理の冒涜者 魂の魔女リオネッタ 了



 リオネッタのところで過ごす週末も終わろうとしていた。


 わたしは、暗くなる前に帰路についていた。畏れ多くも、竜族の大公様と一緒の馬車に乗っていた。


 大公シーナ・ロズウェル・リンドヴルム。


 白竜の聖女と呼ばれている竜人様だ。


 聖女様が代表を務める慈善団体は、罹災保護・病人や貧民救済、最低限の衣食住と医療の補償を引き受けている。並びに孤児院の運営を世界規模で行っている。たぶん、シーナ教といえば今のこの世界においてその名を知らない者はいない宗教だろう。


 宗教とは言っても、それは一方的な信仰心からくるもの。そもそも単なる慈善事業家なのだが、紛争地から寒村まで、あまりに多くの人々がその恩恵の下で生活している。次第に、行き場のない感謝の気持ちは信仰心に、預かり知らぬところで宗教と呼ばれるまで肥大化してしまった。


 結果、人々はシーナ様を聖女として信仰し始めてしまった。


「いやぁ、めんこいのぅ」


 年寄りのような口調で、満足そうに何度もわたしの顔を覗きこむと満足した様子だった。


 そのシーナ様の正体が、普段からこんな少女の姿で遊び歩いているとは、誰も夢にも思わないだろう。でも、リオネッタの研究の後援者の一人が大公その人であり、神と呼ばれるまで昇華したシーナ様だ。


 リオネッタからは悪逆非道の限りの行いを度々聞かされていたけれど、わたしはシーナ教には疎いし、それに繋がる宗教の歴史も本で少しくらいは知っている程度。


 わたしより頭ひとつぶん大きいくらいの少女が、そんな大物だとは思えなかったけれど、竜族、生き物としての『格』の違いを本能的に察してしまった。


 なにより嘘を言っていないし、嘘をつく理由もない。


「リリか、百合の花は聖母マリア様の花じゃ。めでたい日の贈り物にも、葬儀の際にも贈られる。人生を彩る清らかな花。うんうん、相も変わらずいい名前じゃ」


「聖母マリアさま?」


「『旧人(ふるきひと)』じゃな、年寄りの戯言は気にせんでくれ。それより、リオネッタも隅にはおけぬではないか、しばらく見ない間に恋人なぞこさえおってからに」


「リオネッタ。リオは、一番大切な友達です」


「隠さんともよいぞ、そもそもわしの目を誤魔化せると思わぬことだ。特に色恋沙汰はの」


 大公様は、わたしの帰り道にいつも何の前触れもなく当たり前のように現れる。そのままわたしを家まで送り届けるついでに、お店で晩酌をして、いつのまにか消えてしまう。神出鬼没なのだ。


「それにしても、リリ。おまえさんは見かけによらず大胆ではないか、覗き見ていたが、初々しい少女同士というのは、こう、背徳的で、蠱惑的じゃな。人形同士も相まって、新しい扉を開きそうになったな!」


「覗き見、してたんですか、俗っぽいんですね、シーナ様は」


「あははっ、そうじゃなあ」


 なんとなく気さくなおじさんみたいな雰囲気に、いつも無愛想な態度を取ってしまう。けれどシーナ様は、取り繕わないわたしの態度をえらく気に入っているようだ。


「当事者はともかく、色恋沙汰を見てるのは楽しいぞ。愛というものが育まれてゆく過程は尊く愛おしいものだからな。しかし同時に、不用意に触れると痛い目に遭う!」


 心配になるくらいの笑い上戸。


 なんというか、わたしみたいな陰気な性格をしている者からしてみれば、あまり関わりたくない苦手なタイプ。だけど、シーナ様との帰り道は嫌いじゃない。気疲れするけど。


「ふむ、しかし不老不死とはいえ。いくらなんでも幼すぎやしないか。いや、中身ではなく外見がのぅ。触れれば肋も浮いておるし、あまり肉付きがよくない。人形姿の方がまだ健康的にすら思える。そもそも生き物のにおいがせんのだ。ちゃんとたべておるのか?」


 すんすんと鼻を鳴らし、シーナさまは怪訝な瞳でわたしを一瞥する。


「まあ、わしも今は幼き竜ゆえ、人のことはとやかく言えんがな。しかしなぁ、こう、おまえさんの姉のような色香がガツンとくる清々しいほどの肉欲の塊のほうが食べ応えがあって好みなんじゃがのぅ。わははッ!」


