世界が止まった午前九時半に
未田
本編
第1章『アリサとセナ』
第01話
一月三十日、金曜日。
午後八時――
紗英ひとりでは滅多に訪れない場所だった。週末であるためか賑わっているが、紗英には『俗っぽい』印象を受けた。空気が濁っているように感じ、居心地は良くなかった。
飲み屋街の外れまで歩き『スナック宵宮』と書かれた看板の店に入った。
薄暗い店は狭く、カウンター席がいくつかあるだけだ。カウンターテーブル越しに、店員らしき女性がひとりだけ立っている。客は誰も居ない。
紗英はこのような類の店を初めて訪れた。やはり立地の印象を持ったが、良く言えば『隠れ家』のような雰囲気だった。それでも、SNSに投稿する写真を撮る気にはならなかった。
「やあ、ママ。今日も寒いねー。ちょっとだけ、この子と仕事の話させて」
同僚はヘラヘラした軽い口調で用件を伝える。ふたりは、奥の席へ案内された。
紗英が脱いだコートを店員の女性が預かり、壁際のハンガーにかけた。そして、カウンターテーブルにウイスキーのボトルとグラスをふたつ置いた。
飲みかけのボトルには『ちひろ』と手書きで記されていた。店に慣れた様子からも、同僚である
とはいえ、このような場所で仕事の話は如何なものかと思った。
「洒落たお店ね」
それでも店員の手前本音を漏らせず、作り笑顔で適当に取り繕った。
「いやー、悪いね。天下のアリサ様に、こんなところに付き合わせて」
だが、千尋には見透かされているようだった。
千尋はマスクを外すと、ふたつのグラスにウイスキーを注いだ。
仕事外でも、傷んだアッシュブラックの髪を無造作にひとつ結びに束ねたままだ。雑な化粧では、目下のクマがとても誤魔化せない。
紗英は普段から疲れた様子を見せている千尋が、とても自分と同じ二十九歳には見えなかった。同期入社だが、番組ディレクターとして激務に追われている彼女が老けて見えた。
千尋とは同じ番組に携わっていることもあり、付き合いが長い。だからこそ、今夜は彼女の雰囲気から僅かな違和感を覚えた。
「ねぇ。私の勘違いなら良いんだけど……なんか、ヤケになってない?」
紗英は隣に座る千尋の顔を、不安げに覗き込んだ。
グラスに少しだけ注いだウイスキーを、千尋は一気に飲み干した。
「あさまど、三月いっぱいで終わるって通達があった」
そして、空になったグラスに視線を落としたまま、漏らした。
アナウンサーである紗英は、十年以上の歴史がある朝の情報番組『あさまど』の司会を務めている。入社二年目から紗英はアシスタントキャスターとして、千尋はアシスタントディレクターとして関わってきた。今や入社七年目であり、ふたりは相応の
だが、番組が四月の改編期を乗り越えられないという。
そのように告げられても、紗英にはなんだか現実味が無かった。しかし、番組ディレクターからこのような店に連れてこられ――冗談を言っているようにも聞こえなかった。
「えっ、なんで?
紗英は複雑な気持ちで訊ねる。
「
所詮は準キー局のローカル番組だからだと、一応は理由があるようだ。
全国帯の系列チャンネルでは同時間に、本社であるキー局制作の朝枠番組が広く放送されている。この地域でも一部が放送されているが、本格的に置き換えたいらしい。
要するに、番組の実績を無視した経営者の一存だ。理不尽な方針に、番組責任者が納得できるはずがないと、紗英は察した。
「現場の誰かが悪かったわけじゃない。まあ、番組変わって間違いなく
「そうね……」
紗英もまた納得できないが、ようやく現実を重く受け止めた。
場末の店で告げられて結果的には良かったと、紗英は思う。千尋にそのような意図があったのかは不明だが、衝撃が幾分和らいでいるように感じた。
「とりあえず、お疲れさま。残り二ヶ月――最後まで走り切ろう」
二杯目を注いだ千尋が、グラスを掲げた。
紗英は千尋と乾杯し、ウイスキーを一口飲んだ。不味い酒だった。
「それで……アリサは二ヶ月後、番組終わってからどうする?」
「どうするって?」
「私ら、もう二十九でしょ? 良いように考えれば、年齢的にも節目だし……フリーに転向するのかなーって」
流石は同期社員であり、よくわかっていると紗英は思った。
一般的に、テレビ局との雇用関係が無いアナウンサーを、フリーアナウンサーと呼ぶ。ただし、完全に独立して個人で活動している事例は少ない。ほとんどが芸能事務所や制作プロダクションに属している。
そう。彼女達の多くは、半ば芸能人のような扱いを受けている。
それがまさしく、紗英の望む姿でもあった。
大学でミスコンテストを受賞した紗英は、清楚で淑やかな芸能人である女性アナウンサーを目指した。キー局の新卒選考には落選したが、この地域で『朝の顔』として定着した。世間やSNSでの扱いから、望んでいたキャリアを掴んだ手応えがあった。
このタイミングでのフリーアナウンサー転向は、いわば地方からの全国進出だ。よりきらびやかなステータスを手にすることが可能だ。しかし――
「それも全然アリなんだけど、正直言うと不安……。通用しなかったら結構悲惨だから、残るか迷うわ。ここだと、築き上げてきた『土台』がしっかりしてるし」
「へー、意外と保身的なんだね。私はてっきり、意欲的に出ていくとばかり……」
「なに? 出ていって欲しいの?」
「そういうわけじゃないよ。アリサとなら
