2. とりあえず落ち着け
「シズさんはなんで森の中にいたんですか?」
森を抜けた山道を下りながら、俺はシズさんに話しかけた。
「この花を摘むためですよ」
シズさんは先ほど摘んでいた花束を俺に見せてきた。透き通るように真っ白な花弁からは、ほのかに甘い香りが漂っている。
「花?」
「はい。この花はリリアといって、神様に捧げる大切な供物なんです。ただ残念ながら魔力の集まる場所でしか育たず、私達の村ではその場所が先ほどの神域なんですよ」
また『魔力』か。それについては後でちゃんと聞くとして、
「じゃあ、シズさんはその花を摘むために神域に出入りできる立場の方、という認識で合ってますかね?」
「その通りです。よくお分かりですね」
拍手の代わりにシズさんは花束をひらひらを振る。村の名前と彼女が名乗ったロフェルという性。これでシズさんの立場はだいたい察しがついた。
村は中心に広場があり、それを取り囲むようにして十ほどの建物が軒を連ねていた。どれも基本的には木造で、テラスが設けられていたり長屋のような造りをしていたりと個性的なものが多い。別な方角に続く道を見ればこぢんまりとした民家が点在している。
広場に歩いていくと、近くで遊んでいた子ども達がシズさんのもとに集まってきた。すぐに引っ張りだこになったシズさんから花束を預かって、遠巻きにその様子を眺める。広場にいるのは子ども達だけのようだが、鉄を叩く音が聞こえたり建物から白い煙が出ていたりするので、大人は中で仕事をしているのかもしれない。
「やっぱり日本じゃないよな……」
街並みを見渡して呟く。電信柱も標識もないし、そもそも家の造りが違う。それにシズさんと話している子ども達もどこか日本人離れした顔立ちだ。共通しているのは洋服だけだが、量産型のパリッとしたものではなくハンドメイドのように思える
何かの企画に巻き込まれたのか?
あれこれ考えているうちにシズさんが子ども達の相手を終えて戻ってくる。
「元気なちびっ子ですね」
「村の子たちです。まだ小さいので昼はああしてみんなで遊んでいるんですよ」
「学校は無いんですか?」
「ええ、今は教会で神父様に教えてもらっています。もう少し村が大きくなったら学校も建てられるんですが……」
教会は日本にもある。でも学校を建てるのは役所の仕事のはずだ。
「それに、私も時々お手伝いしているんですよ」
「道理で好かれているわけだ」
「シラセさんもすぐに仲良くなれますよ。さあ、行きましょう」
シズさんの屈託のない笑顔を見て不意に結奈が笑う姿を思い出した。昨日の夜に電話してからまだ一日も経っていないはずなのに、無性に寂しさがこみ上げてくる。ポケットにはスマホはおろか家の鍵すら入っていなかった。ここまで記憶が頼りにならないのは初めてだ。
シズさんの家は近くで見ると殊更に大きかった。
厳かな雰囲気の正面玄関と、そこから広がるように上下二列で並ぶ窓。それだけ部屋の数もあるということだ。随分前に旅行先で見た美術館をリノベーションした洋館に近い。シズさんはそんなところに「帰りましたよー」と言いながら気軽に入っていく。
正面玄関をくぐると給仕服を着た女性が姿勢を正して待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マリィ」
恭しく出迎えたマリィという女性はシズさんから花束を受け取り、
「たくさん摘まれましたね。教会に届けておきますか?」
「後で私が持っていくから大丈夫。手入れだけしてもらえるかしら」
「かしこまりました。ところで、そちらの方は……」
俺に向ける視線には警戒の色が含まれている。
「シラセさんよ。詳しいことは後で話すから、今は私の友人ということにしておいて頂戴」
「……分かりました」
「そんなに怖い顔しないの。安心して、変な人じゃないから……たぶん」
シズさんの最後の一言でマリィさんの俺に対する評価が定まってしまった気がする。それでも彼女はため息一つつかず、
「念のため警戒は張っておきます。お嬢様も光護は切らさないよう」
「もう、心配性なんだから。それと手入れの前に紅茶も淹れてもらえる?」
「承知しました」
マリィさんは一礼すると踵を返して廊下の奥へと消えてった。
「しっかりした方ですね」
「もう少し物腰を柔らかくしてくれるといいのに……。でも笑うと可愛いんですよ」
その可愛い笑顔を俺に見せてくれる可能性は無さそうだ。