「お肉は、わたしも好きです」


「あぁ、いや。肉とは言っても、お肉ではないのだ。わしとおまえさんの姉とは長ぁい仲になる、前々から肉体関係にある。そうじゃな、ちょいと爛れた恋人関係と言って差し支えないが。おまえさんは、すれっからしなようで実際には純朴なのも、かえって扱いづらくて困りものじゃなあ」


 シーナ様は乾いた笑いを浮かべながら、頭を抱えていた。なんだか馬鹿にされているようで、癪にさわる。


「わたしは、リオネッタとキスしました。人形だったけど。もう子供じゃありません」


「わしが言いたいのはそういうところなんじゃが、まあよい。それはそれで可愛らしくてな、とても。カミラに話したら喜ぶであろうな。だが、あやつは口にこそ出さぬが、かなり過激なシスコン気質でな。つい近年では、魔物がおまえさんに怪我をさせたことに怒り狂い、手当たり次第八つ当たり気味に狩っておったからな、もうしばらくは酒のアテに鳥肉料理は勘弁して欲しいぞ。それに普段から酔ったフリしておまえさんには接吻を繰り返すわ、当てつけか。リオネッタの所に通うようになってからは、こうしてわしを顎で使うように護衛につけさせおって、まったくあやつは何様じゃ。しかし、まあ、おまえさんと過ごすようになってからは、その気持ちはわからんでもなくなったがな。しかし、いくらなんでもわしだって妬けるぞ!」


 シーナ様は愚痴を溢しながら「カミラぁ、わしとは遊びじゃったんかぁ!」と興奮した様子で、懐から平べったい水筒のような、確かスキットルと呼ばれているものを取り出して蓋を開けると鼻が痺れるほどの刺激的なアルコール臭。


 間髪入れずにそれを飲み干すと、激しく咽せた様子でしばらく咳き込んでいた。


 シーナ教の教徒にこの姿だけは見せてはいけないような気がした。神格化されたシーナ様の本来の姿をみたら、きっと幻滅するだろう。信じるかどうかはまた別として。


 沿道に点在するガス灯が、内部に設定されたタイマーにより次々と点灯するけれど、まだ空は夕焼け。


 冷たく澄んでいる常冬の空は綺麗な橙色だ。


 吐息は白くて当たり前、かと言って毛皮に覆われた獣人にとっては気にするほど寒くはない。


「うう、寒さが染みるのう」


 竜の血は溶鉱炉の鉄のように赤熱しているとされるので寒さには強いらしい。幼い竜は全体的に鱗が薄いので温かい。鱗のない竜のリオネッタとの触れ合いは必要最小限ではあるが『アニマ』を抜かれる時の、わたしをリラックスさせるマッサージは優しい温かさでクセになるほど気持ちがいい。


 シーナ様が寒そうにしているので、わたしは自分のマフラーをシーナ様に渡した。


 しかし、シーナ様よりわたしに抱きついて頬擦りをしてくる。


「うぅ、おまえさんはあったかいのう。獣人はもふもふで、心地よいのう。それに石鹸のやわらかくて甘い、いい香りじゃ。カミラは、あやつはちっとばかしだらしがなく、風呂に入らぬ時は本当に血生臭く酒臭くて敵わん」


「シーナ様も温かいですよ。それに、お姉ちゃんは面倒くさがり屋だから仕方がないんです」


「竜の幼体は特に体温が高くてな、血は火傷するほど熱く蜜のように甘くとろけているらしい。ばか吸血鬼が、熱さで悶える姿はいつ思い出しても滑稽で愉快よ」


 シーナ様は、楽しそうに笑い、しんみりと呟くようにわたしの名前を呼ぶ。


「……のう、リリや。教えてくれ、世界はよくなっているのか、わしにはそれがわからんのだ。シーナが成したことは多くの人々を救った。そんな気にはなったが、結局はただの自己満足で、わしは聖女だとか神だとか呼ばれて怖くなって責任が取れずに逃げ出した。宗教という爆弾がいつどんな形で爆発するのかわからんからな。二つ、わしは不老不死が不自由なく生きて行けるように根回してきたが、不和の種をふり蒔いただけではないのかと。……三つ、魂の魔女ことリオネッタの『アヴァターラ』は本当に人類を救うのか否か」


