第6話 父の前、影の前

 甲斐の山並みが近づくにつれ、庄三たちの顔つきは固くなっていった。


 峠を下り、盆地の端を回り込むように進むと、遠くに躑躅ヶ崎館の屋根が見える。谷間を抜けてきた風とは違う、少し温かい風が頬を撫でた。


(帰ってきた、というより――戻ってきた、か)


 信行は、馬上から甲府の町並みを眺めた。


 田畑。屋根瓦。川。


 自分の「本拠」であり、同時に庄三たちにとっては敵の懐でもある場所。


 背後で、わずかな息を呑む気配がした。


「怖いか」


 信行は振り向かずに問うた。


 庄三は、ほんの一拍置いてから答えた。


「……怖くねぇと言ったら嘘になる」


「それでいい」


 信行は前を向いたまま、淡々と言った。


「怖れを知らぬ者ほど、扱いにくい」


 庄三は、わずかに息を吐いた。


 その一行を、飯富虎昌は黙って前から見守っていた。


     *


 躑躅ヶ崎館の前庭に、一行が入ると、出迎えの家臣たちの間に目立たぬざわめきが走った。


 甲冑姿の兵に混じって、粗末な武具の男たちが数人。


 刀こそ持たされていないものの、その顔つきには「山の影」の空気がまだ残っている。


「信行様、ご帰陣!」


 門番の声が響き、館内に広がっていく。


 信行は馬を降り、まず虎昌の方へ向き直った。


「庄三たちのこと、頼む」


「承知」


 虎昌は、短く答える。


「この者どもはひとまず、わが兵の中に預かる。目を離すわけにはいかぬが、手荒な真似はせぬ」


 庄三たちには、すでに縄がかけられていた。逃げればいつでも斬れる、だが、今すぐに斬る気はない――そういう扱いだ。


 庄三が、わずかに苦笑を浮かべて言う。


「ま、武田の屋敷まで連れてきてもらえただけで、ずいぶん過ぎた話だ」


 信行は、彼にだけ聞こえるような小さな声で言った。


「ここから先は、俺の働き次第だ」


 庄三は目を瞬かせ、それから小さく頷いた。


     *


 信行が父・晴信の前に呼び出されたのは、それからそう時間をおかずのことだった。


 評定の間と同じ座敷。だが今日は、重臣全員が揃っているわけではない。


 晴信の他には、飯富虎昌と数人の近習だけ。空気は静かだが、重さは前回の評定以上かもしれなかった。


「戻りました」


 信行が膝をついて頭を下げると、晴信は短く頷いた。


「道はどうだった」


 無駄のない問いだった。


 信行は、事前に頭の中で順を立てておいた通りに話し始めた。


 甲斐から信濃へ抜ける峠道の状態。


 丸木を組んだだけの橋の位置。増水時に危うくなる護岸。


 谷あいの小さな村と寺。砥石・葛尾からの人の出入りを見張るには適した宿場の様子。


 晴信は途中で口を挟まず、ただじっと聞いていた。


「……以上が、今回見てきた道筋にてございます」


 信行が言い終えると、しばし沈黙が落ちた。


 やがて晴信は、卓上の小さな木片を指で弾いた。


 それは、簡略な地図の上に置かれた「橋」を示す駒だ。


「橋の補強を、と申したそうだな」


 背後で虎昌が、僅かに身じろぎした。


「はい。あのままでは、雨続きの折にいつ落ちてもおかしくありませぬ。せめて杭と横木をあらかじめ打っておき、板をすぐに渡せるようにしておけば――」


 信行は、言葉を選びながら続けた。


「兵の数を増やさずとも、退き道を太くできるかと」


 晴信は、木片を指で押しながら言った。


「橋を太くするために人と金を割けば、その分、槍と矢を減らさねばならぬ」


「はい」


「その価値があると見るか」


 問われ、信行はわずかに息を吸い込んだ。


「あると存じます」


 きっぱりと言った。


「兵を十人二十人増やしたところで、退き道を失えば皆、川に呑まれます。橋を守る策に力を割けば、その十人二十人が生きて戻り、次の戦に立てましょう」


 晴信は、じっと息子の顔を見た。


「兵を数ではなく、戻る数で見るか」


「……はい」


 いつの間にか、声がわずかにかすれていた。


(戻ってこなければ、次はない)


