第21話 市を開き、兵を選ぶ
義信の名を賜ってから、いくつかの年が過ぎた。
甲斐の山では、金を洗う水車がいっそう増え、
谷を走る水の音と、木槌の響きが、季節を問わず聞こえるようになっていた。
盆地の外れの湿地は、少しずつ姿を変えつつある。
田は高く盛られ、余った水は新しく掘られた溝を通って川へと流される。
夏の盛りに村人を倒していた妙な熱の病も、「昔ほどではない」と言われるようになった。
甲府の町には、月に一度ではなく、月に二度、三度と市が立つ。
最初は城下の一角だけだった市が、今では通りを二つ、三つと飲み込むようになっていた。
山の金、布、塩、紙、鉄、薬草。
それらを並べた棚が軒を連ね、人の声が朝から夕まで途切れない。
*
「混んできたな」
市の日の朝、義信は、甲府の町を見下ろす小高い丘の上に立っていた。
かつては静かな田と畑ばかりだった一帯に、今は屋根が増え、
通りには、露店の布屋と、仮の茶屋と、鉄砲の筒を並べた鍛冶屋の姿まで見える。
「この間までは、ここまで店は伸びていなかったはずですが」
隣で庄三が、目を細めた。
「山の金を換える場が増えれば、その分、人も物も寄ってくるものですな」
「寄ってくるのはよいが、止めようとする手もまた増えている」
義信は、通りの外れに並ぶ数人の顔を、目で示した。
古くからの座に連なっている商人たち。
彼らは、目新しい店を遠巻きに見ながら、時折小声で何事かを話し合っている。
「今日だけで、あの者たちがうちへ上げた文は三通だ」
義信は苦笑した。
「『古くからの座の定めを守れ』『新しい者を勝手に市に出させるな』と」
「それを受けて、お館様は何と……」
「『まず義信の板を見てからだ』と仰せだった」
義信は、胸の内で父の声を思い出す。
古い座を一気に壊せば、積もった恨みがどっと噴き出す。
かといって、新しい流れを止め続ければ、甲斐そのものの息が詰まる。
そのあいだで綱を張るのが、自分の役目だ。
「庄三」
「はい」
「市に出る者は、誰であれ、三つのことだけ守らせたい」
義信は、指を折りながら言った。
「ひとつ。値を勝手に吊り上げぬこと。
ひとつ。同じ品を出している者どうしで、客を脅して取り合わぬこと。
ひとつ。重さや分量をごまかさぬこと」
「座や古い決まりのことは、とやかく申さぬ、と」
「そうだ」
義信は、城下の通りに目を戻した。
「座の名に連なるかどうかは問わない。
ただ、市に出るかぎりは、『市の筋』だけは守らせる」
「筋が通っていれば、誰でも店を出せる市、ということになりますな」
「筋を通せぬ者は、古かろうが新しかろうが、同じだ」
そこまで言って、義信はふっと笑った。
「そのかわり、市で商いをする者からは、少しだけ手数をいただく」
「手数……でございますか」
「市の守りのための米と金だ」
義信は、通りの外れで町人同士の口論を宥めている詰所を指さした。
「市を開けば、それだけ盗人も増える。喧嘩も生まれる。
それを抑えるための番所を置くには、人も金も要る」
「市の者に、市を守る費えを一部担わせる……」
庄三は、考え込むように呟いた。
「そのうえで、『座の名に連なるから市に出られる』のではなく、
『市の筋を守り、手数を納める者なら誰でも出られる』と」
「そういう市にしたい」
義信は、静かに言った。
「山の金を洗った村の者も、布を織った百姓の娘も、
うまく作ったものがあれば、自ら市に持ってこられるように」
「……では、座はどうなります」
「座の中で腕のよい者は、座であろうと市であろうと生き残る」
義信の声には、わずかに厳しさが混じった。
「古い名だけを振りかざしている者は、いずれ客から背を向けられる」
庄三は、しばし黙していたが、やがて口角を上げた。
「義信様らしいお考えでございます」
「そうか」
「はい。
道の綱と同じでございますな。
名の太さではなく、どれだけ人の息が通っているかを見ておられる」
「……うまいことを言う」
義信は、笑いながらも頷いた。
「ならば、この市もまた、一本の綱だ。
山の金と、川の布と、町の息を結ぶ綱」
*
その日の夕刻、躑躅ヶ崎館の一間。
義信は、晴信――信玄の前で、甲府の市の有り様を報告していた。
「座からの文は、今日もいくつか届きました」
義信は、苦笑まじりに言った。
「『古くからの定めを壊す若造』とまで書かれておりました」
「ほう」
信玄は、机の上の碁石をつまみながら、小さく笑った。
