第41話 川中島の霧

 海津の霧が、いつもより重かった。

 千曲川の白い息が土塀を越え、見張りの槍先を鈍く包む。霧は敵を隠す。だが同じくらい、味方の迷いも隠す――そのことを、義信はこの数ヶ月で骨身に染みて知っていた。

 夜明け前、甲府からの使者が馬を潰す勢いで詰所へ駆け込んだ。

「越後勢、境を越え候! 川中島へ向け、兵動き出し――」

 言い終える前に、義信は立ち上がっていた。

 越後が動くなら、こちらも動く。ただし、槍より先に動かすものがある。餉と火だ。

「城代。蔵は“空”にしたな」

「はっ。火薬は三つに分け、村の小蔵へ。米も同じく。蔵は囮の箱にございます」

「よし。次だ」

 義信は帳場の机に紙を広げ、筆を走らせた。

 配り札。米の札。塩の札。火薬の札。どれも同じ形、同じ大きさにし、印は日ごとに替える。名ではなく印で回す。印がなければ受け取れない。受け取れなければ盗めない。

「配りは施しではない。軍の賃だ。村は守りの城。守りに払うのは当然だと、皆に言え」

 城代が喉を鳴らしながらも頷いた。

 反発は出る。だが反発より先に、腹を満たさねば戦は出来ない。

 勘助が入ってきた。土の匂いをまとい、目だけが冴えている。

「義信様。越後は車懸りの支度にございます。先に川中島へ入り、陣を張り直す気配」

「車懸りなら、受ける形を変える」

 義信は短く言い、すぐに命じた。

「鉄砲足軽を二列に分けろ。撃つ列と、詰め替える列。間に槍足軽を入れ、突かせろ。撃ち続けるな。撃たせ続けろ」

 “技”を誇るつもりはない。要るのは勝ち方ではなく、折れない形だ。

 鉄砲は強い。だが、撃てぬ刻は弱い。弱い刻を槍で埋め、次の一撃へ繋げる。

「柵は」

 勘助が問う。

「急造でよい。丸太を組み、浅い堀を切れ。馬の脚を止めれば、勝手に隊列が乱れる。乱れたところへ鉄砲を当てる。敵の勇に、敵の形を与えるな」

 義信は息を吸い、吐く。

 戦の前に、まず形を作る。形が出来ていれば、霧が濃くても兵の足が乱れにくい。

     *

 出陣は早かった。

 海津の門が開くと、足軽の列が霧を割って進む。旗が揺れ、馬が鳴き、鎧の擦れる音が低く連なる。だが、列は崩れない。餉の札が行き渡っている。荷の道が見えている。見えている道は、人の心を落ち着かせる。

 川中島の平。八幡原へ近づくにつれ、霧がさらに濃くなる。

 遠くの山影も、敵の旗も、まだ見えぬ。それでも義信は焦らなかった。焦れば、隊列が乱れる。乱れれば、そこへ車懸りが刺さる。

 陣に着くと、信玄が既に本陣を定めていた。

 内藤、馬場、山県――並ぶ顔ぶれの中で、義信は一歩下がった位置に座し、言葉を整える。

「父上。越後は必ず正面から噛みつきます。こちらは形で受け、餉で勝ちましょう」

 信玄は義信の目を見た。短い沈黙のあと、頷く。

「餉で勝つ、か。戦の勝ちを腹で語る者は少ない。……よい。任せる。兵糧の配りはお前が握れ」

 その一言が、場の空気を変えた。

 家臣たちの視線が義信へ向く。――若殿が兵糧を握る。兵糧を握る者は軍を握る。これは褒美であり、試しでもある。

 義信は深く頭を下げた。

「はっ。乱れぬよう、札で回します」

 信玄は満足げに口角を上げ、すぐに顔を締めた。

「越後の動きは」

「霧の中で車懸り。来ます」

 勘助の声が低く落ちた。

     *

 昼前。霧が薄く裂けた瞬間だった。

 山際から、越後の旗が一斉に湧くように現れた。太鼓が鳴り、鬨の声が霧を破る。

 そして、車懸り――波のように隊が入れ替わり、正面から叩きつけてくる。

「来たぞ!」

 前線の槍が動く。馬が嘶き、鉄砲の火蓋が切られた。

「撃て。……撃ちきるな。次を残せ」

 義信は前線の脇に立ち、鉄砲足軽へ声を飛ばした。

 一列目が撃つ。火と煙。倒れる敵。だがすぐに二列目が前へ出る。撃つ。さらに一列目が詰め替える。撃てない刻を槍が埋める。

 車懸りは“勢い”で押す。勢いは、こちらが息切れした瞬間に刺さる。だから息切れしない形で受ける。

 越後の先鋒が柵へぶつかり、乱れた。

 乱れたところへ、義信は槍隊を一歩だけ出した。

「今だ。突け。出過ぎるな。戻れ」

 短く、短く。

 前へ出すのは一瞬。戻すのも一瞬。長く出れば、車懸りの次の波に飲まれる。

 敵が二度目の波で押し込み、柵が一箇所、軋んだ。

 柵の陰から越後兵が槍を差し込み、こちらの足軽が倒れる。そこへ馬が割って入ろうとする気配――危うい。柵が破れれば、形が崩れる。形が崩れれば、霧の中で何が起きたか分からぬまま兵が散る。

 義信は迷わず走った。

 供回りを連れず、前へ出る。矢の飛ぶ音が耳を掠め、土が跳ねる。

「ここは持て!」

 義信が叫ぶと、足軽が顔を上げた。若殿が前線にいる。それだけで、人は踏ん張る。踏ん張りが一息増えれば、形は戻せる。

 義信は柵の前に丸太を一本転がし、槍足軽に命じた。

「これを横に入れろ。隙を塞げ」

 丸太が滑り込み、柵の裂け目が塞がる。

 その瞬間、二列目の鉄砲が火を吐いた。裂け目へ突っ込もうとしていた越後兵が崩れ、押しが止まる。

 義信は息を吐き、すぐに戻る。

 前線で長居はしない。若殿が倒れれば、形が一気に折れる。ここで要るのは勇ではなく、形を保つ手だ。

 霧の向こうで、太鼓が一段大きく鳴った。

 越後の本隊が、さらに圧を増してくる。波が三つ、四つ。だが、こちらの札は回っている。火薬も、弾も、乾いた藁も、決まった刻に前へ出る。

 “足りる”ことが、どれほど兵の心を強くするか――義信は、戦場の真ん中でそれを確かめていた。

 やがて日が傾き、霧が再び濃くなる。

 越後の波が鈍り、最後の押しが弱まった。車懸りは勢いで持つ。勢いが削げれば、無理に押しても損が増える。

 信玄の本陣から法螺が鳴った。

 引きの合図だ。追いは深追いになる。霧の中で深追いをすれば、勝ちを捨てる。

「追うな。形を崩すな。戻れ」

 義信は前線へ声を飛ばし、兵を引き締めた。

 夕闇の中、越後の旗が霧へ溶け、やがて消えた。

     *

 夜。陣中。

 焚き火の数は多くない。火は敵に居所を教える。だが、火が無ければ兵の心が冷える。

 義信は火の配置を調え、餉の札を回す刻を決め直した。足軽へは粥を。騎馬へは干し肉と豆を。塩は多くしない。水が要る。水の道は夜のうちに確保する。

 信玄が義信の前へ来た。鎧の上からでも、今日一日の疲れが見える。それでも眼は鋭い。

「今日の受け、よく持った」

 信玄が言う。

「柵の裂け目、危うございました」

 義信が答えると、信玄は鼻で短く笑った。

「危ういのを危ういままにせぬ。そこがよい。

 ……餉が切れぬ軍は、崩れぬ。お前は、そこを掴んだ」

 義信は深く頭を下げた。

「明日も同じ形で受ければ、越後は焦ります。焦れば、道へ手を伸ばす。道へ手を伸ばせば、草が掴めます」

 信玄は頷き、低く言った。

「お前の草は、よく働く。だが、内の手もまだ生きておる。油断するな」

「はい。帳と印は、引き続き固めます」

 信玄は去り際に一言だけ残した。

「義信。お前は戦の槍を握るより先に、国の腹を握れ。腹を握る者が、最後に勝つ」

 義信はその言葉を胸に刻み、焚き火の向こうを見た。

 霧の外では越後が動き、霧の内では米と火が動く。今日、刃の波は受け止めた。次は、また別の波が来る。だが、形が残っている限り、波は折れる。

 ――武田は、強くなる。

 それは血を流すからではない。折れない仕組みを積み上げるからだ。

 

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