二階に上がり、シズさんの部屋に入るとまた驚いた。二十畳はあろう広さにいくつも置かれた重厚な木製の家具。床に敷かれた色鮮やかな絨毯。壁に備え付けられているのはマントルピースだろうか。その下の暖炉はよくある飾り物ではなく、炭や火かき棒などが使われた形跡がある。反対の壁は一面が大きな本棚で、何冊もの本が無造作に並べられていた。
その中でも気になるのは、いたるところ無造作に置かれた用途不明の物体だ。インテリアにも見えるが、埃を被っているものも多く手入れがされているとは思えない。
中央にあるソファに腰掛けると、シズさんもワンピースを整えて向かい合うように座った。
「……すごいお家ですね」
部屋を眺めながら呟くと、シズさんは微笑みながら、
「そう言ってもらえると嬉しいです。この家はお祖父様の代に建てられたもので、今はお父様とお母様、私とマリィの四人で暮らしています。昔はもう少し賑やかだったそうですが……」
「シズさんのご家系は、やはりこの村の長という立場なんですか?」
「長というと少し語弊がありますね。私の家は王都に住む領主様に代わって村を管理しているだけです。それに管理と言っても形式的なもので、もっぱら村の方々の便利役なんですけどね。子ども達に勉強を教えたりとか」
「村の警備とか?」
「そうですね。今は魔物も少ないので大丈夫ですが、数が増えれば戦うこともあります」
今度は魔物か。随分と話が物騒になってきたぞ。
少しの間を置いたところで、マリィさんが紅茶を淹れにやってきた。まだ警戒心むき出しのマリィさんに冷や汗をかきながらも、その紅茶の美味しさに息をつく。シズさんもカップに口をつけて「おいしい~」と相好を崩していた。
リリアの手入れがありますからと退室するマリィさんを見送り、ゆったりとしたティータイムを楽しんでいたのも束の間、
「さて、そろそろ本題に入りましょう」
柔らかな微笑みを浮かべたシズさんが、その透き通った瞳で俺を見つめながら言った。
「シラセさん、あなたはもしかして別の世界から来たのではありませんか?」
単刀直入な言い方に少しだけ面食らったものの、シズさんの方から振ってもらえるのはありがたい。
「別の世界というのが何処なのかは分かりません。ただ、少なくともシズさんの仰った『カナタ』では無いと思います」
「やっぱり……」
「念のため確認させてください。シズさんは地球や日本、アメリカという単語に聞き覚えはありますか? キリスト、イスラム、仏陀などは?」
「ごめんなさい、初めて聞くものばかりです。それはシラセさんの世界では一般的なものなんですか?」
「まあ、生きていれば一度は耳にすると思います」
この分だと別な単語を並べても同じだろう。気になるのは俺がシズさんやマリィさん達と普通に会話できることだ。言葉が自動で翻訳されている? 固有名詞が通じないだけか?
「あのー?」
「ああ、すみません。まだ全然実感が沸かなくて……。シズさんはどうして俺が別の世界から来たって分かったんですか? ひょっとすると俺のような人間は珍しくないとか?」
「そんなことはありませんよ。私もお会いするのは初めてです」
シズさんはそう言って本棚を眺める。
「いくつかの本に、このカナタとは違う世界からやって来た人間の話が出てくるんです。何処からともなく突然現れる彼らのことを私達はこう呼んでいます……『
「迷人、ですか」
「彼らが現れるのは決まって魔力の強い場所だそうです。シラセさんとお会いしたのは神域ですし、もしかしたらと思って」
「それで最初に俺のことを迷人と呼んだんですね」
現象としては神隠しに近いか、人の手によるものなら拉致とも言える。それよりも気になるのはシズさんの口から再び出てきた単語だ。
「そろそろ教えてもらえませんか。その『魔力』というものについて」
シズさんはきょとんとしたかと思うと、すぐに納得したように「ああ!」と手を合わせた。
「すっかり忘れていました。魔力というのは、神様により私達に与えられた力のことです」
そう言って、シズさんはおもむろに暖炉へ手をかざした。
「お見せした方が早いですよね——ケリト・エ・フエルテ」
シズさんが呪文のようなものを口にした途端、赤い光が彼女の掌から放たれて暖炉に向かった。それは暖炉に残っていた燃え殻に触れたかと思うと、大きな音を立てて炎に変化した。
「なっ!?」
「こんなふうに魔力を行使することができます。今のは焔術と呼ばれるものですね。ちょっと暑くなってきましたし、そろそろ消しましょう——ケリト・ウォル・アークル」
今度は青い光が暖炉へと向かい、炎の真上で弾けると同時に水飛沫が降り注ぐ。