「わしも若い頃、『寺社の古い決まりをよう分かっておらぬ』と言われたものだ」
「その後、どうなさいましたか」
「寺と座は、今もある」
信玄は、あっさりと言った。
「だが、昔とは形が違う。
神仏の前に頭を垂れるのは同じだが、そのあと米と金をどう動かすかは、変えた」
義信は、静かに頷いた。
「市も、同じようにしていきたいと考えております」
「市の筋を守らせ、そのうえで、古い座にも新しい商人にも場を与える、か」
「はい」
信玄は、碁石を盤の中央に置いた。
白と黒が、盤の上でじわじわと地を取り合っている。
「市を開けば、人が集まる。
人が集まれば、戦のときにも動かせる力が増える」
「兵のことにございますか」
「そうだ」
信玄は、義信を見た。
「これまでは、百姓に槍を持たせ、戦のたびに田から呼び立ててきた。
だが、山の金が出るようになり、市も立つようになった今なら――」
「田から兵を引き上げることも、できるかもしれません」
義信は、父の言葉を継いだ。
「兵と百姓の役目を、少しずつ分けていくことが」
信玄の目が、わずかに細くなる。
「お前は、前からそのように言っていたな」
「はい。
田は田を見る者が、通い慣れた手で守ったほうが強うございます。
戦を生業とする兵は、兵として日々鍛えたほうが強くなる」
「その代わり、兵の腹を誰が満たすかが難しくなる」
信玄は、碁石を指先で転がした。
「田から離した兵を、ただ米で養うのは限りがある。
そこへ山の金と市の利を使う、というわけか」
「はい」
義信は、板を広げた。
そこには、甲斐と信濃の村々が印され、それぞれに米、布、金、市の利などが記されている。
「山の村は、金と木。
川の村は、布と紙。
町は、市の利と細工。
それぞれの力を見ながら、『兵の扶持米』を山と町から出すようにしたいと考えます」
「兵の扶持米を、田からだけではなく、山と町からも支える、と」
「そうです」
義信は、指で小さな丸を幾つも描いた。
「常に槍を握る兵を千とすれば、その腹を満たす米の一部を、山の金で買った米で賄う。
残りを、田の年貢から出す」
「年貢を田だけに頼らぬようにするわけだな」
「はい。
田の年貢を少し軽くし、その分を山と町が担う形にすれば、
百姓を槍から解き放つ道が見えてまいります」
信玄は、盤の上から目を離し、息子の板を見た。
そこには、村々から城下へ向かう、いくつもの細い線が描かれている。
米、布、金、塩、兵。
それらが、線の上を行き交っている。
「……綱が増えたな」
信玄は、小さく笑った。
「道の綱に、市の綱、兵の綱。
絡まれば絡まるほど、解くのも難しくなるぞ」
「解けぬように、最初から筋を通して結んでおかねばなりません」
義信は、自分に言い聞かせるように言った。
「兵を田から引き上げる以上、その兵が何のために槍を握っているのか、
その筋を忘れさせぬようにしておく必要がございます」
「何のために、か」
「領を守るため。
田を荒らされぬため。
市を焼かれぬため。
山と川と、そこに暮らす人の息を守るため」
信玄は、目を細めた。
「綺麗な言葉だ」
「ですが、そのために槍を握る兵でなければ、綱がすぐに腐ります」
義信は、静かに続けた。
「金のためだけに槍を握る兵は、いざとなれば別の金に流れましょう。
田を守るために槍を握る兵は、簡単には背を向けません」
「……」
信玄は、盤の端にいた石をひとつ、中央へと打った。
「よい。
兵と百姓を分ける綱、お前に預けよう」
それは、この先の戦と政の形を、大きく変えるかもしれぬ決まりであった。
*
兵を選ぶ場は、甲府の外れに設けられた。
広場には、槍、弓、そして少数の鉄砲が並べられている。
甲冑を着た兵と、まだ素足に脚絆だけの若者が、同じ土の上に立っていた。
「今日からは、田に戻らぬ覚悟のある者だけ、ここに残れ」
飯富虎昌の声が、広場に響く。
「年に一度の戦のときだけ槍を握りたい者は、これまでどおり村に戻ってよい。
田を離れ、日々槍を握り続ける者だけが、この場では『兵』と呼ばれる」
若者たちは顔を見合わせ、さまざまな表情を浮かべる。
村に家族を残す者もいれば、行き場のなかった浪人もいる。
新しく出来た市で腕を試したい者もいる。
「兵は、山と町と田で養われる」
虎昌は続けた。
「田を守るために槍を握る。
そのことを違える者は、この場にはいらぬ」
