深夜喫茶「灯」
結城 智
プロローグ
第0話 灯がともる夜に
仙台の夜は、秋になると風が透き通る。勾当台公園の並木から落ちた葉が、アスファルトで小さく鳴った。
国分町の賑やかさとは少し離れ、大通りを一本曲がれば、人通りのない路地がある。
その奥に、深夜喫茶「灯(ともしび)」はひっそりと灯っている。
開店は二十二時、閉店は朝五時。
なんか、居酒屋っぽいよね。――でも違う。
うちは酒なしの喫茶店。ビールはないけどコーヒーはある。焼き鳥も唐揚げも出せないけど、サンドイッチとナポリタンは出る。胃にやさしい路線だ。
酒がないぶん、タチの悪い酔っぱらいはほぼ来ない。たまにいるのは、酔いを冷ましに寄るサラリーマン。水とコーヒーを交互に流し込み、何も言わずに帰る。あれはあれで、正しい使い方。
客層は、大学生と二十代の新社会人が多い。
夜に用事がある人。夜しか落ち着けない人。夜のほうが正直になれる人。そういう人たちが、看板の灯りを見つけて入ってくる。
僕の名前は篝 灯(かがり あかり)。
え、“あかり”って女の子? うん、それよく言われる。残念だけど男だよ。昔はちょっと嫌だったけど、今はわりと気に入ってる。夜に似合う名前だし。
夜にだけ開く喫茶店のマスター。だいたい、それで足りる。
ここは人生相談所じゃない。でも、座る椅子くらいなら用意できる。
儲かる必要はない。生活できればそれでいい。
それより、誰かの夜が少しでも楽になれば、十分だ。
カラン、とベルが鳴る。
ベージュのカーディガンがふわりと揺れて、彼女が入ってきた。
頬まで届くショートボブに、書類の入った薄い鞄。
「こんばんは」
常連客がひとり。
彼女の名前は星野琴音(ほしの ことね)。編集者の仕事をしていて、歳は自分より四つ下——たしか二十四歳だったはずだ。
「いらっしゃい」
「灯さん、コーヒー。アイスは嫌だよ、温かいのね」
笑った口元が、ほんのり柔らかくなる。派手さはないけれど、清潔感があって、どこか親しみやすい。
仕事帰りなのだろう。少し疲れた顔をしているのに、笑うと空気がやわらぐ。話しかけやすい人って、きっとこういう人のことを言うんだと思う。
彼女はいつもの席、カウンターの端に腰を下ろす。
……といっても、うちの店にテーブル席なんてものはない。
コの字型のカウンターがひとつ。定員、九人。ぎゅうぎゅうに詰めても、それが限界だ。
小さい店だけど、静かに話したい人にはちょうどいい——そんな場所。
豆を挽く音が、静かな店内に小さく響く。ミルを回すたび、香ばしい匂いが広がった。粉をフィルターに移し、中央を軽くくぼませる。細く湯を落とすと、粉がふわりと膨らむ。
二十秒ほど蒸らしてから、もう一度湯を注ぐ。
ゆっくり、円を描くように——その音だけが、夜の空気をやわらかく揺らしていた。
「はい、お待たせ」
カップを差し出すと、彼女は両手で包み込むように受け取る。立ち上る湯気が、ふたりのあいだに静かに広がった。
「……生き返る」
一口飲んだ彼女は、まるで家に帰ってきたみたいに、ほっとした表情を浮かべた。
「仕事、大変そうだね」
「うん……まあね」
カップの縁を指でなぞりながら、琴音は小さく息を吐いた。
「若手なのに“企画出せ”って言われるし、現場回すだけでいっぱいいっぱい。締め切り追いかけてたら、いつの間にか日付変わってるしさ。それでも“最近の子は根性がない”とか言われるんだよ?」
「なるほど。大変だね、それも」
「でしょ? でも“頑張ります”って笑っとくしかないんだよね」
そう言って、琴音は天井を見上げて、ふっと笑う。
「……まあ、灯さんがもうちょっとやる気出してくれたら、私の苦労も減るんだけどね?」
「え、それ今の流れで言う?」
「言うよ? だって本音だもん」
参ったな。例の続き――頼まれて二カ月。さすがにそろそろ動かさないと、琴音に迷惑が飛んでしまう。
「わかった。そろそろ手を付けるよ」
「……へ? 手を付ける? なに、まだ進んでなかったの?」
「あっ」
やべ、口が滑った。
「信じられない! なにしてたの。のん気にコーヒー淹れてる場合じゃないでしょ!」
「いや、琴音ちゃん。こっちが本業だからね」
「なにが本業よ。今、お客さん、私しかいないじゃん!」
たしかに今日は空いてる。でも、まあまあ来る日もあるんだよ。たまに。ほんとに。
「そうだ。チーズケーキ作ったんだけど、食べる? 迷惑料とは言わないけど、サービスするからさ」
「私を餌付けするつもり!」
「え、じゃあ食べない?」
「食べるよ!」
即答。やっぱりね。
ぷんすかしてたのに、チーズケーキを出した途端、顔がぱっと明るくなる。
一口食べた瞬間、阿修羅から天使に転職。
……女子って、ほんと現金だな。でもまあ、その変わり身の早さに救われたりもする。
フォークを置いた琴音が、満足そうに息をつく。
「……負けた。これで続編の催促、三分だけ延期してあげる」
三分て、Wi-Fiの不調くらいの猶予なんだけど。
それから三十分ほど、他愛のない話をしていた。仕事の愚痴や新しいカフェの話、そしてどこまでもくだらない雑談。
琴音がカップを置いたちょうどそのとき、ベルが鳴った。ドアの向こうから、会社帰りらしいサラリーマンが二人、肩をすぼめて入ってくる。
「……おっと、お客さん来たね」
琴音はそう言って席を立つ。
「じゃあ、お客さん来たし。私はこのへんで」
「別に残っててもいいのに」
「ダメ。灯さんは仕事。私はお邪魔虫」
軽く笑って、鞄を肩にかける。
「じゃあ、灯さん。またね」
「うん。また」
手を振って出ていく後ろ姿が、ドアの向こうで街の灯りに溶けていった。
「マスター、コーヒー二つね」
入ってきたのは顔なじみのサラリーマン。いつものスーツ、いつもの疲れ顔。
「いつものでいい?」
「うん、濃いめでお願いね」
ドリップポットを手に取る。湯が落ちる音が、静かな夜にまた戻っていく。
カウンターの端の席だけが、まだ少し温かい。
夜は続く。
深夜喫茶「灯(ともしび)」
今日も、小さく灯っている。
人が帰ってくる場所は、それだけで価値がある。
そう思いながら、僕はまた、静かな夜にカップを一つ並べた。
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