 一つ、二つ、三つと指を立てて、そしてシーナ様は答えを待っていた。


「わたしは、少し本が読めるくらいの陰気な子供なので、聡いわけではないのであなたが求める答えはわかりませんが。シーナ様が積み上げた世界の礎の下で、わたしの世界は始まりました。それだけがわたしにとっての事実だと思います。あなたがいなければ、今わたしはここにいないと思います」


 シーナ様が立てた三つ指のうちの二つを上から覆うように手を握る。わたしへ三つの問いのうち二つの答えは肯定で、宗教という爆弾とやらの、その答えは実際に被害を受けないとわたしにはわからない。


 でも、シーナ様をはじめとした竜族の根回しがなければ、わたしたち家族がこの街で暮らすことは出来なかったし、リオネッタに出会うこともなかった。リオネッタに出会うことがなければ、人並みの体の自由を得ることも出来なかった。シーナ様の選択の結果、今わたしがここに存在している。


「今は幸せ、か?」


「幸せです」


「断言するとは。そうか、では、リリの世界は良いものになっているのじゃな。すこし、安心した。わしが毎週リリの帰り道を共にするようになってから、いつかは聞こうとは思っていたが、なかなか踏ん切りがつかなくてな。道化を演じていたその実、わしは拒絶と否定がなにより恐ろしかった。実はカミラにも同じような問答をしたが、あやつは、こんな優しい答え方ではなかったな」


 シーナ様は自身の首筋を優しく撫でるように確かめると、屈託のない笑顔を浮かべた。


「まあ、よい。いずれにせよ自分のしたことの責任は自分が取らなければな。その為にも英気を養わなければな、今日は飲むぞー!」


「今日も、ですよね」


 ウチの店、ヤドリギが繁盛しているのはいいことだけど、お父さん一人では手が回らなくなって来てからは人を雇うようになった。おかげで、お父さんと過ごす時間もすこし増えて、ちょっと嬉しいのは口にはできないけれど、たぶん見透かされているんじゃないかな。





 物置同然だった家の二階は、今では掃除が行き届いて、わたしたち親子の新しい生活の空間になっていた。


 厨房設備の拡張や店内の改装やら、お父さんの経営するお店の成果による嬉しい変化だ。変わり映えしないバックヤードでの生活に慣れていたから、少し手狭に感じるけれど。これは、これで新鮮な気分でいいものだ。


 とはいえ、部屋にあるものはほとんどわたしのものばかりで、お父さんの私物は、年季の入った猟銃と内側に反った風変わりな剣鉈だけ。どちらもよく手入れがされていて、とても大切なものなのは知っている。


 お父さんは、子供のわたしを連れたまま外の世界でも生き延びることができる。そのサバイバル能力は秀でているかもしれないが、純粋な戦闘能力は平凡だとされている。


 不老不死の問題は不老不死に解決させるべきだと、シーナ様が組織した私設軍隊は、公にはその軍隊そのものが不老不死の存在の集まりであることは伏せられている。荊棘いばらと呼ばれている軍隊にお父さんは所属している。主に、不老不死への対抗手段、執行者として認知されている。その職務に当たる際は正体の漏洩を防ぐために全員が深紅の外套を身につけるそうだ。そして、荊棘であることを申告する義務はない。不老不死を偽り、普通の生活を送るための根回しをいくらでもしてくれる。お父さんも自分がそうあるつもりはない。口癖のようにもう握る刃物は包丁だけでいいと言う。だけど、もしもの時を備えておくべきだと。武器の手入れをする時のお父さんはなんだかいつも憂鬱そうな印象だった。


 寝起きのわたしは、いつも思考が纏まらなくて、垂れ流すように自分で思うよりも色々なことを考えていた。昨日の帰り道にシーナ様と話したことを何度も何度も思い出しては、自分なりに今の境遇について悩んでいる。悩んだところでどうしようもないけど、些細なことで日常が終わると思うと、怖くなってきた。


 もぞもぞと布団から這い出して、裸になるのも億劫だ。服を着るにもまずは『アニマギア』用のインナーを身につけなければ始まらない。その為にはまず裸にならなければない。


「うへぇ」


 別に、キツくて苦しいわけじゃないんだけど、密着しすぎというかなんというか、裸よりも恥ずかしい。でも、このインナーを着ないで『アニマギア』使ったら、ちょっと激しく動いただけで毛皮が捻じ切れるんじゃないかってくらい痛い、実際そうなるらしい。


