第2話 結婚と死別

 1222年6月、11歳になったザベルは、24歳のフィリップと結婚する。


 フィリップは、アンティオキア公ボエモン4世の息子で、キリキア・アルメニア王国の南に隣接するアンティオキア公国との関係性を保つための、いわゆる政略結婚であった。


 白い肌に、金髪と青い目。がっしりした体型に、すらっと細い鼻梁……はじめてフィリップを見たザベルは、胸をときめかせた。まだ11歳とはいえ、心はすっかり乙女である。


(なんて、きれいな男の人だろう……)


 西欧のおとぎ話に出てくる王子様のようだ、とザベルは思った。


 黒に近い焦げ茶色の髪と瞳をもつ、敬愛していた父とは、何もかもが違う。そのことに、どこか後ろ暗い想いを抱きながらも、ザベルは、フィリップに惹かれていくのを止めることが出来なかった。


 フィリップは、緊張するザベルの手を握って、優しく微笑んだ。


「僕は、君から見れば、おじさんに見えるかもしれない。僕からしたら、君は……すごくチャーミングだ。いきなり夫と妻になれ、というのは難しいと思う。だからまずは、友だちか、兄妹のようになれたらいいと思っている。……どうかな。僕じゃ、君のお眼鏡にはかなわないだろうか」


 透きとおったカルデラ湖を思わせる瞳に、ザベルの小さな胸は、大きく波立った。


 フィリップの手のひらは大きくて、ザベルの手がすっぽりと収まる。父を亡くし、頼れる人のいないザベルにとって、彼の優しい包容力は、甘美な果実のように感じられたのだ。


「いいえ、いいえ。わたしたち、お互いのことを、これからよく知り合うべきだと思うわ」


 それから二人は、他の人らの目がない場所では、互いのことを「フィル」と「ベル」と呼びあって、気安く胸のうちを打ち明けるようになった。


 フィリップは、アンティオキア公国での話をよくザベルに話して聞かせた。ザベルにとって、キリキアが故郷であるように、フィリップにとってのそれがアンティオキアであったのだ。


 特に、強盗騎士ルノー・ド・シャティヨンが公となった話は、ザベルの好奇心を喜ばせた。同じカトリック教徒でありながらも、ノルマン人貴族の血を引くフィリップの思考は、若いザベルに新鮮で刺激的に映った。


 ただ、王宮の中庭に咲く杏の花が、視界に映る時、ザベルは、父の残した言葉を思い出す。


『杏は、木から遠くに落ちない』


 どういう意味であったのかまでは思い出せないでいる。ただ、父の思い出と共に、ふわりと浮かび上がるのだ。どうしても忘れられない。


 それでも、女王として息苦しい日々を過ごすザベルにとって、フィリップと過ごす時間は、唯一の心の慰めとなっていった。


 二人の結婚は、順調にいくかに見えた。


 しかし、この結婚に異を唱えたセルジューク朝トルコが、国境に攻め込んできたため、新婚すぐにフィリップは、王としての役目を担う必要に迫られた。


 冷たい鋼の鎧に身をつつみ、戦へ赴くフィリップの背を、ザベルは、涙を堪えて見送った。父が亡くなったと聞かされた日が、つい昨日のことのように思い起こされる。ザベルの胸は、ざわついた。


(あぁ、父さま! アララト山よ! どうかどうか、わたしのフィルを見守って!)


 それから毎朝、ザベルは、東のテラスに出て、朝日と共にアララト山へ祈った。それは、父を亡くしてから途絶えてしまっていた習慣だった。亡き父を思い出してしまい、辛かったのだ。


 アララト山は、目には見えなくとも、そこに確かにある。その存在が、遠く戦地へ赴いたフィリップを想うザベルの心を慰めた。


 数ヶ月後、戦いに勝利して凱旋した夫を見て、ザベルは、自分の中に芽生えた愛を知った。


「ただいま、ベル」


「あぁ、フィル! わたし、あなたを失ったら、生きていけないわ!」


「僕も、君に会うまでは死ねないと思っていた。……実を言うとね。敵の槍が目の前に迫っていた時に、声が聞こえたんだ。ベル、君が僕を呼んでいると思った。だから僕は、こうして今、君を腕に抱くことができるんだよ」


(アララト山が……父さまが、フィルを守ってくれたんだわ!)


 


 ところが、その2年後の1224年、摂政コンスタンティンは、フィリップを投獄。理由は、フィリップがキリキアの王冠宝石を盗み、アンティオキアに送ったからだとされたが、ザベルは信じなかった。冤罪であると訴えたが、コンスタンティンは聞き入れてくれない。


 結局、真実は闇の中に葬られたまま、フィリップは、獄中で毒殺された。


 ザベルが14歳の時のことだった。


「なんてこと、なんてこと……! ああ、わたしが愚かだった。あんな男の言うことを純真に信じて、従って……本当にバカだったわ! きっと父さまだって、あの男(コンスタンティン)が殺したに違いない!」


 寝台に突っ伏して、嘆き悲しむザベルに向かい、従者の一人がこう述べた。


「女王陛下。アルメニアには、古くからこのような言葉が言い伝えであります。太陽は雲の後ろに隠れない。隠し事はいつかバレる、という意味です」


 ザベルの心を慰めようとして口にした、ただの気休めであったかもしれない。それでも、その言葉は、この後に起きる出来事を乗り越えるための一筋の光となった。


 摂政コンスタンティンは、夫を亡くしたばかりのザベルに、自らの息子ヘトゥムと結婚するよう迫ってきのだ。


 その時、ようやくザベルは悟った。


 すべては、このために、コンスタンティンがフィリップを陥れたのだと――。


「わたしに、夫を殺した男の息子と結婚しろと言うの? そんな非道なことが許されてたまるものですかっ!」


 出来ることなら自分の手で、コンスタンティンの罪を暴き、罰してやりたいと思った。でも、女王の地位にいるとはいえ、ザベルは、政務の何たるかも知らない、ほんの14歳の少女なのだ。


 一方、コンスタンティンのヘトゥム家は、古くからアルメニアの貴族として名高く、摂政として当時の権勢を誇っていた。敵うはずがない。


(太陽は雲の後ろに隠れない。いつかきっと、この男は、罰を受ける)


 ザベルに出来ることは、ただ一つだけ――――。


「……わたくしは、修道女となります。そこで一生、フィルの死を弔って生きるわ」


 幼い頃より付き従ってくれていた従者たちの協力のおかげで、ザベルは、こっそり夜のシス城を抜け出し、セレウキアで修道女となった。

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