「歯切れ悪いわね……」
紗英は半眼を向けると、千尋は苦笑した。
千尋に対し義理はあるが、彼女のために残ろうとは、今の時点で思わなかった。もしも泣きつかれても変わらないだろうと、想像した。
それから、千尋は店員と酒を飲みながら喋った。
このような店にも関わらず、店員は無愛想だった。それでも、同僚のかつてないほど活き活きとした様子に、紗英は静かに驚いていた。
紗英は千尋から席をひとつ空け、ひとりで酒を飲みながら――考えに耽けていた。
番組が終わり、三十歳を迎えるにあたり、転向するか残るか。これからの人生を大きく左右するかもしれない岐路に立たされた。だが、今どれだけ考えても、結論は出なかった。眠気に襲われているうえ、アルコールを摂取していることも影響しているだろう。
そもそも、このような薄暗い所で結論を出したくないと、冷静になった。まだ時間はあるのだから、落ち着いた所で改めて考えようと思ったところ――
「ちわーっす!」
店の扉が開き、明るい声と共にひとりの女性が現れた。
長身だがダウンジャケットのシルエット、そして明るい色の切りっぱなしボブが、紗英には印象的だった。
紗英は一目見て、客ではないと悟った。妙に若く、それに――どことなく『夜職』の雰囲気を感じたのだ。
「あっ、お客さん――準備しないと!」
時間帯にもよるのだろうか。紗英は普段の客入りがわからないが、女性が珍しさに驚いたように見えた。
女性は慌てて奥へと向かい、しばらくすると再び姿を現した。カウンター越しに、紗英の前に立った。
「お待たせー」
紺のノースリーブワンピースと、腰には細い金のベルト。浮き出たボディラインから、スタイルが良いと紗英は感じた。
顔も小さく、整っている。良く言えば、タレントのようだが――このような店であり、そしてドレスを着こなしていることから、紗英は『夜職』として人気がありそうだと思った。
「えーし、セナ! お姉さん、初めてだよね!? めっちゃ綺麗なんだけど、ヤバくない!?」
源氏名だろう――セナと名乗る店員に、紗英は顔を覗き込まれた。
セナの表情は子供のように無邪気だった。
本当に興味を持たれていると紗英は感じ、セナの発言がリップサービスではなく本心かもしれないと思った。その点に関しては嬉しいが、引っかかる点もあった。
「あんた、アリサちゃんも知らないの? めっちゃ有名な女子アナだよ。ちょっとは朝のニュース観な。まったく……常識の無い子ですいません」
千尋と喋っていた店員の女性――おそらくこの店の店主が口を挟み、苦笑しながら紗英に頭を下げた。
引っかかる点を代弁してくれたことに、紗英もまた苦笑した。
そう。アリサをセナが知らなかったことが、紗英は不可解だった。
この地域の人間全てに知られていると思っていた。店主の言う『常識』は誇張でない。
確かに『あさまど』は、夜職の人間と縁の薄い番組だ。それでも、紗英の自己顕示欲を少し傷つけられた。
「いえ……私なんて、有名でも何でもないですよ」
内心では怒りが沸々と込み上げるが、紗英はなんとか抑えて謙虚な態度を取った。このような店でも、印象作りを優先したまでだ。
実際に態度に示したからか、怒りは薄れ――そして、自信もやや薄れるのを感じた。この地域で『土台』を築き上げ、全国進出を考えていた矢先のため、なおさらだった。
「へー、女子アナさんなんだ。朝、眠いよねー。えーしもわかるよ!」
紗英の空いたグラスに、セナが千尋のボトルを注ぐ。
ふと、セナの手に――マニキュアすらもネイルが施されていないことに、紗英は気づいた。このような店としては違和感があるが、それも一瞬だった。
この店は明け方まで営業しているのだろうか。それでも、朝枠番組アナウンサーの生活の苦労は、同業者にしか共感できないと思った。
本人に自覚が無いにしても、紗英にとっては軽率な発言に聞こえた。再び怒りが込み上げるが、グラスに注がれた酒を煽って抑えた。
「ねぇ……。私、こういうお店初めてで、よくわからないんだけど……貴方も飲んだら?」
紗英はボトルを手に取り、セナに向けた。この女性と喋るのが不快なため、口を開かせない行動のつもりだった。
「ありがとう! でも、ゴメンね。えーし、まだ未成年だから……」
「そうなんですよ。この子、変わってますけど……嘘はつきません」
店主がすかさずセナの擁護に回る。
とはいえ、紗英にはとても信じられなかった。そういう『設定』かと、呆れた。きっと、誰にでもそのように断っているのだと察した。
不愉快だが、なんとか表情には出さなかった。その代わり、紗英は軽い酩酊状態で、セナを見上げた。
近くで見ると、妙に明るい髪色はオレンジブラウンだった。
紗英が第一印象で感じた『夜職らしさ』は髪の明るさからだった。しかし、赤みがかった色が綺麗であり――前髪はやや長めだが、下品というわけではなかった。
むしろ、先ほど気づいた爪といい、清潔感がある。
真っ直ぐ見つめてくる瞳から伝わる純真な明るさもまた、違和感のひとつだ。
「お姉さんのお仕事の話、聞かせて!」
それでいて、妙に人懐っこい。憎いのに、憎めない。
なんだか不思議な女性だとぼんやり思いながら、紗英は酒を飲んだ。
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