 にしても、どんなものでできているんだろう。ゴムのような弾力と伸縮性、柔軟だけど強靭。撥水性があって通気性はほとんどないし。それでも不快感はなくて、まるでわたしの体の一部のような一体感。ずっと着ていても違和感はない。けれど、この質感はあまり考えたくないんだけど、微かに脈動しているような気がする。実は生きてる、とか。まさかね。


 どこにも切れ込みない抜け殻の首の部分を大きく開いてそこから両足を滑り込ませて着る。手足を通して、あとは装身具で脱げないように上から固定すると、毛皮でふかふかだった体の線が潰れて浮き上がり、明らかに普通ではない奇妙な格好をしている自分の姿がなんだか心許なく、恥ずかしいとすら思う。


 すっかり珍妙なインナーを着ることには慣れてしまった。この上から普通の肌着を着て、制服に着替える。まさか慣れ親しんだスカート姿に羞恥心を覚える日が来るとは夢にも思わなかった。


 普段から、肌寒いからタイツを履くようになったと言い訳をしているけど、首から下をぜんぶ覆うタイツのようなものを着ているとは一言も言っていない。というか言えない。


 人並みの運動能力のためならば背に腹は変えられないけど、願わくば今日も誰にもインナー姿を見られることがないように。






 職場での昼食後、昼休憩の時、談笑混じりの雰囲気の中で教官はちょっとした講義をしていた。


「お前らは、十五・四十五・九十の法則って知ってるか。いかにも脳みそからっぽそうなクロード、答えてみろ」


「教官ってオレにやたらとアタリがキツいんだよなぁ」


「撃たれたくなかったら、つべこべ言わずに答えろ五、四、三」


 銃口を向けた教官は秒読みを告げる。


「ちょっ、答えりゃあいいんだろ。それくらいわかるっての」


「なら答えてみろ、言っとくが大喜利じゃあねぇからな。ふざけたりしたら、な?」


 教官、穏やかじゃないです。


 クロード先輩は呟きながら手指を何度も曲げ伸ばし、何かを数えている様子だった。


「……倍数?」


「アホ、算数の授業じゃねえんだよ」


 銃のグリップで頭を殴られた先輩は「クソ教官!」と捨て台詞を吐きながら床の上でバタバタと悶絶していた。


 クロード先輩はなんというか、お調子者というか、いつも体を張って場を和ませてくれる。ムードメーカーな一面がある。


「リリ、後学のためにも馬鹿に正解を教えてやってくれ」


「はい。たしか、集中力の維持に関わる法則だったと思います。子供の集中力はだいたい四十五分程度で、大人でも集中力の限界は九十分と言われています。持続させるにしろ、休憩するにしても十五分刻みに行動することが仕事の質を高める、と言われている。だったかと」


「まあ、そういうことだ。休む時は休んで、働く時は働く、要はメリハリをつけて仕事しろ。働き詰めは許さんし、かと言ってサボるのも言語道断だ。なぁ、主任殿?」


「な、なんでこの流れで私を?」


「メシを食いながら仕事すんな」


「それなら所長を連れ戻してきていただきたいものですねと常々申し上げております」


「それもそうだが、まず行儀悪いだろ」


「うっ、あなたに常識を問われるのは釈然としませんが、一応父親でしたわね。あなた」


「おう、それにな。リリに何かしらの悪影響が及ぶと、不味いだろ。色々」


 先輩を医務室に引きずっている最中、わたしに視線が集中するを感じてゆっくりと振り返ると。優しい視線が痛い。


「あの、揃いも揃って子供扱いはしないでください」


「まあ実際、子供だからしょうがねえよな」


「教官が叩いたところと同じ場所ぶちますよ、先輩」


「へいへい、でもこのままじゃ服がだるんだるんになっちまうからな。ちょいとドクターのところで氷もらってくるわ。ったく、たんこぶできるっての」


「あう」


 先輩は不服そうに起き上がると、わたしの髪が軽く乱れるくらい撫で回すと、おぼつかない足取りで医務室の方に歩いて行った。そういえば、ドクターも昼食の席には滅多に顔を出さない。ちゃんと食器は返って来るから食べているのかもしれないけど。


