11-2. やっぱ女ってみんな同じだな

「結婚するんだ、俺達」

 茅部に結奈との婚約を伝えたのは、桜の花が咲き始める頃だった。

 場所はいつも三人で使っている渋谷のダイニングバー。そういえば結奈にプロポーズしたのも渋谷だった。場所はもっと上の、空に近いテラスだったが。

「……マジで?」

 茅部は一瞬ポカンとして、

「すげー‼︎ え、うわなんか泣きそうなんだけど」

「なんで茅部くんが泣くの。いつも大袈裟なんだから」

 そう言う結奈も満更でもない表情をしている。

「いや泣くでしょそりゃ。すげーな、あの亮が結婚だもんなぁ……」

「まだ結婚式の日取りとか全然決めてないけどな。俺と結奈の家族を除けば伝えたのはお前が最初だよ」

「部長にも?」

「ああ」

「うげ、じゃあ黙っとかないと。あの人こういうの一番先に知らないとすぐキレるからなぁ。しかも八つ当たりされんの僕だし」

「部長にも明日言うつもり。茅部くんも同席する?」

「いやいやいや、僕の話聞いてた!?」

 大袈裟に手を振ったかと思えば、茅部は半分近く残っていたビールを一気に飲み干した。

「結婚かぁ……」

「何をしみじみしているんだ、お前らしくもない」

「そうだねぇ……よし、今日はとことん飲む! 付き合え亮!」

「まあ、今日ぐらいは」

 ちらと横目に結奈の顔を見ると、

「いいんじゃない?」

「お許しが出た」

「今から夫婦っぽいアイコンタクトするとか鬼か‼︎」

 意外なことに、その日は結局茅部より俺の方が先に潰れてしまったらしい。

 曖昧な言い方なのは途中から俺の記憶が全く無いからだ。気付いたら軋む体と痛む頭にスーツ姿のまま自分のベッドに寝転がっていた。その後に結奈と茅部にメッセージを送ったところ、酔い潰れたのでタクシーで送ったと返事があった。三人で飲んでいればたまに起こることだったので、その日は特に気にも留めずに二人に謝っておいた。

 しかしその日以降、どこか結奈の様子がおかしくなった。

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけなのだが、俺から目を逸らすようになったのだ。そしてそれは決まって愛し合っている時に起こった。

 その違和感に気付きながらも、直接それを結奈に問い詰めることはなかった。結婚すると決めたのだからお互いに見えなかった部分が見えるようになる。その程度のことが許容できないような情けない男にはなりたくないという、ある種の矜持があったのかもしれない。

 それに結奈の性格を考えれば違和感を払拭しようと躍起になることは目に見えていた。曲がったことが大嫌いで意志の強い結奈は、湿っぽい俺にとっては良きパートナーであり信仰の対象でもあった。それは当然、俺をくそったれな環境から救ってくれた恩人だからでもある。

 結奈に限って。そんな盲信が無かったといえば嘘になる。

 それから一ヶ月ほど経ったある日、俺達は趣味のハイキングに出掛けた。場所は関東の山間にある国立公園。仕事が忙しくなったせいで、三人で集まるのは結奈との婚約を茅部に報告して以来だった。

 ただ、この日の結奈の様子は朝からぎこちなかった。時折ぼーっと一点を見つめる。そしてその先には茅部がいる。茅部の方はいつもどおりちゃらんぽらんに振る舞っている。

「結奈、大丈夫か?」

 爽やかな風の通る山道を歩きながら、我慢できずに結奈に尋ねた。

「……え? どうしたの急に」

「いや、具合悪そうだなって」

「そうかな。わたしは全然問題ないんだけど」

「ならいいんだが……」

 普段の結奈は自分の体調が悪ければちゃんと言う。結奈が問題ないならそれでいいと、口まで出かかった言葉を飲み込む。

「なになに? もしかして元気無い感じ?」

「大丈夫だって。逆に茅部くんは元気いっぱいって感じ」

「僕はもう超々元気よ。なんてったって……あれ?」

 突然、茅部は自分の体を触り出して、

「……忘れた」

「忘れたって何を?」

「ナイフ‼︎ サバイバルナイフ忘れた‼︎ すげーいいやつ買ったのに‼︎」

 頭を抱えて山道の真ん中で膝をつく茅部。地面は整備されてない剥き出しの状態なのに、そんなことはお構いなしだ。

「家に忘れてきたんだろ。と言うかそんな物騒なもん持っていたのか」

「いやリュックに入れたんだって! うわ途中のコンビニでリュック開けた時に落ちたのかな……ちょっと戻って探してくる!」

「あ、おい!」

「……行っちゃった」

 取り残された俺と結奈は顔を見合わせて、同じタイミングで肩をすくめた。

「無鉄砲なところは茅部くんらしいね」

「確かにな。スマホも繋がらないし、この辺りをぶらぶらするか」

 国立公園は場所によって電波が入ったり入らなかったりする。ちょうど俺達のいるところは圏外だった。走っていった茅部なら駐車場への往復でも一時間は超えないだろうと、俺達は山道を外れた森の中に入った。

