ザベルの杏~アルメニア悲劇の女王~

風雅ありす

第1話 7歳の女王

 13世紀のキリキア地方、城塞都市シスにて――。


 堅牢な石造りの王城は、小高い丘の上に建てられており、南に広がるチュクロワ平野から遥か地中海までを見渡すことが出来る。北側には、険しい山脈に囲まれて、城塞都市の名にふさわしい景観だ。


 王城の一角――東を向くテラスに、一組の父娘が並んで立っている。前方には、今まさに太陽が山間から顔を出し、新しい一日のはじまりを告げるところだった。


 手すりの間に幼い顔を押し込んで、黒く大きな両目を懸命に凝らしているのは、今年で5歳になる王女ザベルである。ザベルは、やがて東の空へ太陽が昇りきるのを見て、大きな不満の声を漏らした。


「ああん、今日こそ、アララト山が見れると思っていたのにぃ〜……!」


 だんだんと、その場で地団駄を踏む娘の様子に、隣に立つ父王レヴォンは、困ったように笑った。


 アルメニア人にとって、アララト山は、ただの山ではない。『旧約聖書』「創世記」のノアの箱舟が、大洪水の後に流れ着いたとされるアララト山。かつて、その山麓に領土を広げていたアルメニア人たちが、地中海沿岸にあるこのキリキア地方へ流れ着くことになったのには、長い歴史がある。度重なる周辺諸国からの侵略と圧政に苦しめられ、東ローマ帝国や、セルジューク朝によって追いやられても尚、アルメニア人にとってアララト山は、かつての栄華と平和を思い出させてくれる象徴であり、心の拠り所でもあるのだ。


「明日は、見れるかなぁ」


 小さな唇を尖らせて、ザベルは、期待に満ちた瞳を、東の空へ向ける。それを見たレヴォンは、そうだね、とだけ答えてやった。


 そもそも、遠く離れたカフカス地方にあるアララト山が見える筈はないのだが、諦めなければ願いは叶うと信じる娘の気持ちを、レヴォンは大事にしたいと思っていた。


 忙しい政務の合間に、唯一、娘と過ごすことのできるこの時間が、何よりも愛おしい。いつか、この子が成長すると共に、自分で学べばいい――そう考えていた。


 このキリキア侯レヴォン2世は、ルーベン朝キリキア・アルメニアの初代国王である。それまでの君主は、侯と呼ばれ、国も王国ではなく侯国であった。


 レヴォン2世は、第三回十字軍にも参加し、かの有名なリチャード獅子心王とも共に戦った経歴をもつ。彼の治世により、アルメニア王国は経済的にも文化的にも繁栄し、中東で最も重要なキリスト教国の一つとして、周辺諸国から一目置かれる存在となっていた。


 1198年1月6日。そんな彼の功績が認められ、タルソスにて、ローマ教皇ケレスティヌス3世と神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ6世により戴冠し、国王と宣言された。東ローマ帝国(ビザンツ)の皇帝も、レヴォン2世に王冠を贈っている。


 そんなルーベン家の末端に、ザベルは生まれた。男の跡継ぎを持たないレヴォンにとって、ザベルは大事な跡継ぎであり、それをなしにしても、齢60を超えて授かったことから、孫のような存在でもあった。


「ねぇ、父さま。『よいことをしたら、水に流せ』って、どういう意味?」


 レヴォンは、その太い眉毛を大仰にあげてみせた。いつもながらザベルの話には脈絡がない。最近ようやくアルメニア語の読み書きをマスターしたと、家庭教師から聞いていたが、この落ち着きのなさは、いったい誰に似たのだろう。


「城へ来ていた商人が言っていたのよ」


 地中海貿易の中継地であるキリキアは、ヨーロッパと中東を結ぶ交通の要衝地だ。シン城にも、毎日多くの商人たちが訪れる。異国の情緒あふれる彼らから、話を聞かんとせがむ娘の姿を想像して、レヴォンは頬をゆるめた。


「それはね――よいことをするのに、見返りがあると思うな。見返りを求めず、よいことをしなさい――そういう意味だよ」


 それを聞いたザベルの表情が、ぱっと輝く。


「父さまのことね! だって、国民のために、毎日お仕事がんばっているもの!」


 まだ幼いザベルにも、父レヴォンの偉大さがわかるのだ。臣下たちにも信頼され、皆が口々に父を褒めるのを、いつも誇らしく思っている。


 レヴォンは、眩しいものを見るように目を細めた。


「ザベルは、この国が好きか?」


「うん! 大好き! 父さまのことは、もっと好き!!」


 跳びあがって訴えるザベルを、レヴォンが腕に抱き上げた。少し前に抱いた時よりも重くなっている。


「わたし、父さまみたいな人と結婚するの!」


「そうか……それはいい考えだ」


 そっと娘の頬に口付けをする。口ひげが当たり、くすぐったそうに笑うザベルの頬が、淡く色づく。ふわりと甘いアプリコットの香りがした。


(私は、この子の成長をいつまで見守ってやれるだろうか……)


 まだ壮健であるとはいえ、やはり先のことを考えると不安がぎる。少しでも娘のために、多くのものを残してやりたい、そんな気持ちになる。


「それじゃあ、そんなザベルに、この言葉を贈ろう」


 なぁに、と小首を傾げるザベルの瞳に、好奇心の色が浮かぶ。


「杏は、木から遠くに落ちない」


「杏は、木から遠くに落ちない…………うう~ん、どういう意味?」


「親や先祖の性質は、その子に受け継がれる、という意味だよ」


 レヴォンは、ザベルを抱えたまま、決して見えることのないアララト山のある方角を見つめる。


「私たちルーベン家には、古きアルメニアの血が流れている。そのことを誇りに思い、その血を絶やさぬよう、次代へ継ぐことこそが、私たちの使命なのだよ」


 だから忘れないで、とレヴォンは伝えた。今は理解できなくても、いつかきっとこの言葉の意味がわかる日がくるから、と。




 それから2年後――1219年、レヴォン2世が急死。


 最愛の父を喪った悲しみに涙する暇もなく、当時わずか7歳だったザベルが、女王として即位した。


 とはいえ、7歳のザベルに政務をこなることなどできはしない。そのため、ヘトゥム家のコンスタンティンが摂政としてつくことになる。


 これが、ザベルにとって悲劇の幕開けとなった。

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