第2話 午前2時の、寂しい
午前2時。
重苦しい静寂の中、乾いた打鍵音だけが響く。
モニターに映る前任者が残したクソコードは、解読するだけで私の脳内リソースをゴリゴリと削り取っていく。
「……ここ、変数名の定義がおかしい。なんでこんな設計にしたの……」
独り言を呟きながら目をこする。
背後からの視線が痛い。
ラピスだ。彼女はカラーボックスの上に座り、無言の圧力を放っている。
「……なに」
「アンタ、馬鹿なの?」
本日二度目の罵倒。
彼女は頬杖をつき、冷ややかな目を向けてきた。
「……何その変なの。汚い」
「え?」
「ミミズがのたうち回ってるみたいで、見てるだけで吐き気がする。よくそんなもの直視できるわね」
彼女はモニターを顎でしゃくった。彼女の目には、コードがただの不快な模様として映っているようだ。
「これが仕事なの……。この絡まったミミズを、朝までに綺麗に整理しなきゃいけないの」
「はぁ? 意味わかんない。絡まってるなら、爪で引き裂くか、捨てちゃえばいいじゃない」
「それができたら苦労しないよ……」
猫の論理は暴力的で単純明快だ。けれど、人間社会ではそれができない。
「だからって、言いなりになってゴミをいじり続けるわけ? プライドないの?」
プライド。その言葉が疲労した心に刺さる。
彼女はエンジニアとしてではなく、生物としての誇りを問うているのだ。
「嫌なら噛みつけばいいじゃない。どうして人間って、自分から嫌な匂いのするものに顔突っ込んで、勝手に苦しんでるの?」
ラピスの言葉は野生の本能に基づいた正論だ。あまりにも正しすぎて、今の私には猛毒だった。
「……うるさいな!」
プツン、と何かが切れた。私は椅子を蹴るように立ち上がり、声を荒らげた。
「猫にはわからないよ! 生きていくためには仕方ないの! 私が我慢すれば丸く収まるんだから、黙っててよ!」
部屋の空気が凍りついた。
ラピスの青い瞳が揺れる。
彼女は短く「……そう」とだけ言い、部屋の隅のカーテンの陰へ消えていった。
やってしまった。
あの子は私のために言ってくれたのに。
自己嫌悪の沼に沈みながらPCに向かうが、もう一行もコードは書けなかった。
* * *
一時間後。
進まない作業に見切りをつけ、私はカーテンの陰にうずくまるラピスの前にしゃがみ込んだ。
「ごめんね。さっき、言いすぎた。……私、余裕なくて」
謝る私に、ラピスは顔を埋めたまま、私の部屋着の
「……」
ゆっくりと顔を上げる。いつもは冷たい瞳が潤み、目尻が赤くなっている。
「……アンタが」
か細い声。毒気は完全に抜けていた。
「アンタがずっとミミズばっかり見て……あたしのこと、見てくれないから」
彼女は唇を噛み、一度視線を逸らしてから、また私を見上げた。
そして、今にも消えそうな声で、決定的な一言を口にした。
「…………寂しい」
その一言が、静かに、けれど深く胸に突き刺さった。
目の前にいるのは人間の姿をした美少女だ。
けれど私には、その姿がいつもの小さな背中と重なって見えた。仕事が終わるのを待つ姿。足元で鳴く姿。
――『にゃーん』
この子は、ただ待っていたんだ。ずっと。
それなのに私は邪険にして、背中を向けて。
胸の奥が締め付けられ、視界が滲む。愛おしさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。
「……っ」
私はマグカップを床に置き、震える彼女の体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「……ごめん。ごめんね、らぴたん」
腕の中に伝わる体温は、猫の時と同じ温かさだった。
ラピスは私の胸に顔を埋めたまま、もごもごと呟く。
「……馬鹿ミヅキ。……ぎゅーってするの、強い」
文句を言いながらも、私の服を掴んだ手は離れない。むしろ
その不器用な温もりに、私もまた救われているのだと気づいた。
「ズルいー! ボクもー! ミヅキ足りないー!!」
ドスッ!!