「……マジですか」
「これが水術です。なんとなくご理解いただけたでしょうか」
炎が鎮まる音を聞きながら、俺は目の前の現象について考えていた。手品や科学で説明がつくかどうか、火を熾して水を降らせることはできるか。結論を言えば門外漢なのでさっぱりだ。
シズさんはこの現象のことを『術』と言った。魔力と術。子どもの頃に漫画やゲームで何度も見聞きした概念だ。到底信じられるものではないが、現に目の前で起こっている。
「これ以外にもまだ術はありますが、今はここまでにしておきます。そろそろマリィもリリアの手入れを終える頃でしょうし」
シズさんの読みどおり、一階まで下りたところで花束を手にしたマリィさんと遭遇した。マリィさんに紅茶の礼を言うと「お嬢様のご依頼ですので」とそっけなく返された。確かにこれならシズが困るのも無理はない。
マリィさんから花束を受け取り、シズさんに付き従って家を後にする。教会は広場を挟んで反対に位置していた。他の家屋とは違う尖った屋根と正面に備え付けられた丸い窓が目を引く。
足を踏み入れると、教会の中は静謐な空気が漂っていた。音が反響しないのは天井が高いからだと思うが、それ以上に何か胸元が押さえつけられる感覚を味わう。
「教会には神聖属性の魔力が満ちています。人々の信仰がそのまま魔力に影響するので、初めてのシラセさんにはちょっと息苦しいかもしれませんね」
「確かに……。魔力が満ちているということは、教会にも迷人が現れたりするんですか?」
「あら、鋭いですね。おっしゃるとおりと言いたいところですが、詳しくは分かっていないんです。産み捨てられた赤ん坊が迷人だという説はありますが……」
「記憶が無いので確認のしようがないと」
もう少し話を聞こうと思ったところで、奥の扉から紺色の祭服に身を包んだ男が現れた。
「神父さん!」
「おや、シズさん。これはこれは、リリアを届けにいらっしゃったんですね」
神父と呼ばれたその男に花束を渡すとシズさんは俺のことを紹介した。神域で出会ったこと、それに迷人かもしれないこと。
「私も最初はびっくりしたんですが、お話を聞いているとそうとしか思えなくて」
「なるほど。それはまた……」
シズさんから話を聞いて神父はしげしげと俺のことを眺める。
「あの、シズさん。そこまで話しても大丈夫なんですか?」
「神父さんなら大丈夫です。村の方達の相談にもよく応じられていますが、神父さんが誰かの秘密を漏らしたという話は聞いたことがありませんから」
「そうですか。それならいいんですが……」
本当のことを言えばよくないが、知られてしまったものは仕方がない。
「詳しく話をお聞きしたいところですが、せっかくリリアを届けてくださったのですし、すぐに神へお供えしましょう。お二人とも少しお待ちいただけますか?」
「ええ、もちろんです」
神父が教会の祭壇にリリアを捧げている間、俺はシズさんと長椅子に腰掛けてその様子を眺めることした。祭壇は俺の知るキリスト教の教会のものと似ているが、十字架の代わりに見慣れないモニュメントが鎮座している。
「シズさん、あれはなんですかね? あの翼が広がったような形の」
俺は隣に座るシズさんに話しかけた。
「あれは翼ではなく手です。ほら、こういうふうに親指を重ねて作るんですよ」
シズさんは両手を広げて親指をくっつけた。俺もそれに倣って自分の手を開いてみる。
「それは神が我々を祝福する姿を表しているのです」
リリアを捧げ終わったようで、気付けば神父が目の前に立っていた。
「神の象徴はこれだけではありません。手の後ろに見える円環も、同じように神による創世の思想を表しています」
「思想ですか?」
「そうです。神はこの世界を創造する際に、全てのものが循環することを望みました。我々人間や動物や植物、大地、水、果ては魔力に至るまで、等しく循環すべきだと考えられたのです」
神父はそこで一拍置き、にっこりと微笑んだ。
「難しい事は何もありません。花は枯れても種からまた新しい芽が吹きますし、水は乾いても雨となってこの大地に降り注ぎます。人間も、姿は違うかもしれませんが死んでもまた新しい生命となってこの世界に戻ってくる。この『祝福』と『循環』という思想こそが我々が信じる神教の二つの教えです」
神父の説明でなんとなくこの世界の宗教が理解できた。祝福については置いておくとしても、循環の話は俺のいる世界でも耳にしたことがある。たしか仏教あたりが同じような考え方をしていたはずだ。いや、あれは禅宗だったか?
「ありがとうございます。やっぱり神父さんにご説明いただくのが一番ですね」
「とんでもない。シズさんだって神の教えをよく勉強されているじゃないですか」
「私は色々なものに好奇心があるだけですので」
謙遜し合う二人を見ながらもう少し考える。話を聞く限りこの世界においても宗教は重要な位置を占めているようだ。俺の世界でも思考や生活の根底には宗教が根強く残っている。ただ、宗教観の違いが争いの元になることもあるわけだが。
「そういえば、カナタには他にも宗教はあったりするんですか?」
何気なく俺が口にした質問に神父の顔つきが真剣になった。
「シラセさん、そのようなことを口にするのはお止めください。神の教えは唯一無二であり、他の宗教というものは存在しないのです」
「は、はい。それは失礼しました」
敬虔な教徒に他宗教の話をするのはさすがにまずかったか。ただ、神父はすぐにまた笑みを浮かべる。
「シラセさんは迷人ですから仕方ありませんね。教会はいつでも開かれています。神の教えを詳しく学びたいのでしたら、是非またいらしてください」
礼拝を済ませて教会をあとにすると、もう日が沈みかけていた。
周囲の光景は橙色に染まり、空にはうっすらと星が輝いている。その感傷的な情景の中でシズさんが俺の方を振り返り、
「もういい時間ですね。帰ってごはんにしましょう」
「え? いやそんなご迷惑を……」
「迷惑なんかじゃないです。もっと話したいですし、それに今後のこともお父様やお母様に相談しなくてはいけません」
「今後のこと?」
「ええ。シラセさんを元の世界にお送りすることです。どこかに行かれる当ても無いのでしょう? 私でよければお手伝いしますよ」
「そんな、シズさんに手伝っていただくなんて」
怪しすぎる。たった数時間前に出会った人間のためにそんな面倒な手伝いをするか?
「いいんです。困っている方を助けるのが領人の役目ですから。それになんだか、シラセさんのことは放っておけない気がして」
俺を見るシズさんの目は使命感に溢れているようにも、かわいそうな人間を憐れんでいるようにも感じられた。憐憫の感情を持たれるほど落ちぶれちゃいないはずだが、シズさんの言うとおり行く当てが無いのは確かだ。
「……分かりました。すみません、何から何まで手伝ってもらって」
「シラセさんが謝ることなんてありません。そうと決まったら、早く帰ってお父様達に話しましょう」
***
結論から言えば、シズさんの相談はほとんど受け入れられた。
彼女の両親はこの村を管理する立場にふさわしい威厳に満ちていたが、偏屈さや傲慢さは微塵も感じられず、娘の話を丁寧に聞いていた。
俺も自分の境遇について説明した。迷人としてこの世界に突然やって来たこと、シズさんに助けてもらったこと。それに元の世界に婚約者がいることも話した。一刻も早く帰りたいという動機付けにもなるし、大事な娘さんに深く関わらないことをアピールする意味もあった。
俺が迷人であると明かすと両親は娘を心配そうに見つめた。シズさんの方は俺に婚約者がいることに少し驚いていたが、手伝いたいという意思は変わらなかった。むしろ驚いたのはシズさんが一緒に旅に出ると言い出したことだ。
「まずは元の世界に戻る方法を調べる必要があります。王都の情報院なら何か分かるかもしれません。私から領主様にかけ合ってみます」
当然ながらこの提案にはシズさんの両親も難色を示した。娘を素性の知れない迷人と旅させるのもそうだし、村の外には危険も多く魔術を使えるシズさんだけでは心許ないという。
それについては俺も自分事ながら同感だった。魔物というものを見たことは無いが、おそらく俺が敵う相手ではないだろう。最悪、道端に出た瞬間に喰われかねない。
だがシズさんは自分の考えを曲げなかった。そして両親はシズさんのまっすぐな視線から意志を感じ取ったのか、最後には首を縦に振った。
ただ、旅立ちには条件が出された。まずは三ヶ月後に遠征から戻ってくるシズさんの兄を待つこと。そしてその間に俺がこの世界のことを知り、生きる術を身につけること。早い話が勉強して体を鍛えろということだ。寝食についても融通してくれるらしい。。もちろんこちらも旅立ちの日まで家事手伝いをする条件付きで。