「ドクターは立場上、部屋を空けらんねえんだわ。なんというか、主任とドクターの二人は完全に仕事中毒みたいなもんだからな、頭が痛いぜ。なんてな」


 教官の口調を真似して、そのまま逃げるように走り去って行った。


「リリちゃあん!!」


 そして入れ替わるように、エレイナさんが飛んできてわたしに抱きつこうとしてきた。それを軽くいなして、距離を置く。わたしは、あまり触られたくないのだ。インナーを着ていることもあって。


「もう、なんで避けるの。なんだかなぁ、リリちゃんってば最近触らせてくれなくなったよね。距離感があるというかなんというか、恥じらいを覚えてきたみたいな」


「だから、恥ずかしいんです。人目の付くところで撫でられたり、抱き付かれたり、そういう子供扱いされるのが。そりゃあ、わたしなんてまだ子供ですけど。仕事くらいは、色眼鏡抜きにちゃんと良し悪しの評価をしてもらいたいです」


 足手まといのままなのは嫌だった。できないことがだんだんできるようになってきて、ようやく半人前くらいにはなれたわたしなりのプライドがある。


 人見知りも少しは改善してきてる。支局のみんなの顔と名前も覚えたし、ちゃんと顔を見て挨拶もできるようになった。


 外回りの仕事も任せてもらえるようになって、この地域の住民との関係もまだぎこちないけど、お父さんのお店のお得意さまがほとんどだから、なんとかこなしていけるようになった。


 教官とはほとんど毎日、空き時間を見つけては体術や短剣術の鍛錬を受けて、もう周りに心配をかけないように。変わっていけるように頑張っている。


「リリちゃんがどんなに頑張っているか、知らない人なんてここにはいないよ。私はね、リリちゃんを子供扱いしているわけじゃなくて。単純に抱きしめて愛でたいだけなの。それは、だめかな?」


「恥ずかしいので、イヤです。ダメです」


 アニマギアと鍛錬のおかげで、エレイナさんに抱きつかれることはほとんどなくなった。


「リリちゃんのいじわる」


 再び、抱き付いて来ようとするエレイナさんの足元を身を屈めて足早に潜り抜けて距離を取ると、不貞腐れたように近くにいた主任を抱きしめて顎を頭に乗せていた。


「エレイナ、私を代わりにするのはやめなさい」


「主任も前はこうして私に撫でられたりするのが好きだったじゃないですか」


「過去の捏造もやめなさい、減給するわよ」


「主任はいつからそうやって権力を振りかざす暴君になったのですか?」


 やれやれ、と。首を振りながら主任から手を離すと、エレイナさんは教官を一瞥してため息を吐いた。


「案ずるより産むが易し、ですかぁ。でもなぁ、結婚したくないなぁ」


「エレイナ。なんで、俺を見た」


「特に深い意味はないです。深い意味は」


 配達員としてそれなりに過ごしてきたら、世情にも少しは詳しくなる。


 エレイナさんは、貴族階級の家出娘で許婚との結婚から逃げるように、ヴァナランドと呼ばれる遥か遠方の国から、わたしたちの暮らすミズガルズ連邦の首都ビヴロストの終点街までやって来た。


 古株のように思われがちだけど、実はわたしに一番近い同期。だけど受付嬢としての手腕はベテランにも引けを取らない。外の世界を旅慣れているだけあって、多少の荒事にも動じることもない。銃口を向けられようが、凶器の切先を向けられようがにこやかな笑顔を崩すこともない。しかし、結婚という二文字で彼女は今にも吐きそうなくらい顔色が悪くなる。


「どうせならもう仕事と結婚しますぅ」


 思い詰めた様子で受付のカウンターに戻ると、鈍い音がするくらい頭を打ち付けて突っ伏した。


「だいぶ、来てンな」


「何度もプロポーズされて、かなり神経質になってるわね。贅沢な悩みですこと」


 色々と、すっかり見慣れた光景だ。


「さて、昼休憩もそこそこに、食器類の確認が終わり次第ヤドリギさんに返却しに行くわけですが。こっそり、デザートなんて食べて来ないようにリリに監視してもらいますからね?」


