第二話

 歓迎会のテーブルには、冷めた唐揚げと、もう誰のものか分からないグラスが散乱していた。笑い声は油まみれの天井にぶつかって跳ね返り、アルコールの匂いが空気にまとわりついて離れない。その全てに酔うようで、身体中がじんわりと汗ばんでくる。


「……ちょっと、外」


 誰に言うでもなくそう呟いた瞬間には、私はもう席を立っていた。同僚たちがこちらを振り返る気配もない。彼らの賑やかさは、今の私の肌にはどうにも刺さった。


 店の奥にある非常階段へ向かう。確かこの居酒屋の喫煙所はそこにあったはずだ。狭くうるさい廊下を掻き分けて歩いている途中、床にこぼれたビールの跡が靴底に湿り気を残した。その感触さえ、逃げ出したくなる要因のひとつみたいに感じられる。


 冷たいドアノブに手をかけて、重い扉を引くと、ひやりとした外気が頬を撫でた。店内の熱気が嘘みたいに、夜のそこは冷えていて、少しだけ煙草の切なさの混じる匂いが漂っている。ビルの下、遠くでタクシーがクラクションを鳴らしていた。


 はあ……生き返る。


 そう思いながら、煙草の箱を取り出したところで、後ろの扉音を立てた。


「すみません、開けまっ──」


 その後ろから声が追いかけてきて、反射的に顔を上げた。


 喫煙所は消えかけの蛍光灯が、ちかちかと瞬いていた。その薄青い光の中に、淡くあたたかそうな栗色の髪がふわりと浮かび上がった。


 花咲みかん──営業にやってきた新しい子。

 店内の眩しい光が柔らかな彼女の輪郭を淡く縁取っている。その輪郭は全然違うはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる。左耳の小さなピアスが、光を拾ってちらっと光っていた。


 彼女は、私を見つけた瞬間、ほんの一瞬だけ目を丸くした。そしてすぐにその丸い目を細めた。見つけたことに安堵したような、そんな表情だった。


「……あ、花咲さん、煙草吸うんだ?」


 言ってから、自分でもびっくりするくらい仕事モードの声だった。距離を確認するような優しげな声をかけながら、手元の煙草に火をつける。そんな様子の私から視線を逸らさず、後ろ手で扉を閉めながら、彼女はまっすぐこちらを見て口を開いた。


「……はい、吸います……立花さんも?」


 口元でふわりと白煙がほどけ、夜気に溶けていく。


「うん」


 ちらりと横を見ると、その視線はまだ私の顔に触れたまま離れていなかった。まるで、なにか確かめているみたいに。


 すると、彼女は手すりに手をかけるようにして、少しだけ私に近づいた。喫煙所の床はコンクリートで、足音がこつ、と小さく響く。


「……あの、薫先輩」


 その響きに、胸の奥がざわりと揺れた。

 彼女は小さく息を吸い、迷うような仕草をしてから、あの、目を細めるような顔に不安を滲ませながら笑って首を傾げた。その瞬間、夜風が彼女の栗色の髪をふわりと巻き上げた。


「……私のこと、忘れちゃいました?」


 一瞬、外の音が全部遠のいた。


 店のざわめきも、風の音も、眼下を走る車の騒音さえも。ただ、目の前の彼女の声だけが、くっきりと耳にこだましている。


 忘れる?そんなはず──と思った瞬間、胸の奥で古い記憶が光った。


 中学の体育館裏で、笑いながら私の後ろをついてきた、小柄な後輩。陽だまりの匂い、汗を拭う仕草。

 もう思い出すことのないはずだった、遠い昔の景色。


 みかんは、どこか緊張したように笑いながら、瞳を揺らして、前髪に触れた。


「ずっと……会いたかったんですよ、先輩。」


 冬の夜風が私たちの間をすり抜けていく。

その冷たさですら、私の中に湧き上がった熱を冷ますことをできなかった。

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