第2話 走り込みの洗礼
その日の放課後、武庫工業高校のグラウンドには、春の空気と、砂埃と、汗の匂いが入り混じっていた。
「一年は、まず外野フェンス沿いに集合!」
怒鳴るようによく通る声が、グラウンド中に響き渡る。
ユニフォーム姿の上級生たちが、こちらに視線を向けているのがわかる。中には、あからさまに値踏みするような目もあった。
野球部の一年生は、敦を含めて十数人。
中学で野球をやっていた者もいれば、運動部経験ゼロの者もいるらしい。
「お前ら、一年か?」
近づいてきたのは、がっしりした体格の三年生だった。
頭は短く刈り上げ、日焼けした腕は太い。胸のミットが擦り切れているあたり、かなりの場数を踏んできた捕手に見える。
「はい!」
新入部員たちが声をそろえる中、敦もその一人として返事をする。
自分の声が、思ったよりもよく通るのに気づき、心の中で苦笑した。
「俺は主将の佐伯だ。ポジションはキャッチャー。お前らの顔と名前は、近いうちに全部叩き込む。だから、お前らも先輩の顔と名前を早く覚えろ」
佐伯は手に持っていた名簿をめくりながら、こちらを順に見ていく。
「まず、投手志望のやつ、前に出ろ。速い球投げられそうな順に見てく」
そう言ってから、顔を上げ、敦の肩と腕をじっと眺めた。
「……山下。お前からだ」
「俺からですか」
「見りゃわかる。ガタイと目つきが“投げるやつ”だ」
名簿の苗字順では明らかに後ろの方にいるはずの「山下」が、体格と印象だけで先に指名された。
その一言だけで、周りの一年生がざわつく。
「自己紹介は後だ。まずは走るぞ。一年はフェンス沿い十周。それが終わったらインターバル走だ」
「十周って……」
後ろの方で誰かが小さくうめく。
グラウンド一周がおよそ四百メートル。単純計算で四キロ。
野球部の練習としては、べつに特別きついメニューではないが、中学でろくに走っていなかった者にとっては地獄に違いない。
(とはいえ――)
敦は、自分の脚に意識を向けた。
ふくらはぎも太ももも、まるで陸上選手のように無駄がない。
花里カープでの走り込み、中学サッカーでの持久走、高校テニスでのフットワーク練習……それらすべてが「最初から積み上がった状態」で身体に刻まれているような感覚だった。
「よーい、スタート!」
掛け声とともに、一年たちは一斉に走り出した。
最初の一周は、集団が一塊になって進む。
だが、二周目に入る頃には、早くも呼吸が苦しくなり始める者がちらほら現れ始めた。
「はぁ、はぁ……まだ二周目だぞ……」
「中学、文化部だったんだって……死ぬ……」
後ろからそんな声が聞こえてくる。
敦は、自分の呼吸が驚くほど整っていることに、少し戸惑っていた。
(ペースを上げようと思えば、いくらでも上げられる……か)
ただ、一人だけ抜け出して目立つのも得策ではない。
敦は、無理のないペースで先頭集団の少し後ろをキープし続けた。
四周目。五周目。
汗が額から顎へと流れ落ちていく。
それでも、脚はまだ軽い。心臓の鼓動も落ち着いている。
(五十歳のときなら、二周目でギブアップしてたな)
長距離トラックの運転は、体力を使うようでいて、実際には座りっぱなしで身体をほとんど動かさない。
コンビニで買った唐揚げと缶コーヒーでごまかし、気づけば腹も出ていた。
夜中のサービスエリアで見上げた星空の美しさと同じくらい、背中と腰のだるさを覚えている。
そんな自分が、今は十周走っても息が上がらない。
それがどれだけ「やり直し」の意味を持っているか、敦は痛いほど理解していた。
「ラスト一周! ここから上げろ!」
佐伯の声が飛ぶ。
敦は、ペースを一段階上げた。
脚が、地面から軋むように反発を返してくる。
「う、うわ、山下、急に速くなった……!」
「ちょっと待て、置いてくなって!」
後ろで悲鳴のような声が聞こえる。
敦は振り返らず、ただ前だけを見て走った。
呼吸を乱さず、フォームを崩さず、最後の直線でさらに加速する。
その走りは、もはや「野球部一年生」というより、陸上部の中長距離選手に近かった。
