第02話

 二月二日、月曜日。

 この日もテレビ局のスタジオで、午前八時に『あさまど』の生放送を終えた。その後一段落ついてから、番組の主要スタッフが会議室へ集められた。

 ディレクターの野中千尋とプロデューサーから、三月末で番組が終了することが告げられた。それが用件であり、厳密には会議ではない。

 有村紗英は今も複雑な気持ちだが、事前に聞かされていたため、驚かなかった。周りは、やはり納得できないが受け入れざるを得ない様子だった。

 視聴者への番組からの告知は、三月二日に行われる予定だ。終了へ向けて、これまでの歩みを振り返る編集や、視聴者に感謝する企画が考えられる。終了するとはいえ、この二ヶ月は忙しくなりそうだと紗英は思った。


「アリサも何かやりたいことあったら、遠慮なく言ってね」

「そう言われてもねぇ……」


 千尋の言葉を適当に聞き流しながら、紗英はアナウンス部のオフィスへと戻った。

 紗英としては、番組の終了自体よりも終了後の方で頭がいっぱいだった。それに、千尋がどのぐらい本気で振ってきたのかもわからない。

 何にせよ、今日の仕事はもう終わりだ。事務作業と明日の軽い打ち合わせを片付け、帰宅する流れだ。


 紗英は自分のデスクでコーヒーを飲みながら、ノートパソコンの電源を入れた。

 放送終了後にスタジオで撮影した番組用衣装の写真を、SNSに個人アカウントで投稿した。

 今日の衣装はミントグリーンの七分袖ニットとアイボリーの膝丈フレアスカート、ライトグレーのローヒールパンプス、そして小さな金縁フープのイヤリングだ。カメラ映えする色味だが上品な雰囲気があり、紗英は気に入っていた。スタイリストが言っていた『春待ちコーデ』を、コメントとして添えた。


「まーたSNSですか。本当に依存症ですね」


 程なくして、隣の席の『後輩』も戻ってきた。

 呆れた物言いだが声はとても上機嫌に、紗英は聞こえた。


「あんたねぇ。ちょっとは悲しんだら? だいぶ露骨よね」

「先輩だって、そんな素振りないじゃないですか」

「失礼ね。私はこれでも喪に服してるの」


 周りからはそう見えているのだと、紗英は察した。

 自分だけ事前に聞かされてきたとは、言えるはずがなかった。


「ていうか、ちょっとは危機感持った方がいいわよ? せっかく順調な滑り出しだったのに……これからのキャリアを心配しなさい」

「キャリアって、タレントのですか? そういうのからひとまず解放されて、わたしめっちゃ嬉しいんですけど」


 言葉通り満面の笑みを浮かべ、立花真由美たちばなまゆみは紗英の隣に座った。

 真由美は新卒で入社一年目の二十三歳だ。近くで見ると肌が若いと紗英は感じ、そして羨ましくもあった。

 入社後の研修を終え、真由美は『あさまど』に配置された。フレッシュを武器に、天気予報やロケーション撮影をこなしながら、少しずつ現場に慣れてくる時期だ。新人アナウンサーとして誰もが通る道だった。

 否、若い時分こそ最も大切な時期だと紗英は思う。


「次は、マユちゃんじゃなくて立花真由美として扱ってくれる番組にレギュラー出演したいです――アリサ先輩には、わからないかもですが」

「ええ。あんたの言い分は全然わかんないわね」


 どの局もそうだが、早朝からニュースだけを取り扱う堅苦しい雰囲気の朝枠番組は存在しない。『あさまど』は情報番組として、良く言えばカジュアルに――実際は、半ばバラエティ番組のような側面が顕著だ。

 その中で女性アナウンサーは、真由美の言う通りタレントのように扱われる。まさに、紗英の望んでいた世界だった。

 いや、紗英に限らず、多くの女性アナウンサーがそれを望んでいるはずだ。


「わたしは、報道記者キャスター志望で入社したのに……なーんでアイドルの真似事させられてるんですかねー」


 しかし、真由美は違った。ジャーナリズムに溢れていると、紗英は感じている。

 真由美のような存在が、業界に全く居ないわけではない。極めて珍しい。

 アナウンサーとキャスターは、似ているようで厳密には違う。実際どのような経緯で真由美が入社したのか、紗英にはわからないが――彼女が局からアナウンサーとして扱われていることには納得していた。


「せっかく可愛いのに、なに勿体ないこと言ってんのよ」


 そう。とても容姿に優れているのだ。おそらく誰の目からもそうであると、紗英は思う。

 小柄で黒髪ショートボブの真由美は、紗英には小動物のような愛らしさがあった。『視聴者受け』の面では、入社一年目の紗英以上だ。女性アナウンサーとして大成する資質だけではない。本当にタレントとしても通用すると、紗英は感じていた。


