Un–Hopes City -Lost Eden-
蒔文歩
Chapter1 少年の記憶
ガソリンの匂いが、好きだった。
車や、ストーブを動かす時、不意に掠める匂いだ。
有機物の匂いというのは、ああいった物のことを指すのだろう。鼻の奥に染みるようで、塩っぽくも酸っぱくも思える。今やガソリンや灯油は全て電気に乗り換えられてしまったが、その懐かしい匂いは幼い自分の嗅覚に強烈な印象を残した。
本当に、皮肉な話だ。
灯油と合金でできた、あの「
嗅覚も人生も未来も、歪められてしまった。
七月六日。
『速報です。今朝、国会議事堂が何者かによって襲撃されました。今現在生存者は確認されておらず、防犯カメラも全て破壊され、状況を伝えることができません。内閣と陸軍は、一連の襲撃と「兵器」との関連性を調べており、近隣住民に注意と情報提供を呼びかけています。現地からの中継です………』
テレビの奥で、アナウンサーが機械的にニュースを読み上げている。国会議員が、みんな殺された。朝のニュースを突然襲った事件に、驚愕はしたが、朝ごはんを食べる箸は止まらなかった。
「………最近、物騒なことが多いわね。つい一ヶ月くらい前にも、海外派遣された軍人の飛行船が、爆発したって聞いたし。………しかも、乗っていたのが、学生兵だったなんて。」
母親が不意に食卓の手を止めて、そう呟いた。
国家を脅かす「兵器」を駆除するために、兵士として選ばれたのは学生だった。そして、戦地から誰一人として帰ってきた記録は残っていない。
「
「………うん。」
母親が誇らしげに語るのを見て、少しだけ心臓が疼いた。
戦争に行くことは、怖くない。兵役が嫌で中学受験をしたわけでもない。むしろ、同じ歳の子供が殺されていくのをニュースで知ることしかできない自分が、ずっと悔しかった。………それでも。
「ご馳走様。学校行ってくるよ。」
「コスモ!」
ひょこっと、階段から影が飛び出した。思わずこちらの頬が緩む。
「おはよう、
「今日、七夕祭り行ける?コスモと一緒に回りたい!わたあめ食べたい!」
「そうだなぁ………今日は部活があるから、無理かも。」
「えー。」
「だけど、明日は早く帰って来れるから。一緒に行こうか。」
ヒカリ………妹は頬を膨らませたが、すぐに笑ってくれた。小指を絡める。ぎゅっと握って上下に振る。
「約束だよ!」
妹の手首に巻き付いたミサンガが、楽しそうに揺れていた。
「………おっす、青木。」
「どうですか先輩、見れそうですか?」
「バッチリだ。」
暗闇で先輩が親指を立てた。促されて、望遠鏡を覗く。丸く切り離された宇宙に浮かぶ、白い球体。火星だ。
「すっげえ………!」
「装填ありがとな、青木。さすが、『
「やめてくださいよ。」
青木
「宇宙のように強く広い心を持ってほしい」という思いで両親につけられた名前らしいが。自他共に認める単細胞らしい性格に育ってしまった。今や名前を呼ばれることすら恥ずかしい。
「お前が入ってくれなければ、天文部は廃部の危機だったからな。本当に助かったよ。」
「あはは。」
星空を見ることが、好きだった。元々目は良かったし、空は尊大で、自分の過ちや羞恥なんて、小さくてどうでもいいことなんだってわかるから。
「明日七夕だな。科学部の奴ら誘って祭り行こうと思ったんだけど、青木も来るか?」
「すみません。妹と約束しちゃって。」
愛されてるなあ、と背中を叩かれる。地味に痛い。
その話題で不意に家族のことを思い出し、屋上に先輩を残して帰ることにした。
「ただいま………」
九時十分。天体観測に夢中になって、つい帰宅が遅くなってしまった。母親は夕飯を食べずに待っていてくれた。
「おかえり。カレー作ったから、食べよっか。」
「やった。あれ、ヒカリは?」
「先にご飯食べさせて、そしたらすぐ寝ちゃったの。」
ダイニングの椅子に腰を下ろした瞬間、どっと疲れが出てきた。そのまま机で寝てしまうかと思ったが、カレーが目の前に置かれた瞬間、スパイスの香りが眠気を吹き飛ばした。
「美味しい?」
「美味しい。あー、やっぱり家で食べるカレーが一番美味しいや。」
だけど、母親の様子がさっきからおかしい。食が進んでおらず、表情も暗いのだ。
「………ねえ、コスモ。」
「うん。」
「お父さん、東京に出張に行っているって言ったわよね。」
「あ、うん。」
大企業に勤める父親は、単身赴任で東京の本社に勤めているらしい。だから俺は、父親にほとんど会うことがなく、誕生日にプレゼントを持ってきてくれる時しか顔を見ることができない。
「………一昨日あたりから、連絡が取れないの。」
「え。」
「それに、あの人の職場は、国会議事堂に近いっていつだか話してて………」
………母親の心配が、すぐに理解できた。
「………大丈夫だよね?」
母親がそう笑って、俺は何も言えなかった。
その日は、なかなか眠れなかった。
大切な人がいる限り、戦場には行けない。
まだ、死にたくなかった。
あの地獄を目にするまで。
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