寝ていたはずのナーが背後から突撃してきた。80キロ級のタックルで三人まとめて床に転がる。
「重い!」
「混ぜて! ボクも寂しかった!」
ナーは甘えて頬ずりし、ラピスは「ウザい」と言いつつ安らいでいる。
三つの体温が混ざり合う。温かい。
深夜3時の冷え切った部屋で、ここだけが陽だまりのようだった。
私は二人を撫でながら考えた。
何のために働いているんだろう。
ご飯や部屋のため?
もちろんある。でも一番の目的は、この子たちと幸せに暮らすためだ。
この子たちを泣かせてまで守るべき納期なんて、あるわけがない。
元夫への恐怖心や将来への不安。
そんなバグだらけの思考回路のせいで、一番大切なものを見失っていた。
自分と、猫たち。
この優先順位だけは絶対に譲れない。
「……決めた。明日、戦うよ」
私が呟くと、ラピスが「やっと目が覚めた?」とニヤリと笑った。
* * *
翌朝、9時55分。 Web会議ツール『Voom』には、不機嫌そうな担当者の顔。
『修正は終わったんでしょうね? 昨日の夜、連絡取れませんでしたが』
嫌味な声に心臓が早鐘を打つ。
怖い。長年の社畜根性が足を止める。
だが、男が『おい、聞いてるのか!』と怒鳴り上げた瞬間――。
「……ミヅキを、いじめるな!!」
画面外からナーがぬっと現れ、私を背後から抱きしめた。
悲痛な表情でカメラを睨む180センチの美青年。その迫力に担当者の男は『え、誰……男?』と怯む。
さらに脇からラピスが顔を出し、汚いものを見るような目で男を一瞥した。
「こいつ、もう死にそうな顔してるの、見てわかんないの? 目がついてないの?」
『は、はぁ!? なんだその口の利き方は!』
「自分は安全な箱の中から、キャンキャン吠えて命令するだけ。……アンタ、自分じゃ狩りひとつできない弱虫なんでしょ?」
ラピスは容赦なく急所を突く。
それは理屈ではない。自分は手を汚さず、弱った相手を追い詰める卑怯者であることへの、生物としての根源的な軽蔑だ。
「弱いものいじめしかできないオスなんて、生きてる価値ないわよ。……無能」
無能。
禁句を放たれ、空気が凍る。
『佐倉! 部外者に言いたい放題言わせて、俺を馬鹿にしてるのか! 契約解除だ! 損害賠償請求してやる!』
男が喚き散らす。
普段の私ならパニックになっていただろう。
でも、不思議と今は冷静だった。
左には守ってくれるナーの体温。右には本質を突いてくれるラピスの知性。
二人が、私を支えてくれている。
(……そうだ。ラピスの言う通りだ)
私は、何を恐れていたんだろう。
こんな相手との関係が切れたとして、何が困るというのか。
私はマイクの音量を上げ、カメラを真っ直ぐに見据えた。
「待ってください」
震えは止まっていた。
「当初の仕様書を確認してください。今回の修正は明らかに契約時のスコープ外です。それを『バグ修正』として無償で強要するのは、下請法違反の疑いがあります」
『な……っ』
「これ以上の作業をご希望なら、正規の追加費用と納期の再設定をお願いします。それができないなら――」
喉の渇きが消えていく。
これは私の言葉だ。誰かのための言い訳じゃない。
私が、私自身の尊厳を守るための宣言だ。
「このプロジェクトは、ここで降ろさせていただきます」
担当者の焦る声を遮断し、退出ボタンをクリックする。
画面が暗転し、部屋に静寂が戻った。
仕事を失ったかもしれない。けれど、胸のつかえは完全に消え去っていた。
「……ふぅ」
大きく息を吐くと、左右から「ミヅキかっこいい!」「ま、及第点ね」と抱き着かれた。
デスマーチは終わった。自分の手で終わらせたのだ。
窓の外は高く晴れ渡っている。
しかし、この不思議な共同生活には期限があることを、私はまだ知らない。
彼らがなぜ人の姿になり、私に寄り添ってくれるのか。その秘密が明かされる時は、もう目の前まで迫っていた。
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