第三話

 また私たちの間を冷たい夜風が通り抜けていった。


「……ひさしぶり、みかん。実は、もしかして?って思ったけど雰囲気変わってたから……」


 “みかん”と、名前を呼んだ瞬間、彼女は花が咲くみたいに笑った。その笑顔は十年前と同じ香りがするようで、十年前と同じように胸の奥を熱くした。


 また夜風が吹き抜け、みかんの柔らかい髪をそっと揺らす。私たちの煙草の煙が白く、淡く、闇に溶けていく。その中に、あの日の体育館裏のひだまりの匂いが、微かに混じっている気がした。


 照れたように前髪を触る癖。三日月のように細くなって、目尻が下がる笑い方。

 

 大人のふりをしても、その奥に薄く残ったままのあの頃のみかんの影を、私はひとつひとつ思い出すように見つけていった。


 思い出すたび、蓋をしていたはずの感情が溢れてくるようで、はっと我に帰る。あの日々を特別に感じていたのは私であって、“私たち”ではない。


「……先輩に会えて、ほんとに嬉しいです」


 私の心を見透かしたかのように、みかんは小さく呟いた。


 その声は驚くほど柔らかくて、その声が触れたところがじんわり痺れるようだった。その痺れでようやく気がつく。


──ああ、私はずっと、この子を心のどこかで探していたんだ。


 みかんが大人になっても、またどこかで、また出会いたかった。そんな根拠のない期待を、ずっと心の奥にしまっていた。

 それが今日、ついに扉を開けられたみたいに、静かに、胸の中で輪郭をはっきりと持った。


「薫先輩、元気にしてるかなあってずっと思ってたんです」


 その言葉に胸がどくんと跳ねる。会えなくなって、もう10年も経つのに。


「まさか、また会えるなんて思ってなかったから、嬉しいよ」


 “私もずっと思ってた”、なんて言える勇気はなくて、曖昧な笑みで返す。そんな私を見つめる、みかんの瞳には、向かいの看板の光が反射して、きらきらと煌めいていた。


 夜風に溶ける煙草の白が、ゆらりと二人の間を漂う。しばらく、互いに言葉を重ねることはなく、ただお互いの吐いた煙の奥に、昔の面影を探しているような時間。その時間はどこか、こそばゆい。


「元気にしてた?」


 思わず口をついて出た問いかけに、みかんは微笑みながら小さく頷く。

 その仕草や瞳の動きのひとつひとつが、過去の小さな思い出を呼び起こす。夜風に、栗色の髪がふわりと揺れた。風があの頃の香りを運んでくる気がした。


 こんなふうに、ただ会話して、笑って、昔のことを思い出すだけで、十分に特別だと思えた。また出会えた、ただそれだけで。


 そんな時、突然、後ろから開くドアの音が響いた。


「あ!二人ともここにいたんだ!そろそろお開きだよ〜」


 私たちを見つけて安堵した顔の佐伯の様子に、私もみかんも、はっと顔を見合わせる。そんなに時間経ってたんだ。

 現実に引き戻される瞬間。私たちだけの静かな時間はあっけなく終わりを迎えた。夜風と煙草の香りだけが名残のように、あたりに漂っていた。


 私はみかんの目を最後にちらりと見た。どこか名残惜しそうに見えるのは、私の期待からだろうか。


 「すぐ戻る!」


 隣でみかんも小さく頷く。その様子を確認した佐伯は「はーい」と笑って去っていった。取り残された私たちはゆっくりと閉まる重たい扉を見ていた。けれどもお互い何も言わなかった。それから私たちは静かに煙草の火を消して、二人で扉に向かった。

 店の中はあいかわらず騒がしく、眩しい灯りに満ちていた。けれど、あの夜風の中で交わした、淡く懐かしい時間だけは、そっと、けれども確かに、私の胸の奥に跡を残していた。

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