第26話 水の病と市の綱

 駿河から戻って、ひと月ほどが過ぎた。


 甲府の盆地には、もう水が満ちている。

 山あいから流れ出す川の水が、幾筋にも分かれて田を潤し、

 畦には青い苗が整然と並び始めていた。


 だが、その田のあいだから聞こえてくる声には、別の重さが混じっていた。


「……また、腹が張ってまいりましてなあ」


 川沿いの村の百姓の男が、照れくさそうに笑いながら腹を押さえた。


 義信は、畦に腰を下ろし、男の顔と腹をじっと見た。

 年は四十に届くかどうかというところだが、顔色は悪く、

 腹だけが不自然に膨れ、皮は突っ張って色もくすんでいる。


「いつ頃から、こうなった」


「若いころから、でございます。

 この辺りの男は、だいたいこうなりますでな。

 田に水が入るころには腹が張り、秋が過ぎると、少しは引くのですが……」


 隣に座っていた老女が、口を挟んだ。


「わしの亭主もそうでございました。

 川に近い田を預かる家は、昔から、こういう者がよう出ます」


「川に近い田……」


 義信は、田の向こうを見やった。


 村は、支流が本流に合流するあたりに位置している。

 幾本もの用水が村の中を走り、その脇で子どもたちが裸足で水を跳ね上げていた。


 一見したところ、水は澄んでいる。

 だが、その水の中に、目に見えぬ何かが潜んでいることを、義信は知っている。


(この腹の張りは、年のせいでも、運だけの話でもない)


 別の世で学んだ病の姿が、うっすら脳裏をよぎる。

 だが、それをこの村の者にそのまま語っても、通じる筋ではない。


「川に入るのは、いつが多い」


 義信は、男に問いかけた。


「そうですな……田植えのころと、夏の暑い盛りには、子どもらがよう」


 男が言うより早く、老女が続ける。


「用水で水を掛け合うて、昼まで遊んでおります。

 あとは、田の草取りのときに、皆、膝まで浸かって働きます」


「水は、どこから飲んでいる」


「川の水を汲んで、そのまま……。

 井戸もありはしますが、暑い日は、つい流れの水を口にしてしまいますな」


「ふむ」


 義信は、用水の方へ歩み寄った。


 水は穏やかに流れ、日差しを受けてきらきらと光っている。

 ところどころに、細かな水草と、小さな貝の殻のようなものがまとわりついていた。


「この用水は、いつ止める」


「止める、でございますか」


 男が目を瞬かせる。


「田に水を入れているあいだは、ずっと流しております。

 止めれば、田が干上がってしまいますで」


「春から秋まで、一度もか」


「はあ。

 山の雪解けが弱い年でも、どうにか流し続けております」


 義信は、用水の縁にしゃがみ込み、そっと水をすくった。

 冷たい水が掌を滑り落ちていく。


(流れっぱなしの水路か……。

 年に何度か干すことができれば、底でうごめくものを弱らせられる)


 頭の中で、いくつかの筋が結び付き始める。


 水を止め、底をさらい、日を当てる。

 田そのものは枯らさず、用水だけを交代で休ませる工夫。


「庄三」


 背後に控えていた庄三を呼ぶ。


「この村の用水の筋を、全部板に写しておきたい。

 どこで山の水を受け、どう村を巡り、どこから田に入るか、漏らすな」


「承知しました」


 庄三はすぐに板と筆を取り出し、用水の筋を目で追い始めた。


「それと、村の者には伝えておいてくれ」


 義信は、男と老女の方に向き直る。


「子どもが用水で遊ぶのを、なるべくやめさせたい。

 どうしても川に入らねばならぬときは、足に藁でも巻いておけ」


「藁を……でございますか」


「素足で水に入るよりは、ましだ。

 水の底に何が潜んでいるか分からん。足を守るだけでも違う」


 男は戸惑いながらも、何度も頭を下げた。


「義信様がそこまで仰せくださるなら、村中に言い広めます。

 腹の張った者が減るのであれば、何でもいたします」


「すぐに目に見えて変わるとは限らん」


 義信は、率直に告げた。


「だが、何もしなければ、いつまでも同じだ。

 綱を一本足しておけば、いずれ効き目も見えてくる」


 山の稜線の向こうから風が吹き下ろしてきた。

 水面に細かなさざ波が走る。


(川中島の霧も、この水から生まれた。

 戦の霧だけでなく、村を蝕む霧もまた、この流れの中にある)


