友を守ろうとした俺は世界最恐の《鬼の器》となった~美少女とともに歩む陰陽譚~
ダマ
第1話「寸止めの刃」
息が苦しい。剣道の面の中から見える景色が揺らめいている。
午後五時の西日が、古い道場の床板に染みついたワックスと汗の臭いを濃厚に立ち昇らせていた。
面の中では自分の汗が滴り落ち、小手の布地が湿って張り付き、古い防具の独特な匂いが鼻腔を満たしていた。
視界の端を、埃が流れていく。自分の荒い息遣いだけが、鼓膜を内側から叩くように響いていた。
「……始め!」
顧問の声が、静寂を切り裂く。その瞬間、目の前の空気が爆ぜた。
主将の大岩先輩だ。身長百八十センチを超える巨躯が、床を蹴る震動と共に迫り来る。気迫、踏み込み、竹刀の振り。
どれをとっても県内屈指の実力者であり、部員の誰もが尊敬する「頼れる主将」だ。
だが、今の俺——神宮寺蓮の目には、それはあまりにも遅く映っていた。
スローモーションの世界へと変貌する。 大岩先輩が振り上げた竹刀の軌道、道着の皺の寄り方、筋肉の収縮。
すべての情報が奔流となって脳内に流れ込む。そして、また「それ」が見えた。
——『線』だ。
先輩の防具の隙間、首筋の動脈、小手を守る布の薄い箇所、がら空きの脇腹。
人体としての弱点、あるいは生命活動を停止させるための急所。
それらが、まるで暗闇に走る雷光のように、鮮烈な『赤い亀裂』として浮かび上がっていた。
視覚情報ではない。もっと直感的な、脳の奥底から直接網膜に焼き付けられるような、「壊し方」のナビゲーション。
(ここを突けば、終わる)
(ここを裂けば、止まる)
(ここを砕けば、沈黙する)
悪魔的な囁きが、蓮の神経を甘く撫でる。それは恐怖であり、同時に抗いがたい誘惑でもあった。
パズルのピースが完璧な場所に嵌まるのを待っているような、生理的な快感への渇望。
蓮の身体は、思考よりも先に最適解を導き出す。右足が床を捉え、手首が返る。
先輩の面が落ちてくるそのコンマ数秒前に、蓮の切っ先は既に、喉元の『赤い亀裂』へと吸い込まれようとしていた。
——死ぬぞ。
唐突に、脳裏で警報が鳴り響く。イメージがフラッシュバックする。
喉を潰され、泡と血を吐いて道場に倒れ伏す大岩先輩の姿。信頼してくれた先輩の、光を失った瞳。
「ッ……!」
寸前で竹刀を止める。蓮は全身の筋肉を総動員し、放たれる寸前だった殺意に急ブレーキをかけた。
手首を無理やり外側へ捻る。切っ先は先輩の喉元を数センチ逸れ、虚空を掠めた。
行き場を失った運動エネルギーが手首に強烈な負荷をかけ、関節が悲鳴を上げる。
ドムッ。
鈍い音がした。蓮が体勢を崩したところに、先輩の竹刀が面を捉えた音だ。
だが、それは一本になるような鋭い打突ではなかった。
先輩もまた、インパクトの瞬間に気づいたのだ。
蓮が打つのを「やめた」ことに。
そして、蓮が自ら当たりに来たかのような不自然な挙動に戸惑い、無意識に力を緩めてしまったのだ。
「……そこまで」
気まずい沈黙が落ちる。残心を示すこともなく、二人は竹刀を下ろした。
面紐を解き、頭から防具を外す。一気に流れ落ちる汗が目に入り、少し染みた。周囲の部員たちが、遠巻きにこちらを窺っているのが分かる。
「またか」
「最近、蓮おかしいよな」
「スランプかな」。
ひそひそとした囁きは、直接聞かなくても肌で感じ取れた。蓮は視線を床に落とし、乱れた呼吸を整えるふりをした。
大岩が近づいてくる。怒声が飛んでくるなら、まだ救いがあったかもしれない。
だが、主将という男は、蓮が最も苦手とする「純粋な善意」の塊だった。
「蓮」
温かい手が蓮の肩に置かれる。顔を上げると、大岩は心配そうに眉を寄せていた。怒りなど微塵もない。
ただひたすらに、後輩の不調を案じる眼差しだ。
「また、止めたな」
「……すみません」
「何が見えてるんだ? お前ほどの腕があれば、あのタイミングなら勝てたはずだ。迷いがあるなら言ってみろ」
言えるはずがない。 先輩の喉を突き破るルートが見えていました、なんて。
蓮は曖昧に首を振り、弱々しい笑みを貼り付けた。
「いえ……タイミングが合わなくて。身体がついてこないんです」
「嘘をつけ」
大岩は短く笑い、パンと蓮の背中を叩いた。
「お前は優しいからな。俺に怪我をさせるのが怖いのか? 無意識に手心を加えている、そんなところだろ」