十周を走り終えたとき、敦はほとんど息が切れていなかった。
汗はかいている。だが、まだ余力は十分にある。
「……おい」
近くで、ぼそりと声がした。
振り向くと、腕を組んだままこちらを見ている二年生がいた。細身だが、目つきが鋭い。
胸の背番号らしきマークには「投手」の文字が小さく刺繍されている。
「山下だっけ」
「はい」
「ちょっと、目立ちすぎじゃないか」
口調は穏やかだが、その中に微かな棘が混じっていた。
「すみません。つい」
「別に謝る必要はないさ。走れない投手よりはマシだ。ただ――」
彼はにやりと笑った。
「マウンドの方でも、それくらい目立ってくれないと困る」
「……先輩は?」
「二年の篠原。今のところ、このチームの“エース”ってことになってる」
篠原。
記憶の片隅に、その名前は確かにあった。
だが、当時の敦にとっては、遠くから眺めるだけの存在だった。テニスコートの向こうの野球部の試合結果など、そこまで真剣には追っていなかったのだ。
(こいつの未来も、変わるのかもしれないな)
そんなことを考えた瞬間、目の前のスクリーンの端がチカチカと点滅した。
走っている最中は意識の外に追いやっていたが、透明な板は相変わらず視界の片隅に浮かんでいる。
――新規サブミッション発生
・チームエースとの競争:篠原に公式戦で勝る登板内容を記録せよ(期限:高校3年夏まで)
余計なことまでしっかり拾ってくるあたり、このスクリーンは実にお節介だ。
「何か言いたそうな顔だな」
「いえ、何でもありません」
敦は笑ってごまかした。
「おーし、次はインターバルだ!」
佐伯の声が再び飛び、地獄のようなインターバル走が始まった。
全力疾走とジョグを繰り返すこのメニューは、心肺と脚に容赦なくダメージを与えてくる。
「はぁっ、はぁっ、足が……!」
「これ、野球じゃなくて拷問だろ……!」
悲鳴混じりの声があちこちから上がる中、敦はやはり淡々と走り続けた。
もちろん、疲れていないわけではない。筋肉にはちゃんと乳酸がたまり、肺も熱くなっている。
だが、五十歳の身体で経験した「動かない苦しさ」に比べれば、今の苦しさはむしろ心地よい。
(生きてるって感じがするな)
そう思ったとき、自分でも驚くほど自然に笑みがこぼれた。
*
走り込みが終わると、一年生は息つく間もなくキャッチボールを命じられた。
「体が温まってるうちに、肩を確認しろ。ただし、無理はするなよ!」
佐伯の指示に従い、敦は近くにいた同級生とペアを組んだ。
少し背が低く、俊敏そうな雰囲気の少年だ。
「えっと、俺、田島。中学は内野やってた」
「山下。ポジションはピッチャーだけど、キャッチャーも外野もできる」
「なんかいきなり盛ってきたな……」
「本当だ」
敦が苦笑しながらそう言うと、田島はじっと敦を見つめ、それからあっさりと頷いた。
「まあ、さっきの走り見たら、あながち嘘とも思えないか」
キャッチボールを始める。
敦は、わざと軽めのスナップスローから入った。
手首の柔らかさ、指にかかる感触、腕の振りのキレ――どれをとっても、自分史上最高だった。
「ちょっと待った」
数球投げただけで、田島が顔をしかめた。
「山下、今どれくらい力入れてる?」
「三割くらい」
「十分だ。それ以上上げるな。グローブが壊れる」
田島は真顔だった。
ミットが、ボールを受けるたびに「パンッ」と乾いた大きな音を立てる。
周囲の視線が、自然とこちらに集まり始めているのがわかった。
(これ以上目立っても仕方ないか)
敦は、意識的にスピードと回転を抑えた。
それでも、ボールは伸びのある軌道で田島の胸元に吸い込まれていく。
「おい一年、遊んでねえで、投手志望はこっち来い!」
村井の怒鳴り声が飛び、敦は慌てて田島に頭を下げる。
「悪い。またあとで」
「ああ。……肩、壊すなよ。せっかくの武器なんだから」
その一言に、敦は思わず振り返った。
(十五歳の頃の俺に、そんなこと言ってくれるやつ、いたか?)