 ヤドリギからの昼食の配達が根付いて、わたしの勤める支局は大口のお得意様になっている。


 今では、訳アリの同業者(荊棘)を二名住み込み従業員に雇っており、お父さんの負担もかなり軽減されている。


 客足が増えても、昼間は落ち着いた雰囲気の喫茶店で、夜は庭先に簡素な樽のテーブルを並べた喧騒の絶えない大衆酒場のようになっている。


 店内では落ち着いて飲食したいお客さん向けで、店外では賑やかに飲食したいお客さんとの棲み分けをしている。


 お客さん同士のいざこざが、一度たりとも起きていないのは、やはりお父さんの経営者としての能力だろう。わたしも、仕事が終わればお父さんのお手伝いをするけれど、お店が大きくなっても変わらない居心地のよさを感じる。


 当番制で、ヤドリギからの料理を受け取りに行き、貸し出された食器類や料理が入っていた鍋などを返却するようになっている。


 わたしの出勤日には必ず、わたしがその当番のひとりになるようにお願いされている。お父さんにもわたしが好き嫌いしていないかの確認をお願いされている。


 そして、主任は当番に「ぬけがけ」されることを問題視している。主に、業務中なのについでにデザートを食べてくる職員には、他の職員からも冷たい目で見られる。


 どちらにしてもニオイでわかるので、わたしが監視をする必要はないと思うけど、いると特に罪悪感を覚えるらしい。


「そういえば、リリちゃんってアクセサリーとか興味あったんだねえ。でも、着ける部位によって色々と意味が変わるから注意したほうがいいかもよ?」


 遠くからわたしを眺めるエレイナさんがすこし含んだ言い方をする。


「たとえば、中指のリングは直感力を引き出すとか協調性や人間関係の向上って意味があるんだよね。それは、リリちゃんらしいなって思うんだけど。ブレスレットは冷静さや行動力だったり、それもわかる。けどね、アンクレットは左右で恋人募集中とか恋人がいますって正反対の意味があって、リリちゃんはたぶんとりあえず着けてるのかなって思ってたけど、よく見たらチョーカーまでしてる」


「へぇ……」


 留め具程度にしか思っていなかったアクセサリーにも色々と意味があるんだなと、エレイナさんの知識に感心していると。突如机を叩き勢いよく立ち上がると食らい付くように興奮気味にこちらを見ていた。


「じ、実は、誰かの、贈り物だったり?」


「そうですね、友達から」


「友達から、そうですね?!」


 エレイナさんが卒倒して、また悪ふざけが始まったと思ったらしばらくしても何の反応もなかったので、受付嬢のシンシアさんが覗きに行くと、泡吹いて倒れて失神していたという。


 ちょっとした騒ぎになり、エレイナさんは医務室に運ばれていった。


 後から知ったことだけど、どうやらチョーカーには特に支配的な意味合いが強いみたいだ。それがいったい何が問題なのかはわからなかったけど、エレイナさんは目覚めるまで悪夢にうなされるように「リリちゃん、いかないでぇ」と言っていたらしい。





 今日も無事に慌しい一日を終えて、自室でインナーを脱いで裸になった時に『アニマギア』の力は失われた落差で、わたしはバランスを崩して立ち上がることすら出来なくなった。


 重力に押し潰れそうなほど酷く体が重たく感じる。


 本来の自分がこんなにも非力で無力な存在だったのだと思い知らされると同時に、如何に『アニマギア』が優れたものであることを証明していた。


 そして、この無力さはわたしが力を得たものだと勘違いをしない為の戒めとして忘れてはならない大切な感覚だと思う。


 わたしの体力は相変わらず、全く成長することはなかった。『アニマギア』によって強化されたインナーを着ている間は、ある程度の疲労を肩代わりしてくれるから疲れにくいし激しい運動しても悪影響はない。ただ、ほんの少しだけ気疲れするというか、精神的な疲労で頭がちょっとだけぼんやりする。


 たったそれだけでも眠気を誘うには充分すぎる要因だ。これでも慣れてきたものだけど、調整してくれているリオの努力の賜物だ。


 それにしても、彼女が魂と呼んでいるものは具体的にはなんなのだろうか。非物質的なものであると言うけれど、そもそも物質ではないものというのはなんなのか、この物質界以外の世界でもあるのだろうか。


