デバッグ・マイ・ライフ~過労で倒れたら愛猫たちが人間化!?激重甘えん坊男子と毒舌ツンデレ美少女に、人生を修正されています~

らぴな

第1話 猫の手は、物理的に重すぎる

 午前2時45分。

 デュアルディスプレイの青白い光が、荒れ果てたワンルームを冷ややかに照らし出している。


「……また、仕様変更……?」


 カサついた唇から乾いた音が漏れる。

 チャットツールには、クライアントからの無慈悲なメッセージ。


『認証周りのロジック、やっぱりB案に戻せませんか? 明日の朝一までに』


 私はフリーランスのエンジニア、佐倉さくら美月みづき。32歳、バツイチ。

 抱えている三つの案件は、どれもこれも『事故物件』だ。前任者がクソコードを残してバックレた炎上案件に、あまりの過酷さにメンバー全員が逃亡し、私一人だけが取り残された焼け野原のようなプロジェクト。私のリソースは、他人の尻拭いだけで常に枯渇している。


 机の上には栄養ドリンクとエナジードリンクの空き瓶が墓標のように並び、スマホには元夫からの『金貸して』という複数の通知が鎮座している。

 断れない性格という脆弱性を突かれ、仕事もプライベートも搾取されるだけの無限ループ。


「猫の手も……借りたい……」


 足元を見るが、愛猫であるナーとラピスの姿はない。私の殺気立った空気を察知して隠れてしまったのだろう。


 ごめんね、にゃーくん、らぴたん。


 キーボードに伸ばした指先が震え、心臓がキュッ、と異音を立てる。視界の端から闇が広がり、強制シャットダウンのように意識はプツリと途切れた。




 * * *




 ――重い。


 呼吸ができない。三途の川を渡る前に、生前の罪の重さを漬物石として乗せられているのか。

 私は重いまぶたを、錆びついたシャッターをこじ開けるようにして持ち上げた。


「……ッ!?」


 目の前に、見知らぬ男の胸板があった。整った筋肉の上に、赤茶色の髪がサラサラと掛かっている。それが私の上に覆いかぶさっていた。

 さらに足元には、Tシャツ一枚の美少女。彼女は私の太ももを抱き枕のように挟み込み、むすっとした顔で眠っている。


 不法侵入? 強盗?

 パニックで悲鳴を上げようとしたが、80キロはあろうかという質量が物理的に声を阻害する。


「ど、どいて……!」


 掠れた声で訴えると、上の男が顔を上げ、人懐っこい瞳をキラキラと輝かせた。


「ミヅキー! おはよー!」


「!?」


 男は満面の笑みで、私の顔に自分の額をガンッ! と押し付けてきた。全力の頭突きだ。

 すると足元の少女が、気怠げに身じろぎした。


「……うるさい。ミヅキ、起きるの遅い」


 冷ややかな視線。宝石のようなブルーの瞳。

 この距離感、この理不尽さ。


 そして部屋に愛猫たちの姿がない。


「……にゃーくん!? らぴたん! ど、どこなの……!!」


 愛猫の名前を呼ぶと、赤茶色の髪の男は嬉しそうにぱっと目を輝かせた。


「ミヅキ! ボクだよ! にゃーくんだよ~!!」


「……みてわかるでしょ。どんくさい」


 少女は呆れたようにため息をついた。


 は? この二人が私の愛しい愛猫のナーと、ラピス? ど……どういうこと……。


 過労で倒れた私を心配して猫が人間に? 

 いやいやいや。そんな、猫の恩返しみたいなことあるわけが。


 夢だとしても、全裸の成人男性は教育上よろしくない。

 私はどうにか身体を引き抜き、ナーにはピチピチのパーカーを、ラピスにはブカブカのスウェットを着せた。


 その時、乱暴にインターホンが連打された。


『おい美月! いるんだろ!?』


 元夫だ。心臓が跳ね上がる。

 居留守を使おうとしたが、ドアを蹴る音が響き、近所迷惑を恐れた私は震えながらチェーン越しにドアを開けてしまった。

 隙間から、酒臭い息と充血した目が覗く。


「金、あるだろ? 貸してくれよ」


「……もう、ないよ」


「あるだろ? 俺たち夫婦だったんだから助け合うのは当然だろ」


 三年前の話だ。助け合うと言いながら私の貯金を食いつぶし、最後は浮気して出て行った男。

 恐怖で思考が止まる。早く帰ってほしい一心で、私は財布に手を伸ばした。


「わ、わかったから……」


 ガシッ。


 私の手首を、白く細い指が掴んだ。いつの間にか背後にラピスが立っていた。


「……アンタ、馬鹿なの?」


「え……?」


「その金で、高級なちゅーるがいくつ買えると思ってんの。貢ぐならもっとマシなオスにしなさいよ」


 淡々とした、しかし鋭利なナイフのような言葉。


「あ? 誰だそのガキ」


「ガキ……? 誰に向かって口きいてんのよ、この雑種」


 ラピスの瞳が細まり、その背後に獣の影が見えた気がした。

 元夫がドアをこじ開けようとした瞬間。


 背後から、すっと長い腕が伸びてきた。


「………」


 私の体は、一瞬にして大きく温かい何かに包み込まれた。

 ナーだった。

 音もなく現れた彼は、私を背後から守るように強く抱きしめると、その顎を私の頭に乗せた。


 そして――私を抱く腕の優しさとは裏腹に、ドアの隙間の男へ、氷のような視線を突き刺した。


「ミヅキ、震えてる……。お前、何?」


 唸り声はない。けれど、その静かな威圧感と、邪魔者を排除しようとする鋭い眼光に、元夫の顔が引きつった。

 身長180センチ超の巨体と、底知れない殺気。


「な、なんなんだよお前ら! クソッ!」


 元夫は転がるように逃げ出した。

 遠ざかる足音が消え、私はその場にへたり込みそうになる。

 その体を、ナーが力強く支えた。


「ミヅキー!」


 すぐにナーが甘えた声で、抱き着いたまま私の頭の上でぐりぐりと顔を押し付けてくる。

 重い。

 でも、その体温と力強さに、涙が滲んだ。

 ラピスも「弱そうな奴」と毒づきながら、私の肩に手を置いてくれた。


 二人のおