第18話
桐島綾乃さんの事務所の非公開スタジオの扉を開けた瞬間、僕は極度の緊張に包まれた。ここは、養成所の教室とは違う。プロの現場の、張り詰めた、しかし洗練された空気が満ちている。
桐島さんは、僕を含めた数人の生徒を前に、優雅に、しかし圧倒的なプロフェッショナルなオーラを放っていた。彼女の黒のジャケットと切れ長の瞳は、僕の秘密を全て見透かしているかのように感じる。
初日の課題は、やはり『心の深淵』を要求するものだった。「幼い頃、秘密にしていたコンプレックスを、初めて親友に打ち明ける」という課題。
僕は前回、この課題に対して「技術で感情を抑圧した声」を提出し、彼女に「感情の容器が完璧すぎる」と指摘された。今日は、もう逃げない。
彼女は、僕をマイクの前に立たせた。
「富士見君。あなたの声の共鳴は、まだ『秘密を守るための壁』になっているわ。その壁を、『世界に響かせるスピーカー』に変えなければならない」
彼女の声は、マイクを通さなくても、私の耳元に優しく届くような、完璧な『距離感の操作』を感じさせた。まるで、僕の心に直接語りかけているようだ。
「さあ、もう一度。『怖かった』。その一言に、あなたが声を出すことを恐れていた、幼い頃の記憶を込めてちょうだい」
僕は、手を強く握りしめた。幼い日の嘲笑、声変わりしなかった絶望、そして、あの養成所での「魂の不協和音」としての叫び。
僕は、声帯のコントロールを、一瞬だけ放棄した。あの「醜い地声の感情」を、意識的に引きずり出す。
「……っ、こわ…かった」
僕の声は、案の定、ピッチが激しく乱れ、不安定に震えた。技術的には、最悪の不協和音だ。
だが、桐島さんは、僕の失敗を止めなかった。彼女は、静かに僕の目を見て、次の指示を出した。
「今のは、あなたの『本物の痛み』だ。素晴らしい。でも、役者としては未完成よ。次、やってほしいのは、その『痛み』を、風花として磨いた『囁きの技術』で、包み込むこと」
彼女は、僕の隣に立ち、僕が風花として培ったASMR的な呼吸法を、小さなマイクに向かって実演してみせた。
「あなたのコンプレックスを、マイクの近さで表現してごらんなさい。声帯で隠すんじゃなくて、息で晒すのよ。囁きは、一番感情が滲み出る、究極の表現手段よ」
囁きで、トラウマを晒す。
それは、僕の技術と感情を統合する、まさに**『設計図』だった。
僕は、マイクの極限まで顔を近づけた。そして、幼い頃の「怖かった」という感情を、心臓の奥底から引きずり出す。声帯は振動させず、息の音だけで、その感情を乗せる。
「…怖かった」
その声は、クリアで、優しく、しかし、その息の音の深さには、何年も声を閉ざしてきた人間の、孤独な絶望が、強烈に込められていた。それは、聞く者の耳元に、「あなたの抱える秘密の痛みは、私だけが知っている」と語りかけているかのような、究極の『共感の囁き』だった。
桐島さんの表情が、初めて崩れた。彼女の目には、涙の光が宿っていた。
「…完璧や。これや、大太君。これこそが、あんたの『魂の震えを持つ芸術』や」
彼女は、僕の肩に手を置き、強い決意を込めた、関西訛りの声で囁いた。
「大丈夫やで、あんたの秘密は私が守る。私の過去の経験が、あんたの盾になる。安心して、その声を出してみ。私が責任持って、プロの舞台に立たせるから」
僕は、彼女の『保護者としての決意』と『プロとしての確信』が込められた声を聞き、初めて心の底から安堵した。
桐島綾乃は、僕の秘密を脅かす存在ではない。彼女は、僕のコンプレックスを、公の場で輝かせるための、最高の導き手なのだと確信した。
僕の「声優としてのデスゲーム」は、今、桐島綾乃という「秘密の盟友」を得て、いよいよ最終局面へと向かうことになったのだった。