 偶然ではあるものの、俺は結奈と二人で話す機会を得た。

「やっぱり楽しいね、こうやって二人で知らないところを歩くの」

 結奈は俺の前を軽やかな足取りで進んでいる。俺はその背中を追いながら、今日の結奈から受ける違和感の正体をもう一度問うべきか考えていた。

「あ、見て亮」

「うん?」

 結奈が前を指差しながら俺の方を振り返っている。考え事のせいでよく見ていなかった俺は、その先に広がる空間を見て目を瞠った。

 そこは木々の生い茂る森の中でぽっかりと空いた光の空間だった。そこだけがまるで聖域のように木が生えず、空から差し込む陽光が地面を照らしている。

 近付いていくと妙な匂いが鼻をついた。草花によくある甘ったるい香りではなく、少し鼻につくものが。それも木々の間を抜ける風がすぐにどこかへ流していく。

 光の空間の中央には花が咲いていた。黒く、花弁を下に向ける花。

「黒百合の花だよ。亮は見たことない?」

 結奈はしゃがんでその花を撮影し始める。

 その時、俺のリュックが振動した。

「?」

 電波の入る場所に来たのかとリュックを開く。案の定、振動していたのは俺のスマホだった。だが、スマホと一緒に入っていたものを見て驚いた。

 それはナイフだった。それも十徳ナイフのようなチャチなものではなく、キャンプなどで使う刃渡りの長いしっかりしたものだ。それが茅部の探し物であることは一目で分かった。

 コンビニの出入りの際に間違えたのか。電波が繋がっているなら茅部を呼び戻せるかもしれないとスマホを点けて。

 画面に映ったメッセージに、手が止まる。

『部長:お前の彼女、茅部とラブホ入ってったぞ笑』

『部長 が写真を送信しました』

『部長 が写真を送信しました』

『部長:ほれ証拠もバッチリ』

 写真のプレビューが画面に表示される。写真に写る二人の服装は一ヶ月前の、あの日と同じ。

 記憶を無くすほど飲んだ俺を結奈と茅部はタクシーに乗せて……その後は?

 ——ヤったんだろ。

 下卑た声が耳元で囁く。

 胸が苦しい。心臓の鼓動が不規則に感じる。足が震えて視界が歪む。スマホの画面の先、リュックの中で鈍い光が煌めく。

 ——ヤったんだろ。

 ——別れよう。

 違う、違うちがう。ただの悪質な冗談だ。部長が揶揄っているだけだ。

「どうしたの? そんな顔して」

 結奈がこっちを見ている。俺をクソみたいな人生から救ってくれた恩人だ。一番大切な人間を信じなくて誰を信じるんだ。

「いや、なんでもない……」

「そう? ならいいけど」

 スマホを見せて話を聞こう。それで全てが済む。もう情けない姿は見せないって決めたじゃないか。二人で部長の冗談を笑い合って、茅部と合流してハイキングを楽しんで、結婚して幸せになるんだ。大丈夫、大丈夫だよ。

「ゆ——」

 ——本当かな?

 ——結奈だけが違うなんて言い切れるのかな?

 ——結奈の性格なら黙ったままのはずがないよね?

 頭が痛い。なんだこの声? どこから響いているんだ?

 ——シラセはまた間違えるんだね。これまでも散々、隠し事をする女を相手にしてきたのに。

 ——シラセは正しくないね。結奈だって、所詮は高校生の頃にフラれた女と同じでしょ。

 止めろ、結奈はそんな人間じゃない。高校の時だってフラれたのは俺のせいだ。正しさなんて俺はもう求めていないんだ。

『嘘をつくな』

 は?

『自分を誤魔化すな。お前は何も悪いことをしちゃいない。正しさが必要無くたって、せめて祝福ぐらいはされてもいいはずだろ』

 俺の、声?

『なんでお前だけ幸せになっちゃいけないんだ? なんでお前だけこんな救われないんだ?』

 違う、ちが——

『お願い、亮。わたしを助けて。罪深い私達わたしを解放して』

 ゆ……ぅな……。

『結奈を救って俺も救われるんだ。二人で一緒にやり直そう。私達が力を貸してやるよ』

 なに、を……。

「ねえ亮、わたし本当はあやま——」

 ——裏切り者に裁きを。

「けふ」

 ——裏切られた者への救済を。

 ————

 ——

 体が、動かない。

 あぁ結奈、そんなところに寝てちゃダメじゃないか。

 あぁ茅部、何を笑っているんだ、何処へ行くんだ。

「あぁ……かみさま……」

 ——ようこそ、私達の世界へ。

 

 ***


 頭の痛みはすでに消えていた。

 代わりに俺の中には快い高揚感が渦巻いていた。それは腹に空いた穴からやってきた。

 今なら分かる。〝不死〟のリオがなぜ死んだのか。

 単に記憶に対する解釈の問題だ。情報院で見た記憶から俺達は二つの真実を見つけた。

〝不死〟の呪いを持つ人間は、カナタの外からやってくる。

〝不死〟の呪いを解くためには、自分を殺した人間をカナタで殺すしかない。

 しかし本当はもう一つあった。

〝不死〟の呪いを持つ人間は、自分を殺した人間に対しては〝不死〟ではない。

 つまり。

「結奈を殺したのは……俺だ。リオはやっぱり結奈の転生した姿だったんだ」

 いつの間にか地面に付けていた頭を上げて呟く。

 顔も声も背格好も同じ別人なんてものがいるはずがなかった。〝不死〟の三つ目の真実に従って俺はリオを殺した。

 そして。

「シズ、お前もか?」

 俺がこの世界に来てからずっと、そして光の門に足を踏み入れてからさらに強くなった、シズから受ける親近感。その正体を俺は口に出さず、元の世界まで持って行こうとした。

 不思議だった。リオが茅部と婚約していたことに対して感情的にならなかったことが。

 不思議だった。俺が最初に出会った人間がシズだったことが。

「……り、亮?」

 シズが俺の名前を口にする。『シラセさん』ではなく、俺の名前を。

「リオが死んで元の世界の記憶が戻ったんだ。違うか、結奈?」

「何を……、だってわたし……あれ?」

 シズは自分の顔を手で覆った。指の間から覗く両目は未だに激しく揺らめいている。

「ここは日本で……いえ、ここはカナタ? 私が、結奈? でも、そんな……」

 記憶に混乱が生じていることは明らかだった。別の人生が丸ごと入ってくるのだから、影響は相当なはずだ。

「ははっ、はははは」

 その姿を見てなぜか無性に愉快になったので、笑うことにした。

「はははははは、ははははははは」

 笑ったらもっと愉快になった。腹の底から気持ち良さがどんどん溢れてくる。酒、酒、女、酒、女。正しさ、うふふ。

「結奈さぁ」

 口が勝手に動き出す。

「なんで茅部とヤったの? 俺を裏切ったわけ?」

「え……?」

「マジで意味分かんねー。結奈も他の女と一緒じゃん。そんなに茅部のが良かった?」

「違う……わたしはそんな……」

「違うもクソもねーよ。あそっか、リオがこっちで茅部と付き合ってたんだっけ。あーあ、やっぱ女ってみんな同じだな。でも」

 まあいいか、もういいか。

「ひっ!?」

 じゃじゃじゃーん! ちゃんヒサのナイフの登場です。そういえば結局借りっぱなしだね。原理はちんぷんかんぷんだけど、どうやらシズは結奈みたいだし。

「俺ならお前の〝不死〟も発動しない」

 ——終わらせろ。

「ほら、終わらせろって誰か言ってるし」

「嫌……」

「結奈を殺して俺も死ぬ。うん、いいアイディアだと思う。あはっ、ははは。結局全部無意味だったんだよ」

 あははは、ひひひ。

「うふふふ」

 冷たいナイフの感触。鼻をつく甘ったるい香り。俺を見上げる結奈の顔は、いつもと同じように綺麗で。

「た……」

 ——終わらせろ。

 ——結奈、シズカ、リオルト。

 ——裏切り者に裁きを。

 頭に響く声に、俺は身を委ねるだけで。

 ——終わらせろ。

 俺の生きた、二つの世界の記憶が混ざり合い浮かんで。

「……けて」

 ——終わらせろ。終わらせろ。終われ、終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ。

「たすけて……シラセさん……!」

 振り上げたナイフは——


 ***


「——さん‼︎ シラセさん‼︎」

 薄れゆく意識の中で、空を見上げながら安堵していた。

 どうやらちゃんと〝不死〟は発動しなかったらしい。痛みこそ無いものの、首と腹の傷は間違いなく致命傷だ。

 元の世界で俺を殺したのは俺だった。つまりこの世界で俺を殺せるのは俺だけだった。

 先ほどの気持ち悪い高揚感は消えていた。あの声の主、終わらせろと何度も喚いていたのはこの世界の神ってやつなのかもしれない。そう思うとなんだか胸がスカッとした。

 ざまあみろ、俺達は元から神に嫌われたパーティなんだよ。

「お願い……死なないで……」

 さっきからシズの泣き腫らした顔が視界に入ってくる。

 シズはシズだ。結奈の記憶があろうとも、この世界を生きてきたのは紛れもないシズ自身。シズが俺の名前を呼んでくれたから、最後にそれを気付くことができた。

 俺が死ぬことでシズの〝不死〟は解けるはずだ。

 最初からこれは俺と結奈の問題だったんだ。それにシズを巻き込んでしまい、そしてリオを死なせてしまった以上、その落とし前をつける必要がある。

「……せめて……光帰を……」

 光が俺とシズを包み込むのが分かる。でも、それをさせるわけにはいかない。

「リリエ——」

 最後の力を振り絞り、シズの肩を引き寄せてその口を塞ぐ。

 口の中が二人の血の味で溢れた頃に。

 意識が、光に消える。

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