第8話 揺れる綱、渡る綱
甲府の冬の朝は、空気が固い。
吐く息が白くなるほどではないが、盆地を取り巻く山々から降りてくる冷気が、肌を細かく刺してくるようだった。
信行は、中庭に面した縁側でひと息だけその冷たさを吸い込み、それから「道の声の蔵」へ向かった。
蔵の戸を開けると、乾いた木と紙の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
壁の地図板には、いくつかの木札が新たに挿さっていた。
「……増えたな」
思わず呟く。
峠の茶屋。谷あいの寺。川の橋。
それぞれの場所の穴に、小さな札が刺さっている。書かれているのは、ほんの一行二行だ。
「○月○日 砥石の方角より、甲冑の音多し」
「○月○日 葛尾へ向かう荷馬二。塩の樽多し」
「○月○日 峠の雪、膝下まで」
庄三たち「道の影」が見てきたもの。村の年寄りや寺の僧がこっそり教えてくれたこと。
それらが、細い声のように札へと変わっている。
(まだ線にはなっていない)
一枚一枚の札を目で追いながら、信行は思う。
それでいい。最初から太い綱にしようとすれば、どこかで綻ぶ。
細い糸を少しずつ増やしていく。その積み重ねが、やがて綱になる。
戸の外で足音がした。
「信行様、こちらにおいででございましたか」
振り向くと、源五郎が戸口から顔を覗かせていた。
「飯富殿がお呼びでございます。急ぎ、とのことにて」
「どこだ」
「馬屋の方にお集まりとのことで」
信行は、最後にもう一度地図板を見回してから、蔵を出た。
*
馬屋の前には、すでに数人の武将が集まっていた。
飯富虎昌。その隣には、赤い鎧を着た若武者――山県昌景の姿もある。まだ「赤備え」と呼ばれるほどではないが、その身のこなしは俊敏で、目に鋭さが宿っていた。
内藤昌豊、小山田信有ら、評定の間で見慣れた顔も並んでいる。
(よくそろえたな)
信行が近づくと、虎昌がこちらを振り向いた。
「信行様、お越しにござりまする」
信行は軽く頷いて列に加わる。
「何かあったのか」
問うと、内藤が口を開いた。
「道の影より、知らせが参りました」
その一言で、周囲の空気がわずかに引き締まる。
「どこからだ」
「例の峠の茶屋にございます」
虎昌が続けた。
「砥石の方より、甲冑姿の一団がこちらの道へ向かった由」
信行は眉をひそめる。
「砥石から、こっちへ?」
「数は多くはござらぬ。二十か三十ほどと」
内藤が答える。
「ただ、荷馬を伴っておったとのこと」
砥石城からの二、三十人と荷馬。
軍勢というよりは小さな隊。だが、村上義清の城から出る武装した一団であることに変わりはない。
(偵察か、物資のやりとりか)
村上方が境の道を探るのは当然だ。
「峠の茶屋から、川の渡しまでの道のりを考えると……」
信行は頭の中で道をなぞった。
川。林。緩い坂。道の悪いところと、開けたところ。
「昼過ぎには、川の渡しのあたりに出てくるな」
「同じこと、飯富も考えましてございます」
虎昌が頷く。
「そこで、信行様のお考えを、とのことで」
「俺のか」
信行がわずかに目を細めると、虎昌は当たり前のように続けた。
「この網をお張りになられたのは信行様にて。いかに綱を引き、いかに渡るか――若君のお手並み、皆にも見ておいてもらうがよろしかろうと存じまして」
内藤や山県、小山田の視線が、自然と信行へ集まった。
好奇。値踏み。少しの期待。
(ここで黙って父上の判断待ち、は通らないな)
信行は、息を整えた。
「砥石から甲冑の一団が出てくる。荷馬持ちだ」
整理しながら言葉にする。
「考えられるのは、砥石の兵糧や塩を、別の道から回すための準備。あるいは、こっちの道と村の様子を探る動きだ」
「では、いかがなさるおつもりか」
内藤が短く問う。
信行は、川の渡しの光景を思い浮かべた。
丸木橋。川沿いの林。その陰。
「川の手前の林で、一度止める」
信行は言った。
「斬るためじゃない。まずは『見て』『数えて』『覚える』」
「『覚える』、にござるか」
山県が眉を上げる。
「砥石から出てくる連中が、どんな顔で、どんな鎧で、何を積んでいるか。ひとつひとつ確かめたい」
「見ている間に逃げられたら、如何いたされる」
小山田が口を挟んだ。
「逃げたら逃げたでいい」
信行は、あえて淡々と答えた。
「この人数をここで討ち取ったところで、砥石の中身は見えない。手を上げるにしても、その前に測っておきたい」
虎昌が、小さくうなずく。
「まずは測れ、ということでござるな」
「ああ」
(さすがに、捕らえてじっくり聞き出せとは言えん)
あまり露骨な真似をすれば、余計な火種になる。
「川のこちら側の林に、弓の上手を十ほど潜ませる。旗の印、鎧の様子、荷馬の数。見たことはすぐ札に書かせる」