桐島綾乃の非公開スタジオ。僕が囁きで「怖かった」という魂の痛みを晒し終えた後、部屋には静寂が満ちていた。彼女の瞳にはまだ涙の光が宿っていたが、その表情はすぐにプロのマネージャーの冷静で鋭いものへと切り替わった。
「…完璧や。これや、大太君。あんたの声は、もう商品になる。その『痛み』と『技術』が統合された声は、誰も真似でけへん、あんただけの武器や」
彼女は、僕の肩から手を離し、一歩下がった。そして、黒いジャケットの襟元を直し、声を整えた。その口調は、優しさを残しつつも、有無を言わせないプロの決断を伝えるものだった。
「さて。では、本題に入ろうか。あんたのデビューについてや」
僕は、再び緊張で喉が詰まるのを感じた。
「私のマネージャーと話をつけて、あんたを私の専属育成枠として、うちの事務所で預かることになった。養成所は続けなさい。ただ、仕事は、私と悠斗君、美咲君の秘密チームで管理する。まずは、ラジオや小規模のイベント出演から、段階的に慣れさせていく」
僕の心は、感激で震えていた。長年の夢であり、目標であったプロへの道が、今、目の前で開かれている。
「ありがとうございます、桐島さん…!」
「ええよ。そして、最も重要なこと」
桐島さんは、僕の目を真っ直ぐに見つめた。彼女の切れ長の瞳は、僕の魂の奥底まで見通すような、強い光を放っていた。
「あんたの芸名や。私からの指示よ。あんたは、『風花(ふうか)』として声優デビューしなさい」
その言葉を聞いた瞬間、僕の全身の血の気が引いた。
「…え?」
僕は、思わず地声に近い、高いピッチで聞き返した。
「風花、は…無理です。それは、僕の…秘密のペルソナで、公の場で使うための名前じゃありません。それは、僕がコンプレックスを隠すために作った…」
風花は、僕の『防衛の鎧』だ。公の舞台で、本名や本人の素性とは切り離して使ってきた、秘密の象徴だった。それを公の芸名にするということは、僕のプライベートの領域と、仕事の領域が、完全に融合**することを意味する。
桐島さんは、僕の動揺を予期していたように、静かに、しかし論理的に諭した。
「わかってる。だからこそよ。風花は、あんたの『防衛の鎧』であり、コンプレックスを乗り越えた証明や。そして、既に何十万というファンが熱狂している、完成された『ブランド』だ」
彼女は、僕の指先に施された、ごく淡い練習用のネイルを見た。
「あの水着の配信で、あんたは『私の全ては、この美意識でできています。誰にも、この美意識は侵せません』と宣言した。その『美意識』の結晶こそが、風花という名前なんや」
「そして何より、風花は中性的な名前よ。あんたの声は、性別の枠に収まらない。声優として、性別不明の『風花』としてデビューすれば、あんたの『地声』と『女声の技術』の両方を、安全に、そして最大限に活かせる」
桐島さんは、一歩近づき、関西訛りを強く込めて、囁きかけるように言った。
「大丈夫やで、大太君。あんたの秘密は、私とチームが守る。あんたはもう、地味な富士見大太という殻に閉じこもる必要はない。あんたの才能は、風花という名の偶像として、公の場で生きるんや。さあ、どうする?あんたの魂が、どこで生きることを望んでる?」
その言葉は、僕の胸を深く抉った。
風花として生きる。 それは、僕のコンプレックスが、最高の武器として認められ、永遠に生き続けることだ。
僕は、深く息を吸い、マイクがなくてもはっきりと桐島さんに届くように、技術と感情を統合させた、清々しい声で答えた。
「…はい。風花として、デビューします」
僕の「声優としてのデスゲーム」は、この瞬間、『偶像』という最強の武器を手に、最終決戦のステージへと進むことになったのだった。
富士見大太は、桐島綾乃の非公開ワークショップから戻ってきて以来、養成所での態度を一変させた。
