メモリリウム・リインカーネーション
高橋玲
1. 女ってのはいつもこうだ
甘ったるい香りが鼻をついた。
「……あ?」
口から漏れた素っ頓狂な声は、どこからか聞こえてくる鳥のさえずりや、風に揺れる木々のざわめきにかき消された。
鳥に、森?
俺は確か、一人でベッドに寝転んでいたはずだ。照明を消して、ぼーっと天井を見上げて……。
まるで動画のように急激な場面転換。俺の格好は寝巻きからハイキングウェアに衣装チェンジし、周囲には背の高い樹木が林立し、降り注ぐ陽光は夜から昼に変わったことを示唆する。
その光を浴びていくつもの白い花が目の前で咲き乱れていた。最初に嗅いだ甘ったるい香りはこの花から漂ってくるらしい。
その白い花園に一人の女性がいることに、俺はようやく気付いた。
「あの」
逡巡もせずに声をかけると、女性はゆっくりと立ち上がってこちらを振り向く。
「あら、どちら様ですか?」
その女性は見ず知らずの俺になんの警戒心も持たずに笑顔で応えた。優しそうな目とその美しい焦茶色の瞳に惹かれて、自分から話しかけたのに呆気に取られてしまう。
「どうされました?」
不思議そうな顔をして女性が俺に近付いてくる。その手に持った白い花が揺れて、頭の片隅がチリチリと焦げるような感覚に襲われる。
「あ……すみません。変なことを聞くようで申し訳ないんですが、ここってどこですかね?」
言い終わって後悔した。どこの世界に初対面の人間に自分の居場所を聞く馬鹿がいるのだ。
「……?」
言わんこっちゃない。女性は何も言わずに首を傾げてしまった。セミロングの髪から覗く首筋がやけに綺麗で様になっていた。
「いや違うんです。別に何も覚えていないってわけじゃなくて。さっきまで自分の部屋にいたはずなんですけど。あれ、もしかして、これって夢だったりします……?」
後悔は続く。夢かどうかを初対面の人間に聞いてどうする。
「夢かどうかは分かりません。試しにご自分のほっぺをつねってみてはいかがですか?」
女性から至極まっとうな提案をされて、俺は頬を軽く引っ張った。
「痛え」
頬からしっかりと痛覚を受け取る。念のため反対の頬もつねってみたが、同じように痛みが走っただけで目の前の光景は変わらない。
「夢じゃないのか……」
痛みの感じられる夢の可能性もあるが、それを証明する手立ては無い。
「夢遊病か? 確かに明日はハイキングの予定だったし、ウェアを着ているのは分かるんだが」
それにしたって、眠っている間に着替えて山に登れる器用な人間ではない。
「まあ、眠っている間に着替えられるなんて器用な方ですね」
夢じゃないとすれば、目の前で俺の独り言を拾ってくれるこの女性のことも分からなくなる。お人形のような顔立ちに、俺とさほど変わらない身長。白を基調として橙色の装飾を付けたワンピースは、本人には似合っていてもこの鬱蒼とした森には似つかわしくない。
「すみません、結局ここってどこなんでしょうか? えっと……」
「シズカです。シズカ・ウォル・ロフェル。申し遅れました」
シズカと名乗ったその女性は、俺に軽くお辞儀をして微笑んだ。
「ここはロフェルです。もうちょっと丁寧に言うのでしたら、カナタにあるロフェル村ですね」
何も言わずに、頬を今度は思い切りつねってみる。
「いでで」
やはり、目の前の光景は変わらない。
***
「落ち着け、とりあえず落ち着くんだ」
整理しなければならないことが多い。まずは現在地だ。シズカと名乗る女性はここをカナタのロフェル村と言った。カナタが『彼方』なのかはさておくとして、ロフェルという村名に聞き覚えは無い。少なくとも日本の地名ではないはずだ。
眠らされて海外に運ばれた? 考えられなくもないが結局は壁にぶち当たる。つまり、それをするだけのメリットが無い。
「あのー」
俺は大学を卒業して数年働いただけの平々凡々な社会人なので、誘拐しても金銭的な見返りは乏しいし、命を取るのであれば手が込みすぎている。
となると、残るはシズカという女性が嘘をついている可能性だ。考えてみればこれが一番現実的に思える。この空間には俺達二人しかおらず、俺には情報が足りていない。
……全く、女ってのはいつもこうだ。秘密と謎をちらつかせて男を誘惑するくせに本心では男に興味を持ってもらうのに必死で、結局脱いでしまえば……。
「違う」
またいらんことを考えてしまった。結奈に怒られる。もうそれはやめたはずじゃないか。
「大丈夫ですかー?」
考えても埒が明かない。まずは情報収集だ。
「もう大丈夫です。シズカさん、もうちょっと色々お聞きしてもいいですか? どうにも記憶が曖昧なもので」
「それはかわいそうに。そういえばお名前は……」
「
「でしたら私のことも、シズとお呼びください」
初対面の相手に愛称で呼べとはなかなか距離感を縮めるのが早い。俺に対する警戒心も感じられないし、世間知らずのお嬢様なのか、はたまた単に人好きなタイプか。俺はうっすらと蘇る大学時代の記憶を掻き消して、
「分かりました。でしたらシズさん、まず教えて欲しいんですが——」
「待ってください。立ち話もなんですし、良かったら私の家に来ませんか?」
「あ、いやそこまでご迷惑をおかけするつもりは……」
「いいんです。私も少し興味がありますから。さあ、行きましょう」
俺の話も聞かずにシズさんは白い花をもう二、三本摘んでから森の先へと歩きだした。
「あ、ちょっと」
置いていかれないように俺もその後を追いかける。半ば無理やり連れて行かれることに少し不満があるものの、右も左も分からない場所で置き去りにされるよりはマシだ。
「この森、すごいですね。こんなに鬱蒼としているなんて」
「この辺りは魔力が濃いんですよ。だから植物の成長も早いですし、動物もたくさんいます。私達はこの森を神域と呼んでいます」
「なるほど」
全然分からん。神域って何だ? 魔力ってのはゲームに出てくるあれか?
「魔力はご存知ですか?」
そんな俺の疑問を見透かしたのか、シズさんは振り返って聞いてきた。
「あ、いや……」
「やっぱり。シラセさんは迷人なんですね」
新しい単語の登場に首を傾げる俺をよそに、シズさんはそのまま森を進む。そろそろ正面切って問い糺そうかと考えていると、道の先にある大木を曲がったところで目の前がぱっと明るくなる。そして、俺は眼前に広がる光景に思わず目を瞠った。
「すげえ……!」
見渡すかぎりの雄大な大地。送電鉄塔も、アスファルトの道路も無い。麓に見える家々は周囲の自然と調和していて、ガラスとコンクリートの無機質なビルなんて全く存在しなかった。
驚く俺にシズさんはまるでツアーガイドのように微笑む。
「シラセさん。ようこそ、私達の世界へ」
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