夕食が終わると、シズさんとマリィさんに連れられて一階の端にある小さな部屋に案内された。そこは元々男性の使用人部屋で今は使っていないという。少し埃は溜まっていたが、雨風を凌げるだけで十分だった。
「じゃあ、明日から頑張りましょう」
シズさんはそう言って自分の部屋に戻り、図らずもマリィさんと二人きりの格好となる。
「突然押しかけてしまって恐縮です。マリィさん、明日からよろしくお願いします」
「……」
マリィさんはしばらく俺のことをじっと見つめていたが、
「旦那様が決めたことなので私からとやかく言うつもりはありません。明日からしっかり働いてもらいますので、そのつもりで」
そう言って踵を返し、広間の方に歩いていった。
一人になったので、埃を払ってそのままベッドに体を投げ出す。少し硬いがそれでも体を休めることができるのはありがたい。
「……出来過ぎだ」
天井を眺めながらぽつりと呟く。
拭いきれない違和感。突然知らない目覚めたかと思えば、これまた突然遭遇した美人が俺を助けれくれることになって、おまけに住む場所と食べる物も提供してくれるという。
「とりあえず落ち着け」
今日出会った人間になにか不審なところはなかったか。どこかでカメラが回っていなかったか。やっぱり夢だったりしないか。魔術に魔力、それに魔物。まるでファンタジー漫画のようだ。教会で聞いた神の話は? 祝福と循環? 領人? 迷人?
「……わっかんねー」
もういいや、寝よう。起きたら全部解決しているかもしれん。明日の俺に期待しよう。
しまった、結奈に連絡を取っていない。今日はハイキングに行くはずだったのに。絶対怒ってるよな。結奈、ごめんな……また明日連絡を…………。
***
それからの三ヶ月はあっという間だった。
起きたら全てが解決していたなんて都合の良いことは無かったので、俺は約束どおりマリィさんに付き従って家の手伝いと旅立ちまでの準備を進めることになった。
朝から昼にかけて掃除や洗濯などの家事を行い、昼食後はシズ——同い年だったのでさん付けはやめた——の父親も参加して家の改修作業を進める。それが夕方まで続き、その後はトレーニングと座学に励むという流れだった。
ただ意外にも家事の負担が大きかった。この世界には洗濯機や掃除機のような家電製品が存在しないので、全て手作業で行う必要がある。昔見た映画に魔法で家事をする場面があったことを思い出したので、マリィさんに魔術でなんとかならないかと聞いてみたところ、
「魔術をそのような目的で使ってわけがないでしょう。それに私が使えるのは闇術だけです」
とそっけなく返された。
その後の座学で知ったのだが、魔術は一定以上の魔力を保有する人間だけが行使することができ、その種類も生まれた時に決まっているという。
魔力には光・闇・神聖の三属性が存在する。それを魔術として発出するわけだが、光の魔力はさらに焔・水・風・晶の魔術に変化させることができる。大抵の人間が持つのは光の魔力で、神聖は聖職者の家系に限られ、闇はさらに少ない。
魔術以外で面白かったのは教会でも聞いた『祝福』という概念だ。
祝福は生まれた時から備わっているもので、簡単に言えば才能のようなものだ。走る速さや手先の器用さのように身体的なものが一般的だが、稀に固有名を持つ特別な祝福もあるらしい。
「私も何度か特別な祝福を持つ方とお会いしたことはありますが、その力は驚くべきものでした。それに、過去には空間転移や時間遡行という祝福も存在したとか」
ワープやタイムリープが起こりうる世界と、それを可能にする祝福。俄には信じ難い話だが、魔術の存在を目の当たりにした以上そんなものがあっても不思議ではないと思えてしまう。
当然ながら他所の世界から来た俺には特別どころか一般的な祝福も無く、それだけでも大きなハンデを背負うことになる。
特に戦闘においてその影響は顕著だった。この世界では筋力増強などの祝福を持つ人間が前線に立つようで、三ヶ月トレーニングしただけの俺ではまともに攻撃が通らない。そのため攻撃に関してはシズの魔術に頼り、俺の方は防御と拘束という役割に分かれることになった。
