第30話 揺らぐゼロ
三回裏。
マウンドに立つと、さっきまでベンチから眺めていた景色が、少しだけ違って見えた。
(ここをきっちり抑えれば、まだ完全に五分だ)
相手の七番打者が右打席に入る。
体格は中肉中背。フォームも癖が少なく、教科書どおりという印象だった。
佐伯がサインを出す。
初球は外角高めのストレート。
腕を振り切ると、ボールはミットの少し上寄りに収まり――
「ストライク!」
審判の右手がすっと上がった。
(二球目)
外角低めへのスライダーのサイン。
敦はうなずき、指先に意識を集中させる。
打者はバットを止め切れず、ボールの上をかすめた。
カツンという音とともに、一塁線のファウルゾーンへ転がる。
「これで追い込んだ」
佐伯が、もう一度外角を要求する。
(三球目は、見せ球でもいい)
そう考えながら、敦は少しだけ高めにストレートを投げ込んだ。
打者は手を出さず、ボール。
カウント1-2。
四球目、外へ逃げるフォーク。
打者はバットを振りにいったが、ボールの上を空振りした。
「ストライク、バッターアウト!」
まず一人。
八番打者は左打ち。
カーブとストレートを交互に見せ、最後はスライダーで見逃し三振。
バッターボックスで少し首をかしげながらベンチへ戻っていく。
(ここまでは、だいぶ自分のペースだ)
九番打者は、一年生らしき細身の右打者。
初球のストレートに差し込まれてファウル、二球目のカーブを見逃してストライク。
追い込んでから、少し高めのストレートで空振りを奪った。
「スリーアウト!」
三回までを投げて、被安打はゼロ。
マウンドを降り、ベンチに戻る途中でスコアボードを見上げる。
自チーム 0 0 0
神戸成朋 0 0 0
(まだ、ゼロ対ゼロ)
数字だけ見れば互角だが、相手投手の球を見ていると、そう簡単には崩れないだろうという予感もあった。
*
四回表。
先頭打者は三番・佐伯だった。
相手投手は、ここに来て少し配球を変えてきた。
初球は外角低めのスライダー。
二球目は同じ軌道からストレート。
三球目には、わずかにタイミングを外すチェンジアップを混ぜてくる。
佐伯はカウント2-2からの外角スライダーを引っかけ、三塁ゴロ。
四番・大塚は、内角のストレートを打ち損じてセカンドゴロ。
あっという間にツーアウトとなり、敦の打席が回ってきた。
(前の打席は、引っかけてピッチャーゴロ)
バットを握り直しながら、敦は相手投手のフォームをもう一度確認する。
腕の振りは最後まで緩まない。
リリースポイントの位置が、ストレートとスライダーでほとんど変わらない。
(狙いを広げすぎたら、全部中途半端になる)
初球、外角寄りに構えたミットめがけてストレートが来た。
敦は見送る。
「ストライク!」
少しだけ高めだったが、無理に打ちにいく球ではない。
二球目、同じ外角寄りから、わずかに沈むボール。
スライダーともチェンジアップとも取れる軌道。
敦はギリギリでバットを止めた。
「ボール!」
(三球目)
今度はインコース寄りにミットが動く。
(ここで無理に振り遅れたくない)
ほんのわずか、タイミングを遅らせるイメージで構え直す。
投手の腕が振り下ろされる。
ストレート。
予想より半球分ほど内に来た。
(詰まってもいい。センター方向)
バットを内側から出し、ボールの内よりを叩く。
ガツンという手応えとともに、打球はショートの頭上を越えていった。
「ナイスバッティング!」
ベンチから声が飛ぶ。
一塁ベース上で片手を挙げると、コーチャーが声をかけてきた。
「今のは、だいぶ詰まりながらもよく運んだな」
「ありがとうございます」
ツーアウト一塁。
打席には六番・高倉。
相手バッテリーは、初球から牽制球を投げてきた。
敦はリードを取りながら、わざと一歩分だけ戻る動きを大きめにして見せる。
(盗塁を仕掛けるつもりはない、ってことも見せておく)
高倉は外角低めのスライダーを見送り、二球目のチェンジアップにバットを合わせにいった。
だが、タイミングがわずかに合わず、サードゴロ。
(あと一本が遠い)
グラウンドから戻りながら、敦は息を整えた。
*
四回裏。
打順は一番に戻る。
先頭の一番打者は、初回にも先頭打席に立った俊足タイプだ。
今度は、さっきよりも腰が据わっているように見えた。
佐伯のサインは、初球外角へのストレート。
敦は腕を振り切り、コースぎりぎりを狙う。
ボールは悪くない高さでミットに収まったが――
「ボール!」
わずかに外れていた。
(二球目)
今度は同じ外角寄りにスライダー。
打者は迷いなくバットを出し、きれいにセンター前へ運んだ。
(今日初めてのヒット)
ノーアウト一塁。
二番打者は、迷いなくバントの構えを見せてきた。
敦は、一塁への牽制でわずかにリードを縮めさせてから、セットポジションに入る。
初球、外角高めにストレート。
バントはファウルになった。
カウント0-1。
二球目、今度は少し低めに外しながらストレートを投げる。
打者はバットの角度をうまく変え、マウンドの左側、三塁線寄りに転がしてきた。
「来た!」
敦はマウンドを降りて前に出ようとしたが、すでに三塁側から大塚主将が素早く前進していた。
「任せろ!」
大塚がボールを拾い上げ、一塁へ送球。
高いバウンドだったが、長谷川がしっかりと捕球する。
「アウト!」
送りバント成功。
一死二塁。
(ここから、上位打線)
三番打者が、バットを肩に担ぐようにして打席に入ってきた。
さっきの打席ではライト前のフライに打ち取った相手だが、スイングの鋭さは印象に残っている。
「ここからが本番だぞ」
