第6話 酒乱が狼を噛む夜
「ついてこい、レン。王都への道はこっちだ」
テレサはそう格好良く言い放つと、背中で語るように手を組み、少し千鳥足で街道の方へと歩き出した。
「……ちょっと待て」
俺は彼女を呼び止めた。
王都へ行くのは既定路線だが、俺は後先考えずに裸足で突撃するような猪武者じゃない。
「王都はここからかなり遠いだろ?」
俺は服についた泥を払いながら言った。
「まずは先の町で馬車を雇おう。それから食料と水も買わないと」
「ついでに……」
俺は自分が着ているボロボロで、昨晩の泥にまみれた麻布の服を引っ張った。
「服も着替えないとな。こんな格好で入城したら、浮浪者として即投獄だ」
「馬車……」
テレサが足を止めた。
「うん……馬車はいい……フカフカのクッション……お尻痛くない……」
「だろ?」
俺は自信満々に懐へ手を入れた。
「……」
空(から)だった。
俺は信じられず、反対側も探った。
やはり空だ。
ローブの内ポケットまでひっくり返したが、そこには虚無しかなかった。
冷や汗が滝のように噴き出す。
そりゃそうだよな……。
よく考えてみろ、昨晩何があった?
死んだ犬のように数百メートル引きずり回され。
泥沼の中で馬乗りになられ。
亀甲縛りで一晩放置され。
今朝はボールのように蹴り飛ばされて木に激突したんだぞ。
あのずっしり重かった金袋が、まだ大人しく懐に収まっている方がホラーだわ!
「あの……テレサさん?」
俺の声は震え始めた。最後の一縷の望みをかけて尋ねる。
「そっちには……お金、ある?」
テレサが振り返り、小首を傾げた。
彼女はのろのろと自分のポケットを探った。
「ない」
彼女は堂々と言い放った。
「……」
俺は彼女のその貧乏神のような姿を見て、世界の終わりを感じた。
一文無し。
補給なし。
「詰んだ……俺たち、野垂れ死に確定だ」
俺は頭を抱えてその場にうずくまった。
「だ、大丈夫だ……」
テレサの視線が泳いでいる。明らかに虚勢だ。
彼女は手を伸ばし、俺の肩をポンポンと叩いた。
「すぐ……着くから……たぶん……?」
「それに……私に……任せろ……」
そう言い残し、彼女の体が傾いた。
ドサッ。
そのまま顔面から道端の草むらにダイブした。
「……おい?」
返ってきたのは、草むらから聞こえる微かな寝息だけだった。
「……」
俺は地面に転がるこの「トラブルの塊」を見下ろし、深い溜息をついた。
置いていくか?
ダメだ、こいつは現状唯一の頼みの綱(頼りないが)だ。それに、俺は王都への道順すら知らない。
諦めろ、木島蓮。
俺はしゃがみ込み、歯ぎしりしながらその泥の塊を引き起こした。
「乗れ! このクソ酒乱!」
……
……
俺が間違っていた。
背負うべきじゃなかった。
時間は午後に差し掛かっていた。
太陽は悪意ある現場監督のように、地面をジリジリと焼き続けている。
「ハイッ!」
背中の荷物が突然叫んだ。
直後、俺の左耳に激痛が走る。
「痛い痛い! 離せ!」
俺は痛みに顔を歪めた。
「左折……」
テレサは夢遊病のようにあやふやな口調で呟きながら、俺の左耳を死ぬ気で引っ張っている。
「あっちに……酒の匂いが……」
「あれは馬糞の臭いだ! あと俺は馬じゃねぇ! 起きたならさっさと降りろ!!」
俺は彼女の手を引き剥がそうとした。
だが、その華奢に見える小さな手は、万力のように微動だにしない。
こいつ、なんでこんなに馬鹿力なんだよ!?