 義信は、流れを見つめながら、静かに目を細めた。


     *


 いくつかの村を回り、用水の筋と人々の話を確かめたのち、義信は甲府へ戻った。


 その日の夕刻、躑躅ヶ崎館の一間で、信玄との対面が設けられる。


「川沿いの村の様子は、どうであった」


 信玄は、茶を口に運びながら問うた。


「水は豊かにございます」


 義信は膝をそろえ、頭を下げて答える。


「ただ、その豊かさに呑まれている村も、多うございました。

 川に近い田の男どもに、腹の張った者、足腰の弱った者が目立ちます。

 用水に素足で入り、水をそのまま口に含むこと……どうにも気にかかります」


「医者にも見せたか」


「はい。

 古くから『この辺りの病』として知られてはおりますが、

 治し方と申せば、酒と草と祈りぐらいのものにございます」


「つまり、決め手はないと」


「は」


 義信は、素直に頭を垂れた。


「ゆえに、病そのものを治すより先に、

 『病の棲みかを少しでも崩す』綱を張りたいと存じます」


「綱とは、何の綱だ」


「用水にございます」


 義信は、村で写した板を広げた。


「このように、山の水を受けて村中を巡り、田へ流れ込んでおります。

 これを年に幾度か止め、底をさらい、日を当てとう存じます」


「田はどうする」


「田に水を入れる筋とは別に、『休ませる筋』を設けとう存じます。

 村ごとに順を決め、人の手を借りて、用水を交代で干すようにいたしたく」


 信玄は、板の上をじっと見つめた。


「……水の道にも、休みを入れる、か」


「はい」


 義信は深くうなずく。


「山の木を伐るときも、切っては植え、植えては休ませます。

 水もまた、流しっぱなしでよいとは限りませぬ。

 底を陽に晒す年を挟めば、腹の病もいくらか弱るのではと考えました」


「それで腹の張った者が減るかどうかは、分からぬのだな」


「正直のところ、分かりませぬ」


 義信は、きっぱりと言った。


「しかし、田に立つ者の足元を少しでも軽くしておけば、

 いずれ兵を立てるときにも、必ず生きてまいります。

 戦の綱と見れば、決して無駄にはなりませぬ」


 信玄はしばし黙し、茶をすすった。


 やがて、湯飲みを置き、短く告げる。


「よい。

 まずは甲府盆地の幾つかの村で試してみよ。

 水を止める時節と、田の具合と、人の腹の様子と……細かく見ておけ」


「かしこまりました」


 義信は深く頭を下げた。


「水の綱も、川中島の板と同じように、節目を刻んでまいります」


「うむ」


 信玄は、もう一枚の板を引き寄せた。


「それと……」


 指先で、駿河と甲斐をつなぐ細い線をなぞる。


「駿河で見てきた『市』の有り様、

 甲府でどう活かすつもりか、聞かせてみよ」


「は」


 義信の胸に、別の綱の形が浮かび上がる。


     *


 数日後、甲府城下の一角。


 これまで稽古場として使っていた空き地に、

 簡素な屋台と棚が組まれ始めていた。


 布を広げる者、干物を並べる者、山菜を括る者。

 駿河から来たらしい商人の荷車も、道の端に見える。


「ここを、市にするのですか」


 庄三が、組み上がった木の柱を見上げた。


「ああ」


 義信は、場をぐるりと見渡した。


「月に六度。日を定めて、城下と周りの村の者が集まれる場にする」


「市なら、すでに古い町場にもございますが」


「ある」


 義信はうなずいた。


「だが、古い市は多くが座に握られている。

 この品はこの者しか売れぬ、この道はこの者しか通れぬ……

 そういう綱が、かたく結ばれ過ぎている」


「それを、切ってしまうおつもりで」


「全部はいきなり切らん」


 義信は、口元だけで笑った。


「すべての綱を一度に断てば、家が揺らぐ。

 古い座はそのまま残し、その脇に、

 『誰でも荷を広げられる市』をひとつ立てる」


「誰でも……」


 庄三は目を丸くする。


「村の者も、旅の商人も、でございますか」


「ああ。

 ただし、決まりは要る」


 義信は、指を折って数えた。


「ひとつ、城と寺社の前で騒ぎを起こさぬこと。

 ひとつ、計りと枡をごまかさぬこと。

 ひとつ、市で交わした借りを踏み倒して逃げぬこと。

 その代わり、市に入るときの銭は軽くする」


「関所の銭を、軽く……」


「そうだ」


 義信は、空き地の端を指さした。


「あの場に見張り所を置く。

 市の日には、あそこで一度だけ銭を納めれば、

 市の内ではあれこれ取らせん」


「それでは、寺社や古い座の者が怒りませぬか」


「だから、まずはこの城下の一角だけだ」


 義信は静かに答えた。


「古い市の綱はそのままにしておき、

 新しい綱を横からそっと渡す。

 どちらの綱が人と物を多く集めるかは、いずれ板の上に出てくる」


「……義信様らしいやり方でございますな」


 庄三は、苦笑しながらもどこか嬉しそうだった。


「では、村々にも触れを回します。

 『城下に新しい市が立つ』とな」


「ああ。

 川沿いの村には、特に声をかけてやってくれ」


 義信は、少しだけ声をやわらげる。


「用水を休ませる年には、田からの銭が減るかもしれん。

 そのぶんを、市での小商いで補えるようにしておきたい」


「水の綱と、市の綱を、つなぐわけですな」