図星のようでいて、決定的に何かが違う。怪我をさせるのが怖いのではない。「壊して」しまうのが怖いのだ。
だが、大岩にとって剣道とはスポーツであり、武道であり、信頼のキャッチボールだ。
相手を殺傷する技術だなどとは、夢にも思っていない。その信念が、今の蓮には眩しすぎた。
「蓮、剣道は信頼だ」
大岩は、蓮の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「俺を信じて本気で来い。俺はそう簡単に壊れんぞ。お前の全力を受け止めるために、俺が主将やってんだ」
その言葉は、蓮の胸に突き刺さった。先輩の言葉は正しい。正しいがゆえに、残酷だ。
蓮の喉元まで、真実が出かかった。『違うんです、先輩。俺が本気を出したら、先輩は本当に壊れてしまうんです』。
だけど、口から出たのは、肯定の言葉だけだった。
「……はい。次は、必ず」
嘘だ。次もできない。その次も。自分の中に巣食うこの怪物を飼い慣らさない限り、俺は二度と、誰に対しても本気で竹刀を振ることはできない。
部室の空気は、制汗スプレーの人工的な柑橘臭と、男子高校生特有の汗の臭い。
着替えを済ませた蓮が鞄を手に取ると、隣で着替えていた親友のケンタが声をかけてきた。
「おい蓮、大丈夫かよ? さっきの大岩先輩、マジで凹んでたぞ」
ケンタは飄々とした性格のお調子者だが、人の感情の機微には妙に鋭いところがある。
ワイシャツのボタンを掛け違えたまま、彼は蓮を見た。
「凹んでた?」
「おうよ。『俺の指導が悪いのか』とか『俺じゃ蓮の稽古相手として不足なのか』って、隅っこでブツブツ言ってたわ。あの鉄人メンタルの主将をあそこまで追い込むとは、お前ある意味すげーよ」
ケンタの軽口は、蓮の罪悪感の傷口を抉った。先輩は、自分を責めているのか。
俺が本性を隠すためにブレーキをかけるたびに、あの人の自信とプライドを傷つけている。
「……俺のせいだな。自分でも、どうしていいか分からないんだ」
「ま、考えすぎんなって! 蓮は昔から繊細すぎるとこあるからなー。芸術家タイプ? 剣道より華道とかのが向いてんじゃね?」
ケンタは努めて明るく振る舞いながら、蓮の背中をバンと叩いた。その痛みのない衝撃だけが、今の蓮には唯一の救いだった。
校舎を出ると、空は既に藍色に染まり始めていた。帰り道、並んで歩く二人の足音が響く。
会話が途切れたタイミングで、ケンタがスマホを取り出した。
「そういやさ、これ見た? 昨日のニュース」
差し出された画面には、『原因不明の集団昏睡、都内で多発』という見出しが踊っていた。
「最近多いらしいぜ。急にバタって倒れて、そのまま起きないんだって。病気なのか事件なのかも分かんないらしい。こういうの見るとさ、平和ボケしてる俺らにも危機感出るよなー」
ケンタは他人事のように言いながら、動画を再生した。現場を撮影した防犯カメラの映像らしい。
繁華街で、数人の通行人が糸切れた人形のように崩れ落ちる瞬間が映っている。
粗い画質の映像を眺めていた蓮の眉が、ピクリと動いた。
「……なんだ、これ」
倒れる人々の背後に、奇妙な「歪み」があった。ノイズではない。蠢いているように見える影。
それは倒れた人々の頭部に覆いかぶさるように揺らめき、何かを吸い上げているようにも見えた。
「ケンタ、ここの影、変じゃないか?」
「あん?」
ケンタは画面を覗き込み、不思議そうに首を傾げた。
「どれ? 画質悪いからブロックノイズだろ。レンズのゴミとか」
「いや、動いてる。人の形をして……」
「お前、ホラー映画の見過ぎじゃね? 何も見えねーよ」
ケンタは笑い飛ばし、画面を閉じた。彼の目には映っていない。蓮にはあんなにも生々しく、禍々しく見えたあの影が。
「お前ほんと疲れてんだな。今日は早く寝ろよ? 明日も朝練だろ」
「……ああ、そうだな」
分かれ道でケンタと別れる。遠ざかる親友の背中を見送りながら、蓮は自分の掌を見つめた。
大岩先輩の身体に見える『赤い亀裂』。 ニュース映像に見えた『歪んだ影』。どちらも、俺にしか見えていない。
先輩にも、ケンタにも言えない。この目がおかしいなんて言えば、精神を病んだと思われるのが関の山だ。
あるいは——化け物として恐れられるか。