今度こそ、大事に使わなければいけない。
この肩も、この肘も、この身体も。
もう二度と、「もったいない」で終わらせてはいけない。
*
マウンド横のブルペンには、すでに何人かの投手志望の一年生が並んでいた。
村井がクリップボード片手に立ち、隣にはキャッチャー装備をつけた佐伯がしゃがんでいる。
「一人五球だ。全力で投げろ。ただし、フォームは崩すな。数字だけ欲しがるやつは、うちにはいらん」
村井の言葉に、何人かの一年生が緊張で喉を鳴らす。
古びたスピードガンが用意されていた。
見た目はだいぶ年季が入っているが、数字が出るなら十分だ。
「じゃあまず、さっき走りで目立ってた山下からだ。速い球持ってそうなやつから順にいく」
「はい」
逃げ道はない。
敦はうなずき、マウンドに足を踏み入れた。
佐伯が構える。
ミットは胸元、やや内角寄り。
要求されているのは、「真っ直ぐ勝負」の一球だ。
(高校での上限は160。今の安全最大は155。さっきのネット投球で148。……ここは、150前後を一つの目安にしよう)
敦は、スクリーンに浮かんでいる情報を頭の片隅に押しやり、眼前のミットだけを見据えた。
一球目。
力を七割ほどに抑え、フォームの確認を意識して投げる。
「ストライク!」
佐伯のミットが音を立てる。
スピードガンの横で数字を読んだ部員が叫んだ。
「139!」
ざわめきが起こる。
一球目で、すでに多くの高校投手の限界近くに達している。
(二球目)
今度は、力を八割。
ステップの踏み込みを少しだけ強め、下半身の回転を速める。
「ストライク!」
「145!」
周囲の空気が、一段階変わった。
野次や冷やかしが消え、静かな息を呑む気配だけが広がる。
(三球目)
敦は、一瞬だけ迷った。
ここでどこまで出すべきか。
いきなり上限近くまで出せば、間違いなく異常扱いされる。
しかし、あまり抑えすぎても、「期待外れ」と判断されかねない。
(高校の自分にとっての“限界”を、少し上書きしてやるくらいが、ちょうどいいか)
そう決めて、敦はフォームを組み上げた。
足を高く上げ、しなやかに振り下ろす。
腰の回転から肩、肘、手首へと、力の流れを途切れさせず一本に通す。
「っ……!」
佐伯が、思わず声をもらした。
ミットが、さっきとは異なる、重く鈍い音を立てる。
「151!」
その数字が告げられた瞬間、ブルペンの空気が爆発した。
「うそだろ!」
「一年で150超えって……」
「プロ行けるレベルじゃねえか!」
村井は、そのざわめきを手で制した。
「静かにしろ。まだ終わりじゃない」
四球目。
敦は、あえて少しだけ力を抜いた。
全力を見せすぎないことと、フォームをすり減らさないこと。
五十歳までの経験が、「無茶をするな」と冷静に忠告してくる。
「ストライク!」
「147!」
十分すぎる数字だ。
最後の一球は、フォームを微調整するためだけに使った。
腕の軌道、重心移動、リリースポイント――すべてを頭に焼き付ける。
「144!」
五球を投げ終えた敦は、軽く息を整えながらマウンドを降りた。
「山下」
村井が名前を呼ぶ。
敦は背筋を伸ばした。
「はい」
「お前、自分の球の価値がわかっているか」
唐突な問いだった。
敦は一瞬だけ考え、それからうなずいた。
「……少しだけ、わかっているつもりです」
「そうか」
村井は短く言い、クリップボードに何かを書き込んだ。
「お前のメニューは別で組む。走り込みはそのまま、ウェイトとフォーム固めを重点的にやる。肘と肩のケアも、必ず自分で覚えろ。壊したら終わりだ」