義信は、少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「……どれほど残ると思われますか」
隣で勘助が、静かに問う。
「最初は、多くなくてよい」
義信は首を振った。
「数を誇る兵ではなく、綱の筋を理解している兵から始めたい」
広場の中では、何人かの若者が黙って一歩前に出た。
その顔には、不安もあれば、静かな決意もある。
「田から離れる者には、山と町からの扶持を約束した。
それでもなお前に出るなら、その覚悟は本物でしょう」
「兵の綱が、いま編まれつつあるわけですな」
勘助は、片目を細めて笑った。
「山の金、川の布、市の利。
それらが絡み合う綱に、今、槍を握った人の息が通り始めております」
*
同じ頃。
甲府盆地の外れの村では、今年も夏の病の話が出ていた。
「このあたりに長く立っていると、体が重くなる」
「腹をこわし、熱を出す者が出た」
そんな話が、道の綱の札に乗って届く。
義信は、村の水路の図を板に広げた。
田の高さ、溝の深さ、川とのつながり。
そこに、病が多く出るという家々の印を重ねていく。
「……ここだな」
義信は、ひとつの溝を指でなぞった。
「水が溜まりやすく、流れが動かぬ場所。
田の水も、ここから何度も行き来している」
「このあいだ石を積んだところでございますな」
庄三が、思い出したように言った。
「水がよどみやすいからと、石を入れて流れを速くした場所です」
「それでもまだ足りぬ」
義信は、首を振った。
「水の道を、もうひと筋増やしたい。
田に入れた水が、そのまま同じ溝に戻ってこないように」
「……病と水が、そこまで結びついているとお考えですか」
「はっきりとは分からぬ」
義信は正直に言った。
「ただ、水がよどむ場所で病が多く出ているのは、間違いない」
別の時代の記憶は、「虫」という言葉を義信の胸にひっかけていた。
だが、それを誰かに語ることはない。ただ、「よどんだ水を避けさせたい」という思いだけが残る。
「田に入るときは、足を布で包むようにさせたい」
「足を……でございますか?」
「裸足でぬかるみに立てば、そこから良くないものが体に入るような気がする」
義信は、足元を見た。
「布の脚絆でもよい。
村ごとに、田の仕事の折には足を覆う決まりを立てたい」
「村人からは、『面倒だ』と文句も出ましょうな」
「出るだろう」
義信は、認めた。
「だが、年ごとに何人も倒れる病を、少しでも和らげられるなら、それを通したい」
「筋を通す、というわけですな」
庄三が、どこか楽しげに言った。
「義信様のお名前どおりでございます」
義信は、照れ隠しのように咳払いをした。
「名に負けぬようには、しておきたい」
*
甲府の町では、その頃、鉄砲の音が以前より頻繁に響くようになっていた。
城下の外れに設けられた射場で、鉄砲組の兵たちが訓練に励んでいる。
「火縄の湿りに気を付けろ!」
「筒口を下に向けて歩くな、土を噛むぞ!」
叱声と笑いが入り交じる。
義信は、その様子を見ながら、ふと口元に笑みを浮かべた。
「……随分と板についてきましたな」
隣で源五郎が、感心したように言う。
「初めて火を噴かせたときは、皆、耳を押さえてしゃがみ込んでいたのに」
「人は、音にも慣れる」
義信は、鉄砲の弾が的を打つ音に耳を澄ませた。
「戦の音にも、市のざわめきにも、山を掘る音にも。
大事なのは、その音の先で何を結ぶかだ」
「その音も、いずれ信濃の山を越えて、越後まで届きますかね」
源五郎の言葉に、義信は視線を北へ向けた。
信濃の山々の向こうには、越後の国がある。
村上義清が落ちていった地。
その地には、やがて大きな力を持つ者が立ち上がりつつある、と噂が届いていた。
「いずれ、山の向こうの者とも、綱を引き合う時が来るだろう」
義信は、静かに言った。
「その時までに、甲斐と信濃の綱を、今よりもっと太く、しなやかにしておかねばならない」
鉄砲の音、市のざわめき、山の水の流れ。
それらが、ひとつの国の息として、確かに大きくなり始めている。
義信は、手の中に見えない綱を握るような気持ちで、空を仰いだ。
その綱が、いつか越後の山風とも結び合い、
甲斐武田の名を、さらに遠くまで響かせる日が来る。
その日まで、綱を張り続けるのが、自分に与えられた名の重さなのだと、
義信は静かに自らに言い聞かせた。
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