佐伯がマスク越しに短く声をかけてくる。
「はい」
初球、外角低めのストレート。
狙いどおりのコースに決まり、見逃しストライク。
二球目、インコースへのスライダー。
バッターは腰を引きながらもバットを出し、ファウル。
(追い込んだ)
三球目。
佐伯は、外角低めのストレートを要求してきた。
(フォークで空振りを取りにいく手もあるけど――)
敦は、一瞬だけ迷い、しかし首を振らなかった。
(まだ四回だ。ここで無理に“決めに行く”より、シンプルにストレートで勝負する)
セットポジションから、全力で腕を振る。
外角低め、ギリギリを狙ったボール。
しかし、ほんのわずかに高く抜けた。
それでも、ストライクゾーンから大きくは外れていない。
打つかどうか、迷う高さ。
バットが、一瞬遅れて出た。
カーン、と乾いた音。
打球はライトとセンターの間、右中間の深いところへ飛んでいく。
「しまった」
敦の口から、思わず声が漏れた。
ライトの村上とセンターの三浦が同時に背走する。
しかし、打球は二人の頭上を越えていった。
フェンス手前でワンバウンドし、そのまま壁に当たる。
「カット、カット!」
ベンチから声が飛び、村上が素早くボールを拾い上げて二塁の河合へ返す。
河合はホーム方向を一瞬見て、三塁へ送球した。
だが、すでに二塁ランナーだった一番打者はホームインしていた。
スコアボードの「0」の隣に、「1」の数字が灯る。
(一点、先に取られた)
なお一死二塁。
打者走者は二塁に立ち、帽子のつばを軽くさわった。
(今のは完全に甘く入ったわけじゃない。それでも持っていくか)
胸の奥に、じわりと悔しさが広がる。
打席には四番打者が入っていく。
*
「ここからだぞ」
佐伯がマスク越しに声を上げる。
「はい」
一死二塁。
この回をここで止められるかどうかで、試合の流れは大きく変わる。
初球、外角へのストレート。
ギリギリのコースに決まり、見逃しストライク。
二球目、内角寄りのボールゾーンにストレート。
打者の腰を少しだけ引かせる。
(三球目)
佐伯は、外角低めのフォークを要求してきた。
敦はうなずき、今度は「落とす」ことだけに意識を集中させる。
指先から離れたボールは、ストライクゾーンの手前からはっきりと沈み始めた。
打者は迷いながらもバットを出し、結果的にボールの上側をかすめる。
打球は、セカンド正面への緩いゴロになった。
「よし!」
河合が前に出て捕球し、一塁へ送球。
アウト。
その間にランナーは三塁へ進んだが、二死三塁になったことで、だいぶ息がしやすくなる。
(二死三塁。ここを抑えれば、一点で済む)
続く五番打者。
左打ちで、長打力がありそうな体格をしている。
初球、外角高めのストレート。
空振り。
二球目、同じ外角寄りのスライダー。
今度は見逃され、ボール。
カウント1-1。
(三球目)
佐伯は、再び外角を指し示した。
敦は、ストレートのサインにうなずく。
全力ではなく、八割ほどの力で、コースだけを意識して投げ込む。
ボールは、外角低めぎりぎりに決まった。
打者は手を出しかけて止める。
「ストライク!」
カウント1-2。
(ここで決めたい)
四球目、フォークのサイン。
敦は、さっきよりも思い切って腕を振った。
ボールは、ストライクゾーンから一段分、しっかりと沈む。
打者は振りにいった。
だが、バットはボールの上を空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。
スコアボードには「1」の数字が残ったままだが、それ以上は動かない。
マウンドを降りながら、敦は胸の奥のざわつきを、自分で落ち着かせるように息を吐いた。
(一点は取られた。
でも、一点で止めた)
それが、この回にできる最大限だった。
*
ベンチに戻ると、篠原先輩がタオルを差し出してきた。
「ナイスピッチング……と言っていいかどうか、微妙な回だったな」
「すみません」
「謝るな」
篠原先輩は、少しだけ笑った。
「あの三番に打たれた球は、確かに高くなった。
でも、“置きにいっただけの球”でもなかった。あいつがうまかったんだ」
「はい……」
「それより大事なのは、そこで気持ちを切らさずに、四番と五番をきっちり抑えたことだ。
あれができない投手は、“一点取られたあと”に崩れる」
矢部先輩も、隣でうなずく。
「一点で止めたのは、ちゃんと評価していい。
まだ試合は続いてる」
「はい」
「それと――」
矢部先輩は、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「お前が一点取られたってことは、こっちが取り返すチャンスもできたってことだ」
「え?」
「“一点差で負けてるピッチャー”のほうが燃えるだろ?」
言われてみれば、その通りだった。
0-0のまま緊張が続くよりも、
「取り返すべき一点」がはっきりした今のほうが、気持ちの向けどころはわかりやすい。
「……そうですね」
「だから、あんまり暗い顔してるなよ。
まだ四回だ」
ベンチ前では、次の回に向けてバットを握る高倉が素振りを始めていた。
スコアボードには、「0-1」。
まだ、追いつくチャンスはいくらでもある。
(ここから、どうやって取り返すか)
敦は、タオルで汗をぬぐいながら、バットに手を伸ばした。
(自分の投球だけじゃなくて、打席でもやれることをやる)
五回のマウンドと、その前後に回ってくる打席。
その両方を思い浮かべながら、敦は静かに立ち上がった。
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