そこで一度言葉を切った。
「必要とあれば道を塞ぎ、荷を改める。そのあとの段取りは、虎昌に任せたい」
虎昌は「はは」と低く笑った。
「承知仕った。内藤、山県、小山田、よろしいな」
「異存はござらぬ」
内藤が頷き、山県も小さくうなずく。
「若君ご自身は、どこにお立ちになりまする」
「川から少し離れたところから、全体を見る」
信行は隠さず言った。
「道の影を自分で張った以上、その動きがどう繋がるか、目で追っておきたい。槍の先頭に立つ番は、また別に来る」
内藤は少し黙り、それから口の端を上げた。
「欲のない物言いに聞こえますな」
「欲はあるさ」
信行は軽く言い返す。
「死んで一度きりの手柄を拾う欲と、生きて積み重ねる欲。今は後の方を取りたいだけだ」
その言葉に、山県が思わず笑った。
「……面白きお方にございますな」
虎昌が場をまとめるように声を上げた。
「では、川の渡しへ向かいましょう。信行様、源五郎、御支度を」
「は、はいっ!」
源五郎の返事だけが、やけに元気よく響いた。
*
川の渡しは、甲府から半日ほどの場所にあった。
先日、橋の補強策を考えたあの場所だ。
川は冬の水量を保ったまま、黙々と流れている。丸木を組んだ橋のたもとには、すでに数人の兵が待機していた。
林の陰には、弓の名手たちが身を潜めている。
その中に、道の影から選んだ者たちも混じっていた。庄三の姿もある。
「砥石からの足取り、掴めているか」
信行が問うと、庄三はうなずいた。
「茶屋を出たのが午の少し前でございます。あの足なら、もうじきあの坂に姿を見せましょう」
山で鍛えた目は、距離と時間に正確だ。
「林の影から、しっかり見ろ。旗、鎧、荷馬、全部だ」
信行は、近くの兵たちを見回した。
「見たことは、その場で札に書け。字が下手でも構わん」
「かしこまりました」
兵の一人が緊張した面持ちで頷く。
「ここは道の途中だが、ここで見たことはそのまま甲府の蔵に刺さる。今日だけのためじゃない。明日、その先のための目だ」
源五郎が、「なるほど……」と妙に感心した顔をする。
(ここでの一手が、砥石を巡る動きの前ぶれになる)
重さを感じながらも、信行は意識して呼吸を整えた。
やがて、坂の上にかすかな土煙が立つ。
「まもなく、来ます」
弓兵のひとりが小声で告げた。
甲冑が擦れる音。荷馬の蹄の音。
砥石の方角から来る一団が、ゆっくりと坂を下ってくる。
先頭に槍持ちの侍。その後ろに十数人の兵。さらにその後ろに、数頭の荷馬。
荷の上には、藁で包んだ俵が積まれている。
(兵糧か、塩か……)
信行は目を凝らした。
砥石の一団は橋の手前で止まり、周りを見回す。
川の向こうには、甲斐側の見張りの兵が数人。
彼らは、何事もないふうを装って槍を立て、道を開けていた。
「信濃からの一行とお見受けいたす!」
甲斐の兵が声を張る。
「どこより来て、どこへ向かわれる!」
先頭の侍が顎を引いた。
「小県・砥石城より、諏訪へ向かう!」
砥石の名を、臆せず口にする。まだ余裕はある声だ。
「荷は村上様お預かりの品!」
甲斐の兵が、わざとらしく頷いた。
「この川を越えるには、名と荷を改めさせていただく定めにてある!」
村と村の境を越えるとき、荷を改めるのは珍しくない。
だが、砥石からの一団にすれば面白くない話だろう。
「荷を改める、だと?」
先頭の侍が、露骨に不快そうに言う。
「我らは村上様の家人ぞ!」
「承知いたしておる」
甲斐の兵は、穏やかな調子を崩さない。
「ゆえにこそ、きちんと改めさせていただく。どこの誰とも知れぬ荷を通すわけにはいかぬゆえな」
川面の上に、ぴんと張り詰めた気が漂った。
林の影から、弓兵たちの指が弦をなでる音がかすかに聞こえる。
信行は、動かなかった。
(ここで矢を放したら、それで終わりだ)
砥石の一団は、互いに顔を見合わせた。
その時だった。
「よかろう」
荷馬の列の中ほどから、別の声がした。
年の頃三十ほどの侍が、馬を進める。顔立ちは鋭いが、どこか落ち着きがある。
「我らは諏訪へ塩と米を運ぶ途中。ここで荷を改められるなら、むしろ好都合よ」
甲斐の兵が目を細めた。
「好都合、と申されるか」
「ここで『武田の地を通った塩と米』と確かめてもらえれば、諏訪で言い逃れができる」
侍は薄く笑う。
「村上様のお膝元を抜けてきた品だと知られれば、甲斐からの塩も値が変わるやもしれぬからな」
冗談めいた口ぶりだが、計算高さが透けて見える。
(口の回るやつだな)
信行は林の陰から、その男をじっと見た。
甲斐の兵が荷馬を橋のこちら側に引き入れ、一俵ずつ紐を緩めて中身を確かめていく。
「塩。米。干し魚……」
庄三たちが、林の陰からそれを見ている。