その言葉に、敦の胸に強い実感が走る。
「はい。絶対に壊しません」
「言うのは簡単だ。守れ」
村井はそう言って、次の一年生の名前を呼んだ。
「次、井上!」
敦が列の外へ出ようとしたとき、隣に立っていた篠原がぽつりと呟いた。
「……思ったより、化け物だな」
「すみません」
「謝るな。俺の仕事が一つ増えただけだ」
篠原は、どこか楽しそうに笑った。
「お前がサボらないように、俺が上で待ってる。簡単に抜かせないからな」
「それは……ありがたいです」
敦がそう言うと、篠原は怪訝そうに眉をひそめた。
「普通、ライバルからそんな返事は返ってこないと思うんだが」
「五十年分の、いや……十五年分と三十五年分の後悔が溜まっているので」
「何言ってるのか、さっぱりわからん」
篠原は苦笑し、その場を離れていった。
*
その日の練習が終わる頃、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
グラウンドの端では、三年生たちが道具の片付けをしながら談笑している。
一年生は汗だくになりながらも、どこか興奮した顔でそれを眺めていた。
「疲れた……でも、なんか気持ちいいな」
「俺、途中で本気で帰ろうかと思った」
「明日、筋肉痛で絶対動けない……」
敦も、体のあちこちに疲労を感じていた。
しかし、その疲労は、トラックの運転席で感じる「じわじわとしただるさ」とはまったく違う種類のものだった。
使い切った筋肉が喜んでいるような、そんな感覚だった。
ふと気づくと、スクリーンが静かに明滅している。
――高校編ミッション進捗
・公式戦初登板:未達成
・甲子園出場:未達成
・最速更新(高校時):160km/h以上:未達成
その下に、新しい項目が一つ追加されている。
――新規ミッション
・家族との再会:タイムリープ後、三日以内に実家に顔を出せ
「……やっぱり、そう来るか」
敦は、空を見上げながら小さくため息をついた。
実家。
伊丹の、あの古い家。
父も、母も、今は自分と同じように年老いているはずだった。
しかし、この世界では――。
(若い父さんと母さんに、もう一度会うのか)
それは、野球とは別の意味で、心の準備が必要なミッションだった。
「山下ー! 帰り、どうする?」
中村が、スポーツバッグを肩に担ぎながら駆け寄ってきた。
「自転車で帰る。お前は?」
「俺もチャリ。伊丹方面やし、途中まで一緒やな」
「……ああ、頼む」
自転車置き場で各自がママチャリやスポーツ車にまたがる。
敦の自転車は、昔ながらのシンプルなシティサイクル。
それでも、ペダルに足を乗せた瞬間、足腰の強さがはっきりとわかった。
校門を出ると、春の夕風が汗で濡れた肌を撫でていく。
並んで走る中村の自転車のチェーンが、カラカラと小さな音を立てた。
「初日から飛ばしすぎて、明日動けんようになんなよ」
「お前こそ」
心細さを悟られないように、敦は笑って答えた。
ペダルを踏むたび、伊丹方面へ向かう道が、少しずつ近づいてくる。
家に近づくたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚も、同じように強くなっていく。
過去と向き合うこと。
家族と向き合うこと。
そして、自分の夢と本気で向き合うこと。
武庫工業高校野球部での最初の一日は、こうして静かに幕を閉じた。
だが、敦の物語は、まだ「序章」のさらに入り口に過ぎなかった。
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