第2話 腐肉の果実(後)

 季節が巡り、夏が来た。

 破局の予兆は、生温かい風と共にやってきた。

 山から、地響きが聞こえる。鳥たちが一斉に飛び立ち、空が不吉な紫色に染まった。

「鬼だ……鬼が出たぞォ!」

 誰かの叫び声が、村の静寂を引き裂いた。

 鬼。

 それはこの国を支配する絶対的な暴力の象徴。身の丈は二メートルを超え、鋼の肉体と、人を喰らう牙を持つ異形。

 村の入り口から、黒い奔流となって鬼の群れが雪崩れ込んできた。

 家々が紙細工のように踏み潰される。逃げ惑う男たちの首が、指先一つでねじ切られる。鮮血が噴水のように舞い上がり、乾いた土を赤く染めた。

 女たちは髪を掴んで引きずり回され、その場で着物を剥ぎ取られた。

 悲鳴。絶叫。そして、下卑た哄笑。

 暴力の宴が始まった。


 桃太郎は、それを家の縁側に座って眺めていた。

 手には、以前通りかかった浪人から奪い取った――その浪人は、自らの刀を桃太郎に献上した後、恍惚のあまり自分の舌を噛み切って死んだ――大太刀「吉備津きびつ」がある。

 彼の瞳は、恐怖に揺れるどころか、濡れたような光を帯びていた。

 頬が紅潮し、呼吸が荒くなる。

「……素晴らしい」

 桃太郎は漏らした。

 目の前で繰り広げられる地獄絵図。圧倒的な強者が、弱者を蹂躙し、その尊厳を踏みにじる様。

 引き裂かれた肉の断面。飛び散る内臓の色彩。

 それらすべてが、桃太郎の美意識を激しく刺激した。

 義憤などない。彼が感じていたのは、猛烈な嫉妬と、そして性的な興奮だった。

 あちら側に立ちたい。

 奪われる側ではなく、奪う側に。犯される側ではなく、犯す側に。

 彼の股間が、ズクリと疼いた。


 一匹の鬼が、あばら家に近づいてきた。

 全身赤銅色の肌をした巨漢だ。手には血まみれの金棒を提げている。

 鬼は、庭先で震えている作蔵を見つけると、汚いものを蹴散らすように踏み潰した。

 グシャリ、という湿った音がして、作蔵の胸郭が陥没した。口から血の泡を吹き、作蔵は動かなくなった。最期まで、彼は桃太郎の方を見ようとしていた。

「へっ、脆い虫ケラだ」

 鬼は鼻を鳴らし、次に縁側の奥に隠れようとしていたシズに目をつけた。

「お、そこそこ楽しめそうな女がいるじゃねえか。ババアだが、肉付きは悪くねえ」

 鬼が長い舌で唇を舐め、巨大な手を伸ばした。

 シズは悲鳴を上げ、桃太郎の足元に縋り付いた。

「桃太郎……! 助けて……!」

 鬼の視線が、初めて桃太郎に向いた。

 その瞬間、鬼の動きが止まった。

「……なんだ、テメェは」

 鬼でさえも見惚れるほどの美貌。だが、そこから発せられる気配は、人間のものではなかった。

 鬼が警戒心を抱き、金棒を構えようとした、その刹那。


 銀色の三日月が閃いた。


 音は遅れてやってきた。

 ヒュン、という風切り音と共に、鬼の太い腕が肘から先で切断され、宙を舞った。

「あ?」

 鬼が自分の腕がないことに気づくより早く、桃太郎は縁側から飛び降りていた。

 裸足が血溜まりを踏む。

 その動きは舞いのように優雅で、そして雷のように速かった。

「痛いか?」

 桃太郎は鬼の懐に潜り込み、耳元で愛を囁くように問うた。

「俺はもっと、気持ち良くしてやれるぞ」

 逆袈裟に振り上げられた「吉備津」が、鬼の強靭な腹筋をバターのように切り裂いた。

 内臓がこぼれ落ちる。

 鬼が絶叫を上げようと口を開いた瞬間、桃太郎はその口の中に刃を突き入れた。

 後頭部まで貫通する一撃。

 ズブリ、という感触が、桃太郎の手首まで伝わる。

 鬼の巨体が崩れ落ちた。

 噴き出した大量の返り血が、桃太郎の白い肌を真っ赤に染め上げた。

 温かい。鉄の匂い。生命のエキス。

「あ、あぁ……ッ!」

 桃太郎は天を仰ぎ、法悦の声を上げた。

 体内で何かが弾けた。桃の魔力が血に反応し、全身の細胞が沸き立つ。

 これが殺すということか。これが命を奪う感触か。

 セックスなど比較にならないほどの快楽が、彼の脳髄を焼き尽くした。


 シズは、腰を抜かしたままその光景を見ていた。

 血まみれで立ち尽くす「息子」。その姿は、鬼よりも遥かに禍々しく、そして神々しいほどに美しかった。

 桃太郎はゆっくりと振り返った。

 その瞳は赤く充血し、口元には狂気じみた笑みが張り付いている。

 彼はシズに歩み寄った。

「母さん」

 初めて、彼がそう呼んだ。

「俺は行くよ。ここにはもう、壊すものがない」

 彼は足元の作蔵の死体を跨ぎ、シズの頬に血のついた指で触れた。

「鬼ヶ島へ行く。そこには、もっと上等な獲物がいるらしい。俺を満たしてくれる、極上の肉が」

 シズは何も言えなかった。ただ、恐怖と情欲で体が震えるだけだった。


 桃太郎は家に入り、床下の隠し場所から砂金袋を取り出した。シズたちが必死に貯めていた虎の子だ。それを腰にぶら下げる。

 そして、台所にあった瓶から、秘薬と自分の血を混ぜて作った黒い丸薬――彼が「きび団子」と呼ぶ毒物――を掴み取った。

 彼は一度も振り返ることなく、燃え盛る村の中へと歩き出した。

 背後で、生き残った村人たちの慟哭が響いている。だが、それは彼にとって心地よいBGMでしかなかった。

 乾いた風が、血の匂いを運んでいく。

 修羅の旅が始まった。

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