三匹の獣鬼 💀桃太郎異譚🗡️

森崇寿乃

第1話 腐熟の果実(前)

 川は、うみのように濁っていた。

 かつては清流として村を潤していたその水も、今や上流から流れてくる腐敗物と、間引きされたものの怨念を孕んで、どろりとした重さを帯びている。水面には油膜が虹色に光り、夏の日差しを浴びて鼻をつく悪臭を放っていた。


 その川辺に、一人の女がいた。

 名は「シズ」という。村の男たちは彼女を「ばばあ」と呼ぶが、その実はまだ四十の坂を越えたばかりだ。ただ、過酷な労働と飢え、そして何より夫との愛のない生活が、彼女から瑞々しさを奪い去っていた。それでも、川の水で泥を落とすために捲り上げた着物の裾からは、白く肉付きの良い太腿が覗き、かつて村一番の小町と呼ばれた頃の名残をわずかに留めていた。

 シズには子がなかった。夫である「作蔵さくぞう」の種が薄いのか、あるいは彼女のはらが拒んだのか。子を産めぬ女として蔑まれ、作蔵からは毎晩のように罵声と暴力という名の種付けを強要される日々。彼女の心は、川底の泥のように冷え切っていた。


 その時だった。

 風向きが変わった。

 腐った泥と獣の死骸の臭いが支配していた大気に、突如として暴力的なまでの甘い香りが割り込んだのだ。それは熟れきった果実の芳香であり、同時に、発情した雌獣が放つ麝香じゃこうのようでもあった。

 シズは顔を上げた。

 川上から、何かが流れてくる。


 どんぶらこ、どんぶらこ。


 そんな呑気な音ではない。水面を押し広げ、質量を持った「肉」が迫ってくるような圧迫感があった。

 それは巨大な桃だった。

 大人が両腕を回しても抱えきれないほどの大きさ。皮は赤黒いほどに濃く色づき、表面には血管のような筋が浮き出ている。まるで生き物の臓器がそのまま流れてきたかのような、異様な光景だった。

 だが、シズの目には、それがこの世で最も美しい宝石に見えた。

 喉が鳴る。胃袋が痙攣する。

 食いたい。

 飢えではない。もっと根源的な、渇きにも似た衝動が彼女を突き動かした。

 シズは川に入った。汚水が腰まで浸かるのも構わず、彼女はその桃に抱きついた。

 温かい。

 桃は、人肌のような熱を帯びて脈打っていた。ドクン、ドクンと、彼女の胸の鼓動と共鳴するように震えている。

 シズは恍惚とした表情で、その巨大な果実を岸へと引き上げた。


 家へ持ち帰るまでの記憶は曖昧だ。重さを感じなかった。ただ、この甘美な塊を誰にも渡したくないという独占欲だけが、彼女の足を動かしていた。

 あばら家の薄暗い土間。

 シズは包丁を取り出した。錆びた刃先が、桃の表皮に触れる。

 刃を入れた瞬間だった。

 プシュウッ、と生温かい空気が漏れ出し、部屋中にむせ返るような芳香が充満した。

 切れ目から溢れ出したのは、果汁ではない。白濁した、粘り気のある液体だった。それは精液のようでもあり、羊水のようでもあった。

「あ……あぁ……」

 シズは腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。

 桃が、自ら裂けた。

 ぬちゃり、という湿った音と共に、左右に開いた果肉の中から、その「異物」は転がり落ちた。

 赤子ではない。

 長く濡れた黒髪。透き通るような白磁の肌。そして、切れ長の瞳。

 それは、十代半ばほどの少年の姿をしていた。

 全身が白濁液にまみれ、それが肌の上を滑り落ちていく様は、誕生というよりは、何か猥褻な儀式の後のようだった。

 少年はゆっくりと目を開けた。その瞳には、生まれたばかりの無垢さなど微塵もない。深淵のような闇と、他者を魅了する毒が渦巻いていた。

 少年はシズを見下ろした。

 そして、薄い唇を歪めて笑った。

「……腹が、減ったな」

 その声は鈴を転がすように美しく、シズの鼓膜を、そして子宮を直接震わせた。


          ◆


 その日を境に、作蔵とシズの家は、この世の地獄となり、同時に快楽の園となった。

 少年は「桃太郎」と名乗った。

 彼は働かなかった。言葉を発するのは、何かを命じる時だけだった。

 夫の作蔵は、初めこそこの居候を追い出そうとした。だが、桃太郎が一瞥をくれただけで、この粗野な男は金縛りにあったように震え上がり、失禁した。

 桃太郎の持つ「王の気質」――否、捕食者としてのオーラに、本能が屈服したのだ。

 作蔵は桃太郎の奴隷となった。

 朝から晩まで泥にまみれて働き、得た僅かな食料はすべて桃太郎に献上された。桃太郎が機嫌を損ねれば、作蔵は自ら土下座をし、殴ってくれと懇願した。桃太郎の拳が作蔵の顔面を砕き、歯が飛び散るたびに、作蔵は痛みの中に歪んだ安堵と喜びを見出すようになっていった。己のような下等な生物が、この美しき存在に触れてもらえる唯一の手段が「痛み」だったからだ。


 一方、シズの扱いは違っていた。

 桃太郎は、彼女を「母」とは呼ばなかった。

 夜、作蔵が土間で丸くなって眠る横で、桃太郎はシズの布団に入り込んだ。

「寒いだろう」

 そう囁いて、彼はシズの痩せた体を抱き寄せる。少年の体温は異常に高く、触れられた場所から火傷しそうなほどの熱が伝播する。

 シズは拒めなかった。いや、拒みたくなかった。

 枯れかけていた彼女の女としての性が、桃太郎のフェロモンによって無理やりこじ開けられ、再燃させられていたのだ。

 桃太郎の手が、シズの着物の合わせ目から侵入する。荒れた肌を、滑らかな指先が這う。

「お前の体は、熟れすぎた桃のようだ。腐る寸前の匂いがする」

 それは最大の侮蔑であり、シズにとっては最高の愛撫の言葉だった。

 桃太郎は行為には及ばない。ただ、弄ぶだけだ。ギリギリの寸止めで焦らし、シズが喘ぎ、懇願する様を、冷ややかな目で見下ろして楽しむ。

 シズは毎晩、息子の年齢ほどの少年に跨がり、泣きながら果てた。

 それは養育ではない。飼育だった。

 桃太郎にとって、この夫婦は最初の獲物であり、壊れるまで遊ぶための玩具に過ぎなかった。

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