それぞれ、見たことを木札に走り書きしていた。
「甲冑の色は村上の紋。数は……二十五ってところか」
信行は小声で数える。
(この程度なら、砥石から出すのも楽だろう。だが、荷の顔ぶれを見る限り、一度きりの動きじゃない)
改めが終わると、甲斐の兵は一団を橋の向こうへ通した。
弓が放たれることは、最後までなかった。
*
砥石からの一団が去ったあと、林の中で庄三が大きく息を吐いた。
「……疲れ申した」
「矢一本放してないだろうに」
信行が笑うと、庄三は肩をすくめた。
「いつ飛ぶか分からぬ中でじっとしておるのは、刀振るうのとは別の疲れ方を致します」
妙に説得力のある言い方だった。
源五郎が、木札を手に駆け寄ってくる。
「信行様、書き終えました!」
札には、拙い字で「荷馬七 塩俵多し 村上紋の旗一」とある。
「よく見たな」
信行はそれを受け取る。
庄三たちの札にもざっと目を通した。
「砥石方の侍一人、三十ほど。言葉は柔らかいが目は冷たい」
「槍の穂先に血の跡なし。ここしばらく戦っておらぬ」
それぞれの目が、別々のものを拾っている。
(こういう目を、もっと増やしたい)
信行は札を懐にしまった。
「戻るぞ。この札はすぐ蔵に挿す」
「今からにございますか」
源五郎が目を丸くする。
「当たり前だ。今日の声は今日のうちに刻む。明日になれば薄れる」
信行は川の流れを一度振り返った。
砥石から来た一団の姿はもうない。
だが、その影は札になって甲府へ運ばれていく。
*
躑躅ヶ崎館に戻ると、すぐに晴信の側近から声がかかった。
通されたのは評定の間ではなく、もう少し狭い座敷だ。
晴信、飯富虎昌、内藤、山県、小山田――そして信行。
「川の渡しでの様子、聞こう」
晴信が、あいさつも抜きに言った。
信行は、川でのやり取りを順に話した。砥石から来た一団の数。荷馬の数。荷の中身。侍たちの様子。
とくに、荷改めを「好都合」と言って笑った侍の言葉は、できるだけ正確に伝えた。
「村上の家にも、口の立つ者がおるようだな」
晴信は静かに言う。
「こちらの定めを逆手に取り、自分の利に変える」
「そう見えた」
信行はうなずいた。
「ただ、それはこちらの『橋で荷を改める』ってやり方を、向こうもよく知ってるってことでもある」
そこへ、山県が口を挟んだ。
「こちらが橋で荷を改めたことも、すぐ砥石に届きましょうな」
「だろうな」
晴信は盤上の駒をひとつ動かした。
「それで構わん」
短い一言に、場の空気がわずかに動く。
「……よろしゅうございますかな」
内藤が問う。
「こちらの手の内をひとつ晒した形になりますが」
「橋で荷を改めるのは、もとからこの地の決まりだ」
晴信は駒を弾く。
「今さら隠してどうなる。大事なのは――」
晴信の視線が、信行へ向けられた。
「道の端にいる者どもが、どれだけ細かく見ておるか。どれだけ早く知らせを寄こすか。今日で、それは分かった」
短く息をついて続ける。
「信行」
「はい」
「お前の張った綱は、まだ細いが、ちゃんと揺れておる」
不思議な言い回しだったが、信行にはよく分かった。
「綱を渡る者は、これから増える」
晴信は言う。
「渡る者が増えれば、綱も強くせねばならんし、綱を握る手も増やさんとな」
虎昌、内藤、山県へと視線が巡る。
「それぞれの目で、この綱がどこまで使えるか、見ておけ」
虎昌が深く頭を下げた。
「承知仕りました」
内藤も頷き、山県の目にはわずかな熱が宿っていた。
(父上は、もうこの綱を俺だけのものとは見ていない)
信行は、自然と背筋が伸びるのを感じた。
綱は、信行の手を離れ、武田家全体の道具になり始めている。
*
座敷を出た廊下で、山県が追いついてきた。
「若君」
「なんだ」
「先ほどの川での采配、悪しからぬものでございました」
山県はぶっきらぼうな調子のまま言った。
「斬る前に測る、というやつにございますな」
「……素直じゃないな」
信行が苦笑すると、山県は肩をすくめる。
「いずれ斬らねばならぬ場は参りましょう。その折、その綱がどれほど役に立つか、楽しみにいたしております」
そう言い残し、さっさと歩き去っていった。
源五郎が小声で囁く。
「信行様、褒めておられましたよ!」
「そうか?」
「山県殿がああ申されるのは、きっとお褒めにございます!」
嬉しそうな源五郎を見ながら、信行はふっと笑みをこぼした。
(綱は、渡る者が多いほど強くなる)
その代わり、切れたときの被害も大きい。
だからこそ、太さも張り方も間違えられない。
砥石の山影は、まだ遠い。
だが、その山影に向かって伸びる綱は、少しずつかたちを成しつつあった。
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