「右折……」
今度は右耳だ。
「違う……ブレーキ……」
今度は髪の毛だ。
「ぐわああああ! 頭皮が剥げるぅぅ!!」
この鬼畜生め……。
しかも一番タチが悪いのは、こいつ見た目は細いくせに、柔らかい体が背中に密着して、歩くたびにポヨンポヨンと当たるのだ……。
その生温かい感触と、首筋にかかる甘ったるい酒臭い吐息。
彼女いない歴二十一年の理系男子にとって、この生理的な刺激は別ベクトルの拷問でしかない。
(落ち着け、木島蓮。これは死体だ。ただの肉塊だ)
俺は心の中でお経のように唱えながら、牛歩のような速度で前進を続けた。
日が暮れた。
さらに最悪なことに、晴れ渡っていた空から、霧雨が降り始めた。
「もう無理……」
俺は背中のお荷物を巨木の下に放り出し、その場にへたり込んで、ゼーゼーと荒い息を吐いた。
喉が焼けるように痛い。
一日中水も飲まず、負荷をかけた状態での行軍。俺の体力は限界を超えていた。
「寒い……」
地面に転がされたテレサが団子のように丸まり、うわ言のように寒さを訴えた。
確かに寒い。雨混じりの夜風はナイフのように冷たい。火を焚かなければ、二人とも低体温症で死ぬかもしれない。
俺は手探りで周囲の枯れ木をかき集めた。
だが――
「シュ……シュ……」
いくら木を擦り合わせても、湿気った木材には火がつかない。
火口(ほくち)がないのだ。
「クソッ……」
俺は苛立ちまかせに木の棒を投げ捨てた。
「火……?」
いつの間にか、テレサが起き上がっていた。
彼女は半開きの紅い瞳で、その湿った木の山をじっと見つめていた。
「火が……欲しいのか?」
「そうだ! 火だ!」
俺は藁にもすがる思いで叫んだ。
「あんた魔法使いだろ? ファイアボールとか簡単なやつ、出せるだろ? 種火だけでいいんだ!」
テレサは鈍い動作で頷いた。
「そんなの……朝飯前……」
彼女は人差し指を突き出した。
ドガァァァァァァン————!!!
反応する暇もなかった。巨大な熱波が顔面を直撃し、俺はそのまま後方へ二回転ほど吹き飛ばされた。
湿った木の山は瞬時に消滅し、代わりに出現したのは黒焦げのクレーターと、その中で燃え盛る業火だった。
「ゲホッ、ゲホッ!」
俺は煤まみれになって起き上がり、「褒めて」と言わんばかりの顔をしている酔っ払いを睨んだ。
「暖を取るための焚き火だぞ! 山火事を起こせとは言ってねぇ!」
「暖かければ……よし……」
テレサはへへっと笑い、体が傾くと、そのまままた泥のように眠りについた。
まあいい、火は確保できた。
俺は彼女を火のそばまで引きずっていった。
「いいか、こんな野外の夜だ、何が出るかわからん。交代で番をするぞ」
「んぅ……」
「聞き流すな! 俺が先に二時間寝るから、その後起こすからな!」
「わかった……」
彼女はフニャフニャと答えた。
俺は木の幹に寄りかかり、三秒もしないうちに意識を手放した。
……
……
目が覚めたのは、寒さのせいだった。
そして、奇妙な生温かい感触。
俺は薄目を開けた。
火はとっくに消えていた。
月明かりの下、俺の目の前に、二つの妖しい緑色の光が浮かんでいた。
それは、俺の顔に向けて涎を垂らしている、灰色の狼の顔だった。
「!!!」
悲鳴を上げそうになった。
あのクソ酒乱はどこだ!?
見ると、テレサは俺の隣で丸まり、俺の太ももを抱き枕にして爆睡していた。
「んぅ……チキン……逃げるな……」
神に感謝すべきか、狼はその寝言に興味を持ったようで、テレサの方へ鼻を近づけた。
「クン、クン……」
恐らくその強烈な酒臭さが鼻についたのだろう、狼は嫌そうにくしゃみをした。
その時だ。夢の中のテレサが、ガシッと狼の首に抱きついた。
「へへ……おっきなワンちゃん……」
彼女は狼のたてがみに顔をうずめ、スリスリと頬ずりをした。
そして、突然何か違和感を覚えたように、カッと目を見開いた。
「……酒?」
彼女は至近距離で狼の目を見た。
狼:「グルゥ?」
「酒がねぇ……?」
「酒も持ってねぇのに、ワラワの安眠を妨害したのかコラァ!!」
ガブッ!
彼女は口を大きく開け、可愛らしい八重歯を剥き出しにして、狼の鼻先に噛み付いた。
「キャイン————!!!」
悲痛な遠吠えが夜空に響き渡った。
その凶暴な野獣は鼻を押さえ、悪魔でも見たかのように尻尾を巻いて逃げ去っていった。
「ペッ……獣臭ぇ……」
テレサは不味そうに唾を吐き捨て、再び俺の上に倒れ込んで秒で寝息を立て始めた。
「……」
俺は全身の力が抜け、地面にへたり込んだ。
どっちがモンスターだよ……。
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