地味なパーカーの隅で、彼はもう以前のように怯えた「地味なオタク」を演じることはない。彼の目は、目標を定め、自信に満ちた、プロの表現者のそれだった。
そして何よりも、彼の「声」が変わった。
以前は、コンプレックスを隠すため、地声(高くて細い声)を技術で抑圧していたが、今は違う。彼は、感情を解放し、それを「風花の技術」で制御する術を学んだ。彼の声は、少年のような高いピッチは変わらないものの、その響きには、以前の「レプリカ」にはなかった『魂の重み』が宿っていた。
黒川玲の視線:「鎧」を脱いだ最高の役者
演技中毒の黒川玲(くろかわ れい)は、舞台を観るように、大太の変貌を注視していた。
(面白い。桐島綾乃に会って、彼はついに『偶像の鎧』*を脱ぎ始めた。いや、脱いだのではない。鎧そのものを、魂の表現に使えるよう改造したのだ)
黒川は、大太が演技課題で披露した、「技術で制御された、感情の臨界点」を正確に分析していた。大太の「怒り」の声は、ピッチの不安定さを技術で留めることで、聞く者に「崩壊寸前の美しさ」を感じさせる。それは、黒川が追求する「魂の演技」とは異なるが、商業的な「商品」として極めて強力だと理解した。
「富士見君。君の声は、あの時、『不協和音』から『変奏曲』へと進化した。君は、私にとって最高の『対役(カウンターパート)』になるだろう」
黒川は、皮肉ではなく、心からの期待を込めて大太に言った。彼の演技への情熱は、大太という最高のライバルを見つけた喜びで満ちていた。
中島華の視線:才能への嫉妬と憧れ
可憐なショートボブの中島華(なかじま はな)は、大太のいる方向を、複雑な表情で見つめていた。
(ずるいんだわ。あの人は、『地声のコンプレックス』を、そのまま『個性の武器』に変えてしまった。私なんか、天性の『甘い声』があるのに、母の期待とか、色々なものに縛られて、まだ自分の殻を破れないんだわ)
彼女の「甘い声」は、努力の結果ではなく天性の才能だが、彼女の『トラウマ』(母の期待)は、その才能を自由に解放することを許さない。大太が『トラウマ』を曝け出し、それを武器に変えた姿は、彼女にとって、強烈な嫉妬と同時に、乗り越えるべき壁として映っていた。
彼女は、大太が「風花」としてデビューすることを知らないが、彼の声が「商業的な価値」を持ったことを、敏感に察知していた。
佐藤海の視線:低音からの挑発
低音フェチの佐藤海(さとう かい)は、依然として大太の甲高い声を不満に思っていたが、彼の態度には変化があった。
「フン。いくら声が綺麗になったとて、魂の響きには勝てんとよ」
彼はそう言いながらも、大太の横を通り過ぎる時、わざと低い声で台詞を呟くようになった。彼の性癖である「低音」で、大太の「高音」を挑発しているのだ。
「…おい、富士見。お前、いつまでその声で逃げるつもりや?真の表現は、低音の魂から響くとよ」
佐藤の挑発は、大太の演技に低音の表現力を加えるべきだという、図らずも建設的な課題を与えていた。大太は、彼の挑発に返事をせず、ただ心の中で「この声を、いつか低音の役でも通用する、無限の可能性を持つ声に変えてやる」と静かに決意を新たにした。
大太は、彼らからの嫉妬、憧れ、挑発、そして期待の視線を、全てを「表現者としての栄養」に変えていた。
彼は、桐島綾乃から与えられた『風花』という芸名を、もう二度と「秘密のペルソナ」とは思わない。それは、「富士見大太のコンプレックスと努力の結晶」であり、公の場で戦うための、最強の『声の偶像』となるのだ。
彼の「声優としてのデスゲーム」は、今、ライバルたちの視線という熱狂の中で、ますます加速していくのだった。
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