第17話
水着コスプレ配信の成功と、大学の退学。そして、人気声優・桐島綾乃との非公開ワークショップの決定。富士見大太の人生は、激動のターニングポイントを迎え、彼の精神は極度の緊張と疲労にさらされていた。
声優養成所も休日。大太は、美咲と悠斗に「今日は一人にしてほしい」と伝え、一日中「風花」として過ごすことを決めた。
「地味な大学生」というカモフラージュは、タケルへの告白と退学で、もう必要ない。彼は今、誰にも縛られない「風花」という表現者として、東京という舞台を闊歩できるのだ。
早朝、大太はアパートの自室で、時間をかけて「風花」を完成させた。今日のメイクは、私服のワンピースに合わせた、肌の透明感を活かしたナチュラルメイク。指先には、桐島綾乃の「囁き」を意識し、音符のモチーフを極細のラインで描いたネイルアートを施した。
彼は、ウィッグの黒髪を揺らし、慣れないヒールを履いてアパートを出た。
最初に向かったのは、都心から少し離れた、静かな高級住宅街にある、小さなカフェだった。客層は落ち着いており、誰も彼をジロジロ見ない。
大太は、窓際の席に座り、優雅に紅茶を注文した。
「…アールグレイを、一つお願いします」
彼の声は、カフェの静かな空間に、優しく、澄みきって響いた。それは、訓練された**「風花の女声」**だ。彼は、店員が何の違和感もなく「かしこまりました」と応じるのを聞き、心が解放されるのを感じた。
(この声は、もうコンプレックスじゃない。この声で、僕は世界とコミュニケーションできる)
彼は、カフェで小さなノートを開き、養成所の台本を読んだ。読むのは、彼の地声で、感情が乗らないと指摘された「怒り」のセリフだ。
「……くそっ、うるさいっ!」
彼は、心の中で、あの幼い日の嘲笑を思い出し、「魂の不協和音」を再現しようとする。しかし、周囲の静けさの中で、彼は声を出せない。
代わりに、彼は「表情と呼吸」だけで、怒りを表現した。呼吸を止め、血の気が引くほどの憤りを顔に乗せる。そして、ゆっくりと息を吐きながら、完璧な「安堵」の表情へと切り替える。
彼は、風花という偶像の訓練で得た「肉体の制御技術」を使って、「感情の制御」を試みていたのだ。
午後は、ネイルサロンへ。もちろん、彼自身がネイリストだ。
大太は、公園のベンチに座り、持参した道具で、自分の指先を丁寧に手入れし始めた。新しいネイルアートのテーマは、「無限の可能性」。クリアベースに、色々な色に変わる極小の偏光ラメを散りばめた。
彼は、公園の子供たちの笑い声や、通り過ぎるカップルの会話に耳を傾けた。
「声優は、不完全な人間の感情を演じる。僕の『完璧な美意識』は、その不完全さを描くための最高のキャンバスになる」
彼は、指先を見つめながら、改めて覚悟を決めた。
この一日の「風花としての日常」は、彼が「声優」という公の道へ進む上で、もはや不可欠なリフレッシュであり、『自己肯定の儀式』だった。
夜、アパートに戻った大太は、静かにメイクを落とし、ウィッグを外した。鏡の中に映る地味な「富士見大太」の顔は、朝よりもずっと穏やかで、強い意志を宿していた。
美咲から、メッセージが届いていた。
『明日、桐島さんのワークショップ、頑張りい!あんたの不協和音を、プロに響かせてくるんやで!』
悠斗からもメッセージが届いていた。
『兄ちゃん、今日の「ネイルアートの練習風景」を、こっそり遠くから写真撮っといたばい。最高のコンテンツになるけん、明日、練習の成果を出し切ってくれんね!ずっと応援しとるけん!』
大太は、一人ではない。彼には、秘密を共有し、才能を信じる最高のチームがいる。彼は、桐島綾乃との非公開ワークショップという、彼の声優人生を決定づける最終ステージに向けて、静かに、しかし熱い決意を固めたのだった。
――アマチュアコスプレイヤー・夢咲ミクのモノローグ
私は、夢咲ミク。高校生で、週末は地元のイベントで趣味のコスプレ活動をしている。ファンなんて全然いないけど、自分が好きなキャラになりきる瞬間が好きだ。
その日は、新しい衣装の材料を買いに都心に出て、帰り道の公園のベンチで、次のコスプレ用のネイルチップを削っていた。安物のチップだから、形を整えるだけでも時間がかかる。
「あー、やっぱりプロみたいなツヤが出ないな…」
ため息をついた、その時。公園の奥のベンチに座っている、ある人物に目が釘付けになった。
黒髪の長いウィッグに、私服に近い、淡いブルーのワンピース。遠目に見てもわかる、異常なまでの肌の白さと、非現実的なほど細く整った体躯。
その人は、間違いなく、今ネットで一番話題の、あの匿名アイドル…『風花(ふうか)』だった。
(え、何でこんなところに?しかも、私服っぽい衣装で…プライベート?)