「そういうことだ」


     *


 とはいえ、市を開くには、城下の者たちの納得が要る。


 義信は、町方を取り仕切る代官や、

 古くから商いをしてきた店の主たちを一堂に集めた。


「新しい市は、古い市を壊すためのものではない」


 義信は、座の上から全員を見渡し、はっきりと言った。


「座をすべて外すつもりもない。

 だがな、戦が続き、世の中の綱が太くなるにつれ、

 甲斐にも、これまでなかった品と人が入り始めている」


「南蛮の品というものも、駿河の港にはあると聞きます」


 ひとりの商人が、おそるおそる口を開いた。


「鉄砲も、油も、珍しい薬も」


「そうだ」


 義信は、うなずく。


「そういう品を甲斐の中で回すには、

 いまの座だけじゃ手が届かん。

 新しい綱が要る」


「新しい綱、にございますか」


 代官が問い返した。


「そうだ」


 義信は、代官の方へ視線を向ける。


「新しい市の収めは、まずお館様の蔵へ入る。

 そのうえで、寺社と古い座にも、あらかじめ決めた分を渡す。

 ただし、市に入る者からは、余計な銭は取らせん」


「……ということは、我らの取り分は削られぬ代わりに、

 増えるかどうかは、市の賑わい次第、ということでございますな」


 年配の商人が、目を細めた。


「そういうことだ」


 義信は、きっぱりと言い切る。


「古い市のままでも、明日と明後日は何とかなるだろう。

 だが、その先の十年、二十年を思えば、

 新しい綱を張っておかねば、甲斐は他国の綱に呑まれる」


 座敷に、しばし沈黙が落ちた。


 やがて、代官が深く息を吐き、頭を下げる。


「承知いたしました。

 新しい市の綱、この身の及ぶかぎりお支え仕ります」


 それに続いて、商人たちも次々と頭を下げた。


「義信様のおおせとあらば」


「新しい市が賑われば、我らの店も潤いましょう」


「駿河からの品も、甲斐の米も、皆ここを通るようになれば……」


 不安と期待が入り混じった声が、座敷のあちこちから上がった。


     *


 そして、最初の市の日が来た。


 まだ朝霧の残る甲府の町へ、

 東西の道から荷車と人の列が次々と流れ込んでくる。


 山の村からは薪と炭と山菜。

 川沿いの村からは干し魚と布。

 駿河からは塩と油と茶。

 遠く信濃から、小さな鉄の品を背負ってきた者もいた。


「ここでよいのか」


「ああ、その棚のそばに荷を並べてくれ」


「関所の銭は、どこで払う」


「あちらの見張り所で一度だけだ。中では取られぬそうだ」


 人々の声が交わり、

 やがてそれがひとつの「市のざわめき」に変わっていく。


 義信は、少し離れた高台から、その光景を見下ろしていた。


 道の綱、市の綱、人の綱。

 それらがひとつの場に集まり、結び合い、ほどけ、また結び直されていく。


「……よく集まったな」


 隣に立つ庄三が、感嘆の息を漏らした。


「甲府だけでなく、あちこちの村から」


「まだ始まりにすぎん」


 義信は静かに言う。


「今日の市で、どれだけの者が銭を持ち帰り、

 どれだけの品が動いたか。

 それを板に刻んで、少しずつ綱を太くしていく」


「川沿いの村の者も、来ておりますな」


 庄三が、人ごみの中を指さした。


 腹の張った百姓の男も、その妻も、市の隅で布と干物を並べている。

 顔色はまだすぐれぬが、目つきには、前に会ったときにはなかった光が宿っていた。


「水の綱を休ませる年には、市の綱を強くする」


 義信は、小さく息を吐く。


「戦のためだけに綱を張れば、いつか家の中が空になる。

 家の中を満たすために綱を張れば、

 戦のときにも、その綱は切れにくくなる」


「……義信様」


 庄三が、少し真面目な声で呼んだ。


「お館様の家中の中には、

 『義信様は今川寄りになり過ぎるのでは』と、

 ひそひそ申す者もおります」


 義信は、しばし黙って市を見つめていた。


 やがて、口元に薄く笑みを浮かべる。


「駿河の港から戻ってきたばかりだからな。

 そう見える者がいても、不思議ではない」


「ですが、義信様が張っておられる綱は、

 どう見ても甲斐と信濃のための綱にしか思えませぬ」


「なら、あとは行いで示すだけだ」


 義信は、目を細めた。


「駿河の塩も、遠江の布も、甲斐の山の金も、信濃の米も――

 最後には、すべてこの田とこの市に戻ってくるように綱を張る。

 それができていれば、いずれ誰が何と言おうと、綱は家を守ってくれる」


 市のざわめきが、風に乗って高台まで届いてくる。


 哭き声も、笑い声も、値切る声も、子どものはしゃぎ声も。

 それらが混ざり合い、甲斐という国の息遣いとなっていた。


(川中島の霧も、駿河の潮も、この市の声も……

 すべて綱の一部だ)


 義信は、胸の内で静かに呟く。


(廃嫡も、病も、家の綱を切る刃にはさせない)


 水の病。

 家の中に生まれ始めた小さな疑い。

 それらを見据えながら、義信は新しい線をひとつ、またひとつと板に描き足していった。


 まだ細いその線が、

 やがてどれほど多くの人と地を結ぶことになるのか――

 このとき、誰も知る由はなかった。


 

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