「いやいや、このご時世に外見至上主義ルッキズムは、いい加減やめましょうよ」

「あんたが言うと皮肉にしか聞こえないわ……」


 紗英は少し腹を立てながら、真由美に半眼を送った。


「それじゃあ、折角なんで言わせて貰いますけど……先輩、最近ちょっと顔が丸くなってきてません?」

「うっ。あんた、本当に容赦ないわね」


 おそらく、誰に対しても率直な意見を伝えるのだろう。

 可愛くない後輩だと思う反面、紗英は図星でもあった。紗英もまた、感じていたことだ。年齢による代謝の衰えだが『小娘』への言い訳にはしたくない。


「二の腕が隠れる時期だから、ジム行くのサボってただけよ。すぐ戻せるわ」

「ジムじゃなくても……わたしみたいに、しょーもないロケ行ったらどうですか? 流行りのカフェなんて、誰に需要あるんですかねぇ」

「言うほどカロリー使わないでしょ。どさくさに紛れて愚痴らないの」


 紗英は同じ番組に出演している者として、真由美の教育指導係を任されていた。

 このような後輩を持ち、日々頭が痛かった。叶わないだろうが――番組終了と同時に解放されることを願った。


 午前九時半、紗英は退社した。

 普段であれば、会社が契約しているタクシーに送迎して貰う。だが、この日は徒歩で帰宅することにした。コートにマフラー、マスク、使い捨てカイロと、防寒対策は出来ている。

 とはいえ、自宅である賃貸マンションまでは、徒歩で二十分から三十分ほどだ。これぐらいの散歩であれば、体重を減らすための運動にはならない。

 だから、空が晴れていることもあり――紗英は散歩を延長することにした。


 自宅近くには、大きな川が流れている。そして、大きな橋が架かっている。

 そこへ足を運ぼうとしたのは運動だけでなく、気まぐれの冒険心でもあった。『節目』を迎えるにあたり、少なからず浮ついていた。

 紗英が現在の自宅に住んで、四年経つ。紗英の生活で、橋の向こうへ行くことはほとんど無かった。

 橋の歩道を進んでいく。自動車が車道を横切るが、通行人とすれ違うことはない。

 この時間帯は『世界』が動き出して、まだ間もない。皆が通勤や通学を済ませた中、紗英は仕事を終えて逆行していた。

 まるで、自分ひとりだけが取り残されたかのようだった。普段は寂しさを感じることがある。

 今もどこか静けさを感じるが――それでも陽はまだ低く、川に反射して眩しかった。


「気持ちいいわね」


 世界は明るい。寂しさよりも、この時間帯を自分ひとりが独占しているような満足感があった。なんとも不思議な感覚だった。

 それに、三十分歩き、身体が少し温まってきたことから――二月の冷たい空気が、澄んでいるように感じた。自動車での送迎では得られなかっただろう。歩いたことで発見があって良かったと、紗英は思う。

 目的地など無いが、この明るく静かな世界を、いつまでも歩いていけそうな気さえした。それに反し、番組終了の寂しさが今になって少し込み上げてきた。

 午前三時に起床する生活もあと二ヶ月かと思った。


 橋を渡り切り、川沿いの街並みを歩いた。

 紗英はふと、冷たい風の中、良い匂いが漂ってきたのがマスク越しでもわかった。小麦の焼けた――パンの匂いが、空腹に触れた。

 このあたりにパン屋があるのだろうか。紗英はそれを探して、歩いた。

 やがて――古びた雑居ビルの一階だけが改装され、周りから浮いていた。そして木目調の店からは、温かさや和やかな印象を受けた。

 看板には『Aube』と書かれている。読み方も意味も紗英にはわからないが、匂いに吸い寄せられ、店の扉を開けた。扉に付けられた鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ!」


 店の奥から、店員らしき声が聞こえる。妙に明るい声だが、店の雰囲気に合っているとも言える。

 扉近くにはトレイとトングが置かれていたが、紗英は一旦持たずに店へと入った。

 小さな店には、所狭しと商品棚が置かれていた。それぞれに、商品名と値段が可愛い手書きで記されたPOPがあった。

 悪く言えば、乱雑で散らかっている。だが紗英は、内装からも温もりを感じた。

 SNS向けに写真を撮ろうと携帯電話を取り出そうとするが、焦げたバターの良い匂いに遮られた。今は写真よりも、純粋に匂いを楽しみたかった。

 それに――棚には肝心の商品パンがほとんど無かった。今は他に客が居ないことからも、通勤や通学で売れた後なのだと察する。

 紗英は残念がっていると、マスクの内側――口内で唾液が滲み出た。思わず腹が鳴りそうだった。

 それほどまでに、店内に漂っていた匂いが強く立ち込めた。

 否、近づいてきたのだ。大きなオーブントレイを抱えた人影が、店の奥から現れた。


「お姉さん、グッドタイミングだね! 焼きたてだよ!」


 すらっとした長身の人影だった。衛生帽子とマスク、コックコートといった格好から、店員だと紗英は思った。

 しかし、どこか既視感のようなものがあった。


「――って、あれ?」


 店員は何かに気づいた様子だった。

 紗英は、マスクを付けてさらにマフラーで口元を覆っていても、正体がばれたのだと思った。どの店でも『アリサさんですよね!?』と、よく訊ねられる。迷惑ではなく、むしろ嬉しかった。嬉々として頷き、求められたならサインにも応じた。

 今回もこのようなやり取りが行われるだろうと、身構えた。


「こないだのお姉さんじゃん!」


 だが、店員の口から『アリサ』の愛称は出なかった。

 こないだのお姉さん――何のことだろうと思いながら、紗英は店員の顔を見る。

 既視感がさらに強くなり、気づいた。

 衛生帽子で髪が包まれていても、マスクで口元が隠れていても、妙に明るく活き活きとした目には見覚えがあった。

 そう。先週末、薄暗い店で酒を飲みながら向き合っていた。


「ほら、えーし!」


 独特の一人称から、紗英は確信した。


「え? スナックの?」


 どういうことか、スナックでセナと名乗っていた女性が、焼きたてのパンを運んできた。

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