正直な話、シズに魔物との戦いを頼らざるを得ないのは不本意だった。衣食住の世話になり旅に付き合ってもらい、その上で戦闘まで任せなくてはならないとは情けない。
もやもやした気持ちを抱えながら三ヶ月が過ぎ、シズの兄が帰郷して、ついに出発の日が到来した。
見送りにはシズの家族とマリィさんに、この三ヶ月で仲良くなった村の人達が来てくれた。短い間だったが色々なことがあって、別れるとなると名残惜しくなる。
「シラセー、シズねーちゃんにへんなことすんなよなー」
「んなことしねえよ。お前ら元気でな。ちゃんと飯食えよ」
よく一緒に川で釣りをした子の頭をわしゃわしゃする。座学の方はたまに子ども達と一緒に教わることがあり、気持ちとしては同級生に近い。
「お父様、お母様、お兄様、それにマリィ。行ってきますね」
「気を付けるんだぞ。何かあったらすぐ戻ってきなさい」
シズさんの両親は心配そうにしながらも娘の旅立ちを晴れやかな目で見ていた。その姿に俺も深々と頭を下げる。
「三ヶ月お世話になりました。それに獣車まで貸していただいて……。本当に感謝しかありません。ありがとうございます」
「妹のことを頼んだよ。アイツォルク卿には僕の方から事情を伝えてある。ただ、くれぐれも無理はしないように」
そう言う恰幅のいい若い男は遠征から戻ってきたシズの兄で、獣車という馬に似た動物が引く車を貸してくれた張本人だ。
「特に最近は別の領地も物騒でね、村や街が魔物に襲われる事件も増えているんだ。とりわけ龍に襲われた街は酷かった。危ないと思ったらすぐに逃げてほしい」
俺が来た時と違って、魔物の存在はこのロフェル村でも厄介の種になり始めていた。実戦も兼ねてシズと一緒に討伐する機会は何度かあり、危険な目にも遭った。
身をもって魔物の危険性を体感した以上、シズの父親や兄が言うことは大袈裟ではない。ましてや街を破壊する龍などという存在には到底太刀打ちできないだろう。結奈を残したまま死ぬわけにはいかない。いざとなったらシズを置いてでも……。
駄目だ、何を考えているんだ俺は。
「お嬢様、お気を付けて。本当は私もご一緒できればよかったのですが」
悔しそうな表情をシズに向けているのはマリィさんだ。シズが旅に出ることを聞いたマリィさんは、自分も同伴すると強く願い出ていたらしい。
「マリィがいなかったら誰が家を守ってくれるの。私なら大丈夫だから、留守をお願いね」
「……分かりました。ですがくれぐれも魔物にはご注意を。最悪シラセを置いて逃げて下さい」
俺と同じことを考えているじゃないか。マリィさんも人が悪いな。
「あとはあまり夜更かししないことと、食事は必ず摂ることと……」
なんだか娘の心配をする母親のようだ。マリィさんにとってもシズと会えなくなって戸惑う気持ちは分かる。
別れの挨拶が終わり、出発の時が来る。手綱を引くと獣車はゆっくりと動き出した。
「行ってきまーす!」
シズは獣車に乗って、遠ざかるロフェル村の人達に向かって叫ぶ。村とそこに住む人達の姿はどんどんと小さくなり、やがて別れ道に差し掛かったところで見えなくなった。
「寂しくなるな。シズは大丈夫か?」
「平気です。王都で過ごしていた時期もありましたし。……それにこんなことを言っては失礼かもしれませんが、今はとっても楽しいんです」
「楽しい?」
「初めてなんです。こうやって旅をするの」
シズは爽風を受けて期待に満ちた顔をしており、その無邪気さに釣られて笑ってしまう。
考えることは沢山あるが、シズの言うとおりこの旅を楽むか。そう思ったところで、
——やっぱり楽しいね。こうやって二人で知らないところを歩くの。
唐突に、色褪せた光景がフラッシュバックした。森の中を歩く自分。木々の合間を通り抜ける風に揺れる結奈の綺麗な髪。
たぶん、結奈と行ったハイキングの記憶だろう。よく二人で色々な場所を旅したんだ。
……そうだよな。早く帰らないと怒るよな。
カナタに馴染みそうになっていた自分を引き締めるように、手綱を強く握った。
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