三匹の獣鬼 💀桃太郎異譚🗡️
森崇寿乃
第1話 腐熟の果実(前)
川は、
かつては清流として村を潤していたその水も、今や上流から流れてくる腐敗物と、間引きされたものの怨念を孕んで、どろりとした重さを帯びている。水面には油膜が虹色に光り、夏の日差しを浴びて鼻をつく悪臭を放っていた。
その川辺に、一人の女がいた。
名は「シズ」という。村の男たちは彼女を「
シズには子がなかった。夫である「
その時だった。
風向きが変わった。
腐った泥と獣の死骸の臭いが支配していた大気に、突如として暴力的なまでの甘い香りが割り込んだのだ。それは熟れきった果実の芳香であり、同時に、発情した雌獣が放つ
シズは顔を上げた。
川上から、何かが流れてくる。
どんぶらこ、どんぶらこ。
そんな呑気な音ではない。水面を押し広げ、質量を持った「肉」が迫ってくるような圧迫感があった。
それは巨大な桃だった。
大人が両腕を回しても抱えきれないほどの大きさ。皮は赤黒いほどに濃く色づき、表面には血管のような筋が浮き出ている。まるで生き物の臓器がそのまま流れてきたかのような、異様な光景だった。
だが、シズの目には、それがこの世で最も美しい宝石に見えた。
喉が鳴る。胃袋が痙攣する。
食いたい。
飢えではない。もっと根源的な、渇きにも似た衝動が彼女を突き動かした。
シズは川に入った。汚水が腰まで浸かるのも構わず、彼女はその桃に抱きついた。
温かい。
桃は、人肌のような熱を帯びて脈打っていた。ドクン、ドクンと、彼女の胸の鼓動と共鳴するように震えている。
シズは恍惚とした表情で、その巨大な果実を岸へと引き上げた。
家へ持ち帰るまでの記憶は曖昧だ。重さを感じなかった。ただ、この甘美な塊を誰にも渡したくないという独占欲だけが、彼女の足を動かしていた。
あばら家の薄暗い土間。
シズは包丁を取り出した。錆びた刃先が、桃の表皮に触れる。
刃を入れた瞬間だった。
プシュウッ、と生温かい空気が漏れ出し、部屋中にむせ返るような芳香が充満した。
切れ目から溢れ出したのは、果汁ではない。白濁した、粘り気のある液体だった。それは精液のようでもあり、羊水のようでもあった。
「あ……あぁ……」
シズは腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。
桃が、自ら裂けた。
ぬちゃり、という湿った音と共に、左右に開いた果肉の中から、その「異物」は転がり落ちた。
赤子ではない。
長く濡れた黒髪。透き通るような白磁の肌。そして、切れ長の瞳。
それは、十代半ばほどの少年の姿をしていた。
全身が白濁液にまみれ、それが肌の上を滑り落ちていく様は、誕生というよりは、何か猥褻な儀式の後のようだった。
少年はゆっくりと目を開けた。その瞳には、生まれたばかりの無垢さなど微塵もない。深淵のような闇と、他者を魅了する毒が渦巻いていた。
少年はシズを見下ろした。
そして、薄い唇を歪めて笑った。
「……腹が、減ったな」
その声は鈴を転がすように美しく、シズの鼓膜を、そして子宮を直接震わせた。
◆
その日を境に、作蔵とシズの家は、この世の地獄となり、同時に快楽の園となった。
少年は「桃太郎」と名乗った。
彼は働かなかった。言葉を発するのは、何かを命じる時だけだった。
夫の作蔵は、初めこそこの居候を追い出そうとした。だが、桃太郎が一瞥をくれただけで、この粗野な男は金縛りにあったように震え上がり、失禁した。
桃太郎の持つ「王の気質」――否、捕食者としてのオーラに、本能が屈服したのだ。
作蔵は桃太郎の奴隷となった。
朝から晩まで泥にまみれて働き、得た僅かな食料はすべて桃太郎に献上された。桃太郎が機嫌を損ねれば、作蔵は自ら土下座をし、殴ってくれと懇願した。桃太郎の拳が作蔵の顔面を砕き、歯が飛び散るたびに、作蔵は痛みの中に歪んだ安堵と喜びを見出すようになっていった。己のような下等な生物が、この美しき存在に触れてもらえる唯一の手段が「痛み」だったからだ。
一方、シズの扱いは違っていた。
桃太郎は、彼女を「母」とは呼ばなかった。
夜、作蔵が土間で丸くなって眠る横で、桃太郎はシズの布団に入り込んだ。
「寒いだろう」
そう囁いて、彼はシズの痩せた体を抱き寄せる。少年の体温は異常に高く、触れられた場所から火傷しそうなほどの熱が伝播する。
シズは拒めなかった。いや、拒みたくなかった。
枯れかけていた彼女の女としての性が、桃太郎のフェロモンによって無理やりこじ開けられ、再燃させられていたのだ。
桃太郎の手が、シズの着物の合わせ目から侵入する。荒れた肌を、滑らかな指先が這う。
「お前の体は、熟れすぎた桃のようだ。腐る寸前の匂いがする」
それは最大の侮蔑であり、シズにとっては最高の愛撫の言葉だった。
桃太郎は行為には及ばない。ただ、弄ぶだけだ。ギリギリの寸止めで焦らし、シズが喘ぎ、懇願する様を、冷ややかな目で見下ろして楽しむ。
シズは毎晩、息子の年齢ほどの少年に跨がり、泣きながら果てた。
それは養育ではない。飼育だった。
桃太郎にとって、この夫婦は最初の獲物であり、壊れるまで遊ぶための玩具に過ぎなかった。
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