孤独感が、急速に濃くなる。世界と自分との間にある透明な壁が、今まで以上に分厚く、冷たく感じられた。
午後七時。自宅近くの商店街は、帰宅を急ぐ人々で賑わっていた。
スーパーからは特売のアナウンスが流れ、焼き鳥屋の香ばしい煙が漂う。
どこにでもある、平和な日常の風景。
だが、蓮の耳の奥では、不快な耳鳴りが止まなかった。キーンという高い音が、まるで警告音のように響いている。
ふと、世界の色がなくなったように感じた。 色褪せた風景の中、ひとつの「異物」が浮かび上がる。
十メートルほど前を歩く、くたびれたスーツ姿のサラリーマン。
その背中に、真っ黒な影が纏わりついていた。
動画で見た『影』と同じだ。だが、肉眼で見るとその禍々しさは比較にならなかった。
粘着質な『影』は、男性の首筋に触手のようなものを食い込ませ、脈動していた。
明らかに、彼の生気を啜っているように見える。
男性の足取りは重く、顔色は土気色で、今にも倒れそうにフラフラとしていた。
すれ違う人々は、誰もその影に気づかない。楽しげに笑う女子高生も、スマホを見ている若者も、その異形のすぐ傍を平然と通り過ぎていく。
(見えていないのか……? あんなにハッキリと、そこにいるのに)
主将のような「良い人」たちが、知らぬ間に何かに侵食され、壊されていく。
その理不尽な光景を認識した瞬間、蓮の視界が変質した。
バヂッ。
視神経がショートするような感覚と共に、黒い影の上に、あの『赤い亀裂』が見えた。
先輩に見えたものよりも太く、深く、そして激しく明滅している。——斬れる。唐突な確信だった。
あれは人間ではない。命ですらないかもしれない。ならば、遠慮はいらないのではないか?
道場で必死に押し殺した「全力で振る」という衝動。壊さないように、傷つけないようにと、自分自身を鎖で縛り付けるような苦痛。
それらを全て解放し、あの醜悪な影を断ち切ることができるなら。
ドクン、と心臓が跳ねた。それは暴力的な破壊衝動というよりも、もっと崇高な使命感に似ていた。
「救うための破壊」という免罪符を得たような、震えるほどの高揚感。
竹刀はない。だが、鞄の中には授業で使ったカッターナイフがある。いや、素手でもいい。
あの『亀裂』をなぞりさえすれば、どんな手段であれ、あれを消滅させることができるという全能感があった。
蓮は無意識のうちに一歩を踏み出し、手を伸ばしかけた。指先が、殺意に呼応して鋭く震える。
「……ッ!」
だが、伸ばした手は空中で止まった。寸止め。ここは往来だ。
人前で突然、他人に襲いかかるような真似ができるわけがない。
カッターを抜けば即座に犯罪者だ。
それに、あの影を切ったとして、男性が無傷で済む保証はどこにもない。理性が、ギリギリのところで本能をねじ伏せる。
その数瞬の逡巡の間に、サラリーマンは角を曲がり、黒い影も闇に溶けるように消えていった。
残されたのは、不自然に手を伸ばしたまま立ち尽くす自分だけ。
蓮は、逃げ去るように近くの歩道橋へと駆け上がった。
手すりを強く握りしめる。錆びた鉄の冷たさが、火照った掌を冷やしていく。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。先程の興奮の余韻が、まだ指先に残っていた。
あんな得体の知れない化け物に対して、恐怖よりも先に「斬れる喜び」を感じてしまった自分。
その異常性が、心底恐ろしかった。
「俺を信じて本気で来い、か……」
大岩先輩の言葉を反芻する。先輩は、俺を受け止めると言ってくれた。
だが、俺の本気を本当に受け止められるのは、人間なんかじゃない。
斬っても壊れても構わない、あんな『化け物』だけなのかもしれない。
なんと皮肉な現実だろう。人を守るために剣を学んだはずなのに、その剣が最も輝く相手は、人ならざる者だったとは。
「……くそっ」
蓮は唇を噛み、街を見下ろした。街灯の届かない路地の闇が、先ほどよりも深く、濃くなっている気がした。
日常の皮一枚下で、何かが蠢き始めている。そして自分だけが、その深淵を覗き込む目を持ってしまっている。
平穏な日常が終わる予感と共に、蓮は夜空を見上げた。月は雲に隠れ、星一つ見えない暗闇が、ただ静かに彼を見下ろしていた。
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