風花は、周囲の子供たちの賑やかな声にも動じることなく、ただ静かにベンチに座っていた。その姿は、まるで都会の風景の中に、一瞬だけ紛れ込んだ「生きた二次元」のようだった。彼女が醸し出すオーラは、私の知っているイベント会場のレイヤーたちの「頑張っている」感とは、全く違っていた。
それは、「完成している」という、圧倒的な静けさだった。
私は、恐る恐る風花の様子を観察した。彼女は、持参した小さなポーチを開け、何をしているのかと思ったら、自分の指先の手入れを始めたのだ。
風花が片手を持ち上げ、光に透かした瞬間、私は思わず息を飲んだ。
彼女の爪には、クリアベースに偏光ラメが散りばめられ、光の角度で虹色に変化している。そのネイルアートのテーマは、きっと「無限の可能性」とか、そういう詩的なものだろう。何よりも驚いたのは、その爪の形だ。まるでガラスを削ったみたいに完璧な曲線で、甘皮一つなく整えられている。
(あんなに派手な衣装じゃないのに、なぜ、あんなにも目を奪われるんだろう?)
それは、風花の『美意識』が、指先の細部にまで宿っているからだ。私のネイルチップは、今日頑張って削っても、まだどこか荒削りな「趣味」のレベル。でも、風花の指先は、「これが私です」と世界に宣言する、揺るぎないプロのサインだった。
私は、自分が持っていた安物の爪やすりを、思わずポーチに隠した。自分の未熟さが、あまりにも恥ずかしくなったからだ。
風花は、手入れを終えると、満足そうに小さな笑みを浮かべた。その表情は、ネットで見る「偶像の笑顔」とは違い、心の底からリフレッシュできたような、安堵と解放感に満ちていた。
その時、彼女の口から、優しく、澄みきった声が漏れた。
(この声は、もうコンプレックスじゃない。この声で、僕は世界とコミュニケーションできる)
彼女は、自分自身に言い聞かせるように、そっと囁いた。
その声を聞いて、私の心の中にあった「嫉妬」は、一瞬で消え去った。残ったのは、ただ「憧憬」だけだ。
風花は、私のようなアマチュアが「可愛い服を着て楽しむ」というレベルを、遥かに超えていた。彼女は、自分の魂を救うために、コンプレックスを乗り越え、自分の身体を芸術として作り上げている、究極の表現者なんだと悟った。
私は、その場を静かに離れた。風花の邪魔をしたくなかった。彼女がこの一日の「解放」で得たエネルギーは、きっと、声優という新たな戦場で、彼女をトップに押し上げる力になるだろう。
私のコスプレは、まだ「趣味」かもしれない。でも、私もいつか、風花のように、「私の全ては、この美意識でできている」と胸を張って言えるような、プロの表現者になりたい。
私は、風花という偶像の、秘密の信者として、彼女の成功を静かに祈ることにした。
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