第2話 蜜の味、鉄の味
視界が、とろりと溶け落ちた。
久我の意識は、エリスという名の海に沈んでいた。
そこは、極彩色のノイズが渦巻く深層心理の回廊だ。
通常のダイブなら、整然としたデータの棚が見えるはずだった。だが、彼女の脳内は違った。
粘りつくような赤い霧。
どこからか響く、湿った衣擦れの音。
そして、鼻孔を突く甘いアルコールの匂いと――微かな鉄の臭い。
(……これは、昨夜の記憶か)
久我は、彼女の視覚を通して、過去を追体験していた。
高級ホテルのスイートルーム。
窓の外は激しい雨。
彼女の手には、クリスタルのグラスが握られている。指先が震えているのは、恐怖からではない。これから犯す罪への、抑えきれない高揚感からだ。
『……ねえ』
脳内に、エリスの心の声が響く。
それは久我の聴覚を直接撫で回すように、甘く、低い。
現実世界で、接続されたままの彼女の肉体が、ビクリと跳ねた。
久我の背中に回された彼女の腕が、強さを増す。爪がシャツ越しに食い込み、痛みと快楽の信号が同時に脳髄へ叩き込まれた。
「……くっ……」
久我は呻き声を漏らしながら、さらに深く潜った。
記憶の中のエリスは、ベッドに横たわる男を見下ろしていた。
男は深い眠りに落ちている。弛緩した顔。無防備な喉仏。
彼女は、その男の唇に指を這わせ、枕元にある「ある物」に手を伸ばした。
それは、小さなメモリーチップだ。
企業の機密か、あるいは汚職の証拠か。
彼女がそれを盗み出した瞬間、脳内を駆け巡ったのは、電流のような快楽だった。
背徳感。達成感。そして、追われる身となるスリル。
(……やめろ)
久我は警告しようとした。
だが、同調率はすでに危険域を超えていた。
エリスが感じた快感を、久我の脳が「自分のもの」として誤認し始める。
盗みの興奮が、性的な衝動へと変換され、脊髄を焼き尽くす。
「……んっ、……あっ……」
現実の診察台の上で、エリスが短い呼気を漏らした。
彼女は目を閉じたまま、熱に浮かされたように首を振り、濡れた髪が久我の顔に張り付く。
二人の呼吸が重なる。
心拍数が完全にリンクする。
久我は、自分が彼女を犯しているのか、それとも彼女の記憶に犯されているのか、判別がつかなくなっていた。
「……もっと。……奥まで」
エリスが夢うつつで囁く。
彼女は久我の思考(アクセス)を拒絶するどころか、自ら足を開くように、精神の最深部を曝け出してきた。
そこには、盗み出したデータの記憶と共に、もっとどす黒い感情が渦巻いている。
殺意。
あるいは、愛憎。
(深い……深すぎる)
これ以上は、帰れなくなる。
久我は本能的な危機感を覚え、強制切断のシークエンスに入った。
絡みつく粘液のような記憶の触手を、強引に引き剥がす。
バチッ。
脳裏でスパークが弾けた。
「はっ……!」
久我は、水面から顔を出した溺死体のように、大きく息を吸い込んだ。
現実の重量が戻ってくる。
薄暗い診察室。雨の音。
そして、目の前には、乱れたブラウスの胸元を露わにして、荒い息をつくエリスの姿。
彼女の瞳は潤み、頬は上気し、まるで事後のような艶を帯びていた。
うなじの接続端子からプラグを引き抜くと、銀色の糸のような唾液が、彼女の口元から零れ落ちた。
「……見た?」
エリスは、焦点の合わない目で久我を見上げ、妖艶に微笑んだ。
「私が盗んだもの。……そして、私が殺したかった男の顔」
久我は額の汗を拭い、渇ききった喉を鳴らした。
口の中には、まだ記憶の中で味わったシャンパンと、微かな血の味が残っている。
「ああ。……とびきり上等な、劇薬だ」
久我は震える手でタバコを取り出した。
指先の熱が、まだ冷めない。
この女の記憶(なか)には、一度味わったら逃れられない、致死性の毒が潜んでいる。
そして久我は、自分がすでにその毒に侵され始めていることを、自覚していた。
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