第02話:拾った男は「俺は王子じゃない」と言い張った
翌日。
私は平民のような格好で、街の市場を歩いていた。
夜会の喧騒も辛いが、日々の食事も切実な問題だ。
「……あった」
馴染みの青果店。その片隅に、売れ残りのトマトが一つだけあった。
形は歪だが、赤く熟れていて煮込み料理にすれば絶品だ。
今夜はこれでスープを作ろう。そう思って手を伸ばした、その時だ。
横から伸びてきた男の手が、私の手とぶつかった。
「っ……!」
ビクッと肩が跳ねる。
目深にフードを被った、背の高い男だった。
私は反射的に身構えた。接触した瞬間に、相手の不快な思考が流れ込んでくるのが常だったからだ。
けれど。
「…………」
聞こえない。
昨日の王子と同じ、あの奇妙な「静寂」だ。
驚いて顔を上げると、フードの隙間から整った顎のラインが見えた。
彼は私を見て、一瞬だけ息を呑んだように見えた。
譲ってくれるのだろうか。そんな淡い期待を抱いた直後。
「ふん! こんなトマトなど、俺には必要ない!」
市場の喧騒を切り裂くような、低い怒鳴り声だった。
周囲の客がぎょっとして振り返る。
「トマトのような衣装を着た、お前が買えばいい! ふん…!」
ひどい暴言だった。
けれど、私は瞬きを繰り返すことしかできなかった。
……静かだ。
こんなに汚い言葉を吐いているのに、彼の心の中は、凪いだ湖面のように静まり返っている。
それに、よく見れば、彼の手はトマトではなく、トマトを掴んだ私の指に、遠慮がちに触れているだけだった。
その時。
グゥゥゥゥゥ――。
盛大な音が、男の腹の虫から響き渡った。
「…………」
「…………」
沈黙。
男がさっと顔を背け、耳まで真っ赤にしているのが分かった。
普通なら「笑うな」とか「恥ずかしい」という心の声が聞こえるはずなのに、やはり静かだ。 私は思わず、吹き出しそうになるのを堪えた。
なんだか、雨に濡れて捨てられた子犬みたいだ。
「……あの」
「な、なんだ! 俺を笑う気か!」
「いえ。もしよろしければ、ウチで晩御飯を食べていきませんか? 家族みんなでこれから晩御飯なので、このトマトでスープを作りますから」
悪役令嬢と呼ばれる私が、見知らぬ男を家に誘うなんて。
ましてや、王家に関わる人間かもしれないのに。
でも、この「静寂」を纏う彼を、放っておけない気がしたのだ。
男は驚いたように目を見開いた。彼は何か言いかけたが、ぐっと口を噤んだ。
まるで、不用意に喋るとロクなことにならないと分かっているかのように、慎重に言葉を飲み込んでいる。
それでも、こみ上げる感情を抑えきれなかったのか、彼はそっぽを向いて吐き捨てた。
「……ふん! まったくお腹は空いてないんだがなっ!」
そう言いながら、彼は私の買い物カゴをひったくった。
「軽そうな荷物だな。まったく手伝いたくない。面倒だっ!」
それ以上は余計なことを言わず、彼は私の後ろをトコトコとついてくる。
その姿は、やっぱり拾われた子犬のようだった。
◇◇◇
我が家の古びた屋敷。
扉を開けると、バタバタと賑やかな足音が近づいてきた。
「姉さん、お帰りなさい!」
「お腹すいたー! 今日のご飯なあに?」
飛びついてきたのは、二人の幼い弟たちだ。その後ろから、父が優しげな笑みを浮かべて現れる。
「お帰り、エリス。遅かったね」
「ただいま、お父様。安くて良いトマトが手に入ったの。それと……」
私は背後の男性を振り返った。
父と弟たちが、目を丸くして彼を見上げる。
彼がフードを脱ぎ捨てたからだ。
蜂蜜色の髪。整った顔立ち。
家族全員が息を呑む。昨日の夜会には出ていなくとも、この国の第二王子レオン様の顔を知らないはずがない。
「レ、レオン様!?」
「私は、レオン王子ではありません」
彼は真顔でそう言い張った。
いや、無理があるでしょう。
私は疑わしげな視線を向けたが、彼は「ふん!」と鼻を鳴らし、勝手に台所へと入っていってしまった。
「おい、エリス! さっさとスープを作らないぞ! 手伝ってなんかやらないからな!」
「あ、はい……」
母が亡くなってから、この家の台所は私の城だ。
そこに王族(自称・別人)が立っている光景はあまりに異様だった。
彼は慣れた手つきで野菜を洗い始める。
(本当に王子様……? 手際が良すぎるわ)
私は疑いつつも、隣でスープを作り始めた。
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