第29話 三河揺らぎて、影動く
桶狭間の報せから、ひと月あまりが過ぎた。
甲斐の空には、夏の気が濃くなりつつある。
昼下がりの陽は強く、山の稜線は白くかすみ、
城下の新しい市には、汗を拭いながら品を並べる者たちの声が満ちていた。
だが、その賑わいの裏で、義信の胸の内には、
ずっと細い棘のような緊張が刺さったままだった。
(朧は、まだ戻らぬか)
駿河行きの使者――正式には弔問の役目、
だが実のところ、尾張と三河の綱の具合を確かめる目と耳として送り出した男が、
いつ戻ってもおかしくない時分である。
それでも、待つしかない。
綱の端に結び目をつけて送り出した以上、
引き戻すにも、相応の時が要る。
*
その日の夕刻、義信は躑躅ヶ崎館の一角にある静かな庭を歩いていた。
池の縁には、菖蒲の葉が青々と伸びている。
水面には、夏の空と雲が揺れて映り、風が吹けば、その像はすぐに崩れる。
「……父上も、今はこの池のようなお気持ちなのだろうか」
義信は、独り言のように呟いた。
今川義元が討たれたことで、
甲斐・駿河・相模の三国同盟――いわゆる甲相駿の綱も、見えぬところで軋み始めている。
駿河の柱が揺れれば、その影はやがて甲斐にも伸びてくる。
そのとき、どの綱を締め、どの綱を緩めるか。
(間違えれば、俺自身の首に綱がかかる)
信玄に言われた言葉を思い出し、義信は、掌の中で指を握りしめた。
「義信殿」
背後から、控えめな声がかかった。
振り向けば、淡い色の小袖をまとった女が、几帳の影から歩み出てくる。
今川から迎えられた正室である。
年は義信とさほど違わぬが、その顔には、この数日でいくつもの夜を越えた影が宿っていた。
「先ほど、駿河からの使者が、城下に着いたと聞きました」
「ああ」
義信は、うなずいた。
「まもなく父上の前で、改めて言葉を聞くことになろう」
「父のこと……何と申しておりましたか」
女の声は震えてはいなかったが、その指が小袖の裾をぎゅっと握っている。
義信は、言葉を選んだ。
「勇ましさを忘れぬ最期であった、と。
大軍の先頭に立ち、槍の雨の中を進み、
戦場のただ中で討たれた、と」
「そう……でございますか」
女は、目を閉じた。
涙は見せない。
だが、胸の奥で何かが崩れ落ちる音が、義信にも伝わってくるようであった。
「父は、甲斐のことを、よう申しておりました」
静かに目を開き、女は続けた。
「『甲斐の晴信は、山をよく見る男だ。
あの男と綱を結べたのは、今川の運のよいところだ』と」
「……その綱が、今、揺れている」
義信は素直に言った。
「父上も、それをよくご承知だ。
だからこそ、軽々しく刀を抜くまいとされている」
「義信殿は」
女が、まっすぐに義信を見上げる。
「義信殿は、駿河のことを、どうなさるおつもりで」
「甲斐の綱を守る」
義信は、即座に答えた。
「そのうえで、駿河の綱を、できるかぎり太く残す」
「できるかぎり、でございますか」
「ああ」
義信は、目をそらさずに続けた。
「駿河にとっても、甲斐にとっても、
すべてを元どおりに戻すことは、もう叶わぬ。
だが、柱が完全に折れる前に、
綱を結び替える手立ては、まだいくつも残っている」
女は、しばらく黙って義信を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「義信殿が、甲斐のために綱を張っておられることは、分かっております。
わたくしも……今は、甲斐の家の者ですから」
「お前は、駿河の娘でもある」
義信は、穏やかに首を振った。
「そのことを、忘れろとは言わぬ。
それどころか、駿河の目で見えるものを、これからも教えてほしい」
「……よろしいのですか」
「甲斐の中だけで綱を見ていれば、
いずれ綱の先が見えなくなる。
駿河の風、尾張の噂、京の歌――
そういうものも、綱を張るには要る」
女の目に、ようやくわずかな光が戻った。
「……では、せめて今日は、父のために経を読みとうございます。
義信殿も、お耳を傾けていただけますか」
「ああ」
義信は、静かにうなずいた。
「父上のためにも、この甲斐のためにもな」
*
その夜、義信のもとに、朧が戻ってきた。
旅装のまま、土埃をまとった姿で、
蔵の一室に正座する。
「長旅、ご苦労だった」
義信は、まずそう言ってから、灯を少し近づけた。
「尾張と三河の様子、聞かせてもらおう」
「は」
朧は、簡素な板と巻物を取り出した。
道中で見聞きしたことを、細かく書き留めたものだ。
「まず、桶狭間の戦のあとでございますが……
今川の軍勢は、三河へ雪崩を打つように退きました。
駿河へ戻った者もおりますが、
多くは三河の城ごとに散らばっております」
「三河の城か」
「はい。
ただ、その城々を束ねる綱が、緩んでおります」
朧の声は淡々としているが、その内容は重かった。
「吉田、岡崎、田原……
それぞれの城代や国人どもが、
『今川の命』と『自らの田地』のあいだで揺れております。
中には、尾張の織田に心を寄せる者も」
「織田に、か」
義信は眉をひそめる。
「織田信長は、どこまで手を伸ばしている」
「桶狭間の勝ちを大きく喧伝しております。
『小勢にて大軍を討った』という口上が、
津島や清洲の市で、酒の肴のように語られております」
朧は、別の板を広げた。
「道を行き交う兵そのものは、
今のところ、尾張の内を固める動きが多うございます。
しかし――」
「しかし?」
「三河に残された今川方の兵の中に、
織田に目を向け始めた者が、少なからずおります」
義信は、胸の奥に冷たいものが走るのを覚えた。
(三河の綱が、両側から引かれている)
「松平元康は、どうしている」
その名を口にした瞬間、義信は、自分の声にわずかな熱が混じるのを自覚した。
別の世の記憶の中で、あまりにも大きな影を持つ名だ。
だが今は、ただ三河の一武将にすぎぬ。
「岡崎に戻りました」
朧は、短く答えた。
「桶狭間のあと、今川方の兵を連れて大樹寺に籠もり、
しばし動きを止めておりましたが、
のちに岡崎に入って城を預かることになったようにございます」
「今川への忠は」
「表向きは、変わらず今川への従いを示しております。
しかし――」
朧は言葉を切り、義信を見た。
「岡崎の町の者たちは、『三河の殿』と呼んでおります。
『今川の家臣』というより、
『三河の松平』として見ている眼つきにございました」
(……やはり、そう動くか)
義信は、心の中でうなずいた。
松平元康――
いずれ名を「家康」と改めるだろう男が、
今まさに、自分の足元を確かめ直そうとしている。
「駿府はどうだ」
義信は、気を取り直して問うた。
「氏真様は、義元様の葬儀と家中の取りまとめに追われております。
歌会や蹴鞠の席は、しばらく控えておられるようで」
「それは、そうだろうな」
「しかし、駿府の町そのものは、
意外なほど静かにございます」
「静か?」
「はい」
朧は、駿府の絵図を指し示した。
「港には、これまでどおり船が入り、
市には塩と米と布が並び……
人々の口に『いつまで続くか』という不安はあれど、
今すぐに市が止まるような気配はございません」
「つまり、柱は揺れているが、
まだ倒れてはいない、ということか」
「そのように見受けます」
義信は、灯を見つめながら息を吐いた。
尾張では織田が、
三河では松平が、
駿河では氏真が――
それぞれ自分の綱を手探りで握り直している。
そして甲斐は、その綱の端に結び付けられたまま、
山の上からそれを見下ろしている。
*
翌日。
駿河からの急使と、朧の報せを合わせて、
改めて軍議が開かれた。
広間には、信玄をはじめ、
内藤、山県、馬場、真田、飯富らが並ぶ。
義信もその一角に控えた。
板の上には、甲斐・信濃・駿河・三河・尾張が描かれ、
そこに朧の持ち帰った印が、新たに打たれている。
「三河の松平元康、岡崎に入る、か」
信玄が、板を見下ろしながら呟く。
「今川への忠を口では保ちつつ、
三河の地を自分の手の内に戻しつつある、と」
「はい」
義信は、簡潔に答えた。
「岡崎の町の者たちは、
今川よりも松平の名を強く口にしております。
心の綱は、すでに三河の中へ引き戻されつつあると見てよいかと」
「今川は、それを止められぬか」
内藤が問う。
義信は、少しだけ言葉を選んだ。
「氏真様は、まだ駿府から外へ出られておりませぬ。
家中の取りまとめに手がかかり、
三河・遠江へ目を配るには、しばし時が要るかと存じます」
「つまり、三河の綱は、
今川の手を離れつつある」
真田が静かに言った。
「この機に乗じて、甲斐が動くべき、と考える者もおりましょうな」
ざわ、とごく小さな波が広間を撫でた。
武の将たちの中には、
東海道の乱れを好機と見る者がいてもおかしくない。
「さて、義信」
信玄の声が、場を引き締めた。
「お前はどう見る。
今、甲斐は三河に手を伸ばすべきか、否か」
義信は、一拍置いてから口を開いた。
「今は、伸ばすべきではないと存じます」
はっきりとした言葉だった。
山県が、わずかに眉を動かす。
「その心は」
「三河の綱は、今まさに揺れております。
そんな綱に飛びつけば、
こちらの綱まで巻き込まれて乱れます」
義信は、板を指でなぞりながら続けた。
「今川と松平と織田――
それぞれが、三河の綱を自分の側へ引き寄せようとしている。
そこへ甲斐まで手を伸ばせば、
一時の利は得られても、綱のほうが先に切れましょう」
「では、ただ見ているだけか」
飯富虎昌が、あえて厳しい口調で問う。
「甲斐は山に閉じこもり、
越後とだけ綱を引き合うと申すか」
「見ているだけでも、閉じこもるのでもございません」
義信は、首を振った。
「今は、綱を増やすときです」
「増やす?」
内藤が、興味深げに目を細める。
「どこに」
「甲斐と信濃の内に、でございます」
義信は、板の上、甲府盆地と信濃南部を指し示した。
「水の綱、市の綱、金山の綱。
これらをさらに太くし、
甲斐と信濃の柱を、揺れぬように固めておきとう存じます」
「今この時に、内に向くと」
山県が、半ば呆れたように笑う。
だが、その笑みには怒りはなかった。
「東海道が揺れているからこそ、
甲斐の足元を固めておく」
義信は、言葉を重ねた。
「東の越後、西の東海道――
どちらか一方が荒れた時なら、山の国でも支えられましょう。
しかし、両側が同時に荒れれば、
甲斐の山はひとたまりもございません」
真田が、しばし考え込むような顔をした。
「……つまり、今は三河に手を伸ばす時ではなく、
いずれ訪れる『綱を断つ刻』に備える時、ということにございますな」
その言い回しに、広間の空気がわずかに重くなる。
「どの綱を断つかは、
その刻に父上が決められること」
義信は、信玄を正面から見た。
「ただ、その刻に、甲斐の足元が揺れていては、
刀を振り上げることすらできません。
だからこそ、内を固めたいのです」
信玄は、長く息を吐いた。
そして、静かにうなずく。
「よい。
今は三河に手を伸ばさぬ。
駿河との盟約も、当面はそのままとする」
ほっとしたような、あるいは物足りなさを含んだ息が、あちこちから漏れた。
「その代わり――」
信玄は、声を少し強めた。
「義信。
水と市と金山の綱、そのすべてを、
これまで以上に太くしてみせよ」
「承りました」
義信は、深く頭を下げた。
「甲斐と信濃の柱を、
いかなる波にも揺れぬようにしておきます」
*
軍議が終わったあと、
義信は再び自室で板を広げた。
甲斐と信濃の村々。
金山のある谷。
新しい市の立つ城下の一角。
その一つひとつに、小さな印をつけ、
綱を重ねていく。
(水の綱は、まだ始まったばかりだ。
市の綱も、ようやく声が太くなり始めたところ。
金山の綱も、山の怒りを買わぬよう、気を配らねばならない)
そこへ、影の綱――朧たちの報せが、さらに重ねられていく。
尾張で語られる信長の噂。
三河で囁かれる元康の名。
駿河でささやかれる氏真の評判。
それらを、一度にすべて握ろうとすれば、
綱は絡まり合い、やがて締め付ける縄になる。
「……ほどいておける綱は、今のうちにほどいておくべきだな」
義信は呟き、筆を走らせた。
甲府の市で、寺社や古い座との結び方を、
もう一段改めるための案。
川沿いの村で、用水の休ませ方を、
より細かく決めるための筋。
それらを記した板が、少しずつ積み重なっていく。
(桶狭間は、確かに大きな節目だ。
だが、あの山で転がった首だけを見ていても、
この国の綱は見えない)
義信は、灯を見上げた。
炎が揺れる。
その揺らぎの中に、
越後の雪も、駿河の潮も、尾張の風も、
すべて同じ火に照らされているように思えた。
「甲斐の山の火を、消さぬこと」
誰にともなく、義信は言葉を置いた。
「それができていれば、
どの綱を断つ刻が来ようとも、
まだ手は残る」
筆先から、新たな線が一本、板の上に伸びる。
それは、他国ではなく、
甲斐の山と谷、田と市とを結ぶ綱だった。
外の風が、障子をかすかに鳴らす。
遠く西で揺れる綱の音が、
やがてここまで届くとしても――
甲斐の中に張られた綱が太ければ、
容易くは切れまい。
義信は、静かに筆を置いた。
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