 どれだけ考えてもわからない。その類の本をいくら読んでもわからない。神秘学の話なんて専門外だ。


 どうせなら脱衣所でインナーを脱ぐべきだった。


 わたしはこれまで何度もそんな後悔をしていた。


 別に、誰に裸を見られようとも羞恥心など微塵も感じることはなかったのに、このインナーの姿だけは見られたくはなかった。


 なんだか、わたしの魂を覗かれているような気がして、そわそわして落ち着かないのだ。


 ただ裸を見られている方が楽なのかもしれない。


 それはそれで問題かもしれないけど、他人の目には外見相応の幼い子供にしか映らない。


 だけど、魂を動力とする『アニマギア』は、言い換えれば魂を曝け出しているようなものではないだろうか。見られてはいけないものを見られているような気がした。


 ゆっくりとノックが二回、遅れてお父さんの声。「もう入ってもいいかい?」と。


「……お風呂、入る」


 泣きそうな声を我慢して、お父さんにわたしを抱き上げてもらう。お父さんはわたしの頭を優しく撫でると、階段を下りる感覚が伝わってくる。


 浴室の簡素な椅子に座り、うとうととしていると、温かいシャワーがわたしを濡らして毛皮が濡れて体にピッタリと張り付くような感覚で目が覚める。鏡越しに、少しだけ羞恥心を感じながら泡まみれになる自分の姿を眺めている。


 やっぱりわたしの姿は幼いまま、どこもかしこもまるで変わらない。飲食がわたしの体に及ぼす影響は乏しく、ここ数百年で身長も体重も微々たる変化だ。


 ただし、病気や怪我には弱い。子供並みの免疫力しかない。病弱というほどではないけれど、かと言って健康体であるとも言い難い。慢性的にやや貧血気味であるのが普通の状態だ。


「お父さん、わたしね。リオのこと好きかも」


「誰かを好きになることはいいことだね」


「でも、リオは生き物が苦手だから。リオが好きなのはまだ人形のわたしなんだろうなって思うとなんだか複雑なんだ」


「竜と不死者。これからお互い長い付き合いになるんだろうから、仲良くできるといいね。でも、私が口を挟むことじゃないけど、お姉ちゃんの真似だけはしないようにね、ホントにそれだけはお願い。お父さんそれだけが心配。大公様がウチに来るたび、あの子が変なことしてないか心配で心配で」


 お父さんは肩を落として胃痛を気にするような仕草を見せていた。キスをしたのは人形のわたしだから、まだ大丈夫だよね。


「リリさんなら余計な心配だけどね。でもね、親しき仲にも礼儀ありって言うから。どれだけ縁深い関係になっても互いを尊重することだけは忘れちゃあいけないんだよ」


「うん」


 濡れた体から徐々に熱が奪われていくことを感じると、お父さんはわたしの些細な変化に気がついた様子でもう一度全身をすすぐように柔らかいブラシをかけてくれた。


「えへへ、ありがとう」


「すぐに拭くから待ってなさい」


「はあい」


 少しだけ、のぼせ気味で気分がいい。


 脱衣所の鏡には上機嫌で体を揺らすわたしの姿があった。


 お姉ちゃんが度々疑問に思うことで、わたしの入浴時間にお父さんと一緒にシャワーを浴びないのか?というのは愚問で、お父さんの入浴時間は始業前に毛の一本すら落とさないように完璧に洗う。


 お姉ちゃんが期待している裸の付き合い、とやらはしたことがない。お父さんの裸は、そういえばあまり見たことがないかもしれない。


 全身の水気を丹念に拭き取られながら記憶を掘り返してみると「古傷だらけであまり見せるようなものじゃないから」って困った笑顔を向けられたことを思い出した。それは、つまり吸血鬼になる前の怪我だということだろう。


「あ、失敗したなあ。これじゃあ、汚れちゃうから血が吸えないね」


 鏡の前の完璧に仕上げられたふわふわもこもこの毛玉は、きょとんとした顔で小首を傾げていた。


 すこし遅れてあんぐりと口を開くと「そうだねえ」と他人事だ。親子揃って頭が働いてない。ただでさえ血のにおいに敏感な獣人社会においてこれほど致命的なミスは他にない。


 けれど、だからといってお父さんに血を飲んでもらわない選択はありえない。


 結局、精神的な疲労と入浴の倦怠感でうとうとしている間に甘噛みするように、ゆっくりと牙がわたしの首筋に刺さり、心臓の脈動と共に体内から押し出される血液と一緒にわたしの意識もお父さんに飲み込まれていった。


(つづく)

 

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