 黒板の前ではなく、山道でそれを実感したのだ。


 晴信は視線をそらさぬまま、虎昌に問いかけた。


「飯富はどう見た」


「信行様の申されること、道を見てまいった身にはよく分かります」


 虎昌は、低く、しかしはっきりと答えた。


「橋を一つ強くしておくことで救える首があるなら、その分の槍を減らす価値はございましょう」


 少し間を置いてから、付け加える。


「長く戦場を見てきた目でも、そう思います」


 晴信は、ほんの小さく鼻を鳴らした。


「お前がそう言うなら、その橋は太らせよ。ほかにも同じような場所があるかどうか、道筋ごとに洗い直せ」


「ははっ」


 虎昌が深く頭を下げる。


 晴信は、再び信行の方を見た。


「道以外に、何か見えたか」


(ここからが、本題だ)


 信行は、胸の内で姿勢を正した。


「はい。……道の影にいる者たちのことを」


「影?」


「山の中で、道を狙っていた者どもがいました」


 晴信の目が、わずかに細くなった。


「武田の荷を狙う者か」


「結果としては、そうなりかねぬ者たちでした」


 信行は、庄三たちとのやり取りをかいつまんで説明した。


 倒木で道を塞ぎ、馬と荷を奪おうとしたこと。


 だが、刀の構えは素人ではなく、元は信濃の小笠原家に仕えていた者たちだったこと。林城が落ち、行き場を失った末に山へ入ったこと。


 自分が彼らを説得し、甲斐まで連れ帰ったこと。


「面白いまねをしたな」


 晴信の声には、怒りとも笑いともつかぬ響きがあった。


「そのまま討ち捨てる道もあったはずだ」


「あります」


 信行は、否定しなかった。


「ですが、彼らを皆殺しにしたところで、行き場を失った者が山に消える流れは止まりませぬ。小笠原の城を落としたのは父上。そのあとでどこへ行くか――その行き先を、こちらで決めておく方がよいと考えました」


 言いながら、自分の掌にじんわりと汗が滲むのを感じた。


 晴信の目は、なおも厳しい。


「こちらで決める、か」


「はい」


 信行は、まっすぐに父の視線を受け止めた。


「山の中で刀を振るうなら、『敵かもしれない影』ですが、道の番として刀を振るうなら、『使える手』になります」


 庄三の顔が、脳裏に浮かぶ。


 城を失い、田畑を失い、それでも刀だけは手放せなかった男。その刀の向きが、たまたま武田の行列に向いていただけだ。


(向きを変えさえすれば、同じ刀でも意味は変わる)


「父上」


 信行は、言葉を継いだ。


「砥石に向かう道は、これからますます騒がしくなります」


 天文十九年の信濃。砥石城を巡る攻防は、まさにこれから佳境に向かうところだ。


「その時、道のあちこちに、どちらにも付かぬ者たちが影のように潜むことになります。ならば、先に手を伸ばし、こちらの影にしておいた方がよいと存じます」


 晴信は、盤上の駒に触れなかった。


 ただ、静かに息を吐いた。


「山に消えた者を拾い、味方にするのは、今に始まったことではない」


 その言葉には、自身のこれまでの戦いが凝縮されていた。


 海野衆。真田。村上のもとから離れてきた者たち。


 信濃の山の中で、「元○○家臣」はいくらでも拾われてきた。


「だが、道を狙っていた者を、そのまま道の番に据えるのは、なかなかに大胆だ」


 晴信は、わずかに口の端を上げた。


「飯富」


「はっ」


「その庄三とやら、まずはお前の手の内に置け。すぐに役を与えるな。しばらくは、ただ働かせながら様子を見るのだ」


「承知」


 虎昌の返事は、いつも通り揺るぎない。


 信行は、胸の奥でそっと安堵の息を吐いた。


(ひとまず、「斬って捨てる」ではない)


 そこから先は、庄三自身と、自分の働き次第だ。


「信行」


 晴信が、あらためて息子の名を呼んだ。


「はい」


「お前が拾ってきた影だ。影が暴れれば、お前の責任と思え」


 重い言葉だった。


「そして、うまく使えたなら、その功もまた、お前のものだ」


 信行は、深く頭を下げた。


「肝に銘じます」


 功も罪も、ひとつのところに積もっていく。


 将来、その重みがどう見られるかは、今はまだ分からない。


     *


 晴信との対面を終えて座敷を出ると、廊下の陰で源五郎がそわそわと待っていた。


「信行様!」


「どうだった、という顔をしているな」


「そりゃあ、気になります!」


 源五郎は、少年らしい率直さを隠しもしない。


「庄三たちは……」


「飯富に預けることになった」


 信行が答えると、源五郎の顔に安堵と驚きが混ざった。


「本当に、斬られずに済んだのですね」


「その代わり、少しでも妙な動きを見せれば、真っ先に首が飛ぶ」


 信行は、廊下の向こうに視線を向けた。


「拾った影を、そのまま光に連れていけるかどうかは、これからの話だ」


 源五郎は、きゅっと拳を握った。


「俺も見張ります。庄三たちが変な真似をしないかどうか」


「見張るだけではなく、見て覚えろ」


 信行は、思わず口に出していた。


「戦場で刀を振るう者だけが武ではない。道を作る者、影をまとめる者も、同じくらい大事だ」


 源五郎は、少し難しそうな顔をしたが、やがて大きく頷いた。


「よく分からないところもありますが……信行様のそばで見ていれば、いつか分かるような気がします!」


 その答えに、信行は苦笑を噛み殺した。


(分からないことを「いつか分かる」と言えるのは、若さの強さだな)


 だが、その強さこそ、これからの武田家に必要なものでもある。


     *


 夕刻。


 信行は、一人、中庭の隅に立っていた。


 庭の石灯籠に火が入り、松の影が地面に長く伸びている。


 ふと、足音が近づいた。


「信行」


 振り向くと、そこには三条の方が立っていた。


 母の姿は、朝の対面のときよりも少し柔らかな服装だった。家事を取り仕切る女房と話していた帰りなのだろう。


「信濃から戻りましたと聞きました」


「はい。先ほど、父上へのご報告も済ませました」


 母は、信行の顔をじっと見つめた。


「……また、顔つきが変わりましたね」


「変わりましたか」


「ええ」


 三条の方は、小さく微笑んだ。


「外へ出て、道を見て、人の顔を見て戻ってきた人の顔です」


 信行は、言葉を失った。


 母は、中庭の端に目をやった。


「甲斐の外の空は、どうでしたか」


「甲斐と、そう変わらぬところもあり、まるで違うところもありました」


 信行は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「同じように田を耕し、同じように山を見て暮らしていても、いつ誰の旗が立つかで、名も暮らしも変わってしまう。……そういう土地でした」


 母の目が、ほんの少し陰る。


「こちらでも、そうです」


 静かな声だった。


「旗が変われば、同じ空も違って見えます」


 信行は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


(京から甲斐へ嫁いできた人の言葉だ)


 母にとっても、旗の色が変わり続けるこの国は、決して穏やかな場所ではなかったはずだ。


「信行」


 母は、そっと問いかけた。


「これからも、外へ出るのですか」


「出たいと思います」


 信行は、迷いなく答えた。


「外を見なければ、ここも守れないと感じました」


 母は、短く息を吐いた。


「……ならば、どうか無事に帰ってきなさい」


 それは、主君の命令でも、父の期待でもない。


 ただ、一人の母としての願いだった。


 信行は、深く頭を下げた。


「必ず」


 その約束がどれほど重いものかは、よく分かっている。


 だが、今この瞬間だけは、言い切るより他なかった。


     *


 夜。


 信行は、自室で一本の木刀を手に取った。


 砥石へ続く道。山の影。野の影。


 その途中で拾った庄三たち。


 橋。寺。宿場。村。


 ひとつひとつが、ばらばらの点のようでいて、どこかで線になりつつある。


(砥石の戦いも、年号の一行で片づけられるようなものではない)


 天文十九年、砥石城の戦い――。武田信玄が村上義清に大敗を喫した戦として知られるその出来事も、無数の道と人の積み重ねの果てに生まれる。


 その積み重ねの中に、自分が少しずつ入り込み始めた。


 木刀を構え、静かに振り下ろす。


 甲斐の夜の空気が、刀の軌跡に沿ってわずかに揺れた。


(まだ、始まったばかりだ)


 砥石城そのものは、まだ遠い。


 だが、そこへ向かう道の形は、少しずつ変わり始めている。


 道を太らせること。


 影を拾い上げること。


 それらが、いずれどんな結果に繋がるのかは、今は誰にも分からない。


 それでも――。


(二度目の人生をもらった以上、ただ歴史をなぞるだけの役にはならない)


 木刀を下ろし、信行は静かに目を閉じた。


 甲斐の夜は、まだ深くはなっていない。


 その夜の先に続く日々のどこかで、砥石の山影が、必ず見えてくる。


 その時、自分がどんな顔でそこに立つのか。


 それを決めるのは、今この瞬間から積み重ねる、ひとつひとつの選択だけだ。


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