケースの車輪が砂利を噛む音が響いた。

 洋館は、重厚な石造りで、時の流れを感じさせるが、大きな窓は惜しみなく海の光を取り込み、建物全体が明るい生命感を放っていた。


(ここが、母が夢見ていた場所...)


 結の亡き母は、かつて看護師として働きながら、「終わりこそが、生の最も美しい形である」という独自の哲学を持ち、この海辺に穏やかな終末期ケアの場所を作ることを夢見ていた。結がここに赴任を決めたのは、母の夢の残滓を探すためでもあった。


 門の前で、結は一人の老人に出会う。庭師の土屋陽(68)だ。彼は古びた作業着を着て、強い日差しの中、黙々と生垣の剪定作業をしていた。鋏の音が、潮騒に混じって規則正しく響く。


「すみません、新しく赴任した医師の瀬尾です」


 結が声をかけると、土屋は鋏を止めずに、結を一瞥した。

「ああ。勝手に入ってくれ。扉は開いている」

「あの、ここに来る途中の道、草がかなり伸びていましたけれど」

 結の質問に、土屋は淡々と答えた。

「伸びるのが、草のいのちだ。切るのが、俺のしごとだ。あんたのしごとと同じさ」


 土屋はそれ以上何も語らず、作業に戻る。その言葉は、まるで何十年も前からこの場所に根付いていた哲学のようで、結はただ立ち尽くすしかなかった。彼の言葉には、「だけど」も「それから」もなく、ただ真実があった。


 3.三人の患者と、三つの「終わり」


 洋館の中へ入ると、結はすぐに三人の主要な患者と出会った。

 リビングの大きな窓際では、元著名な評論家・作家の藤代律(78)が、書物ではなく、小さなメモ帳に何かを書きつけている。彼の表情は厳格で、死を前にしてもなお、言葉と格闘しているようだった。


「七瀬さん、最後くらい、その『固める』という言葉から離れたらいかがだ。あなたはもう、勝敗や形に囚われる必要はない」

 藤代は、電話で激しくビジネスの指示を出す元実業家、**七瀬薫(52)**に冷たく皮肉を投げかけていた。


 七瀬は進行性の難病で、明らかに体調は優れないが、ビジネススーツを崩さず、タブレットを抱えている。彼女にとって、成功という形を維持することこそが、生そのものだった。


「藤代さん。私は最後まで私ですよ。私にとって、私の築いた会社こそがいのちのしるしだ。あなたのように、ただ座って静かに言葉の終わりを待つつもりはありません」


 彼らの対立は、「言葉の執着」と「形の執着」という、二つの異なる「終わり」への向き合い方を象徴していた。

 その重苦しい空気から逃れるように、結は奥の病室へ向かった。微かな電子ピアノの音が聴こえてくる。そこにいたのは、若きピアニスト、神楽宙(24)だ。病により、彼は聴力を急速に失いつつあった。


「先生...すみません、音、うるさかったですか」

 宙の部屋は、他の部屋よりも光に満ちていたが、彼の瞳には深い絶望が宿っていた。

「音のない世界なんて、僕の人生の終わりだ。すべてが無になる...」

 結は、都会のICUで見た死とは全く異なる、音の喪失という「終わり」に、返す言葉を見失った。


(彼らの終わりは、死ぬことだけではない。彼らを構成していたものが、一つずつなくなることだ。この場所で、彼らは本当におわりはうつくしいと、かんじられるのだろうか?)


 この海辺の洋館で、結の新しいしごとが、静かにはじまった。それは、命を救うことではなく、終わりを通して、人々の生まれたときのコトバを見つけ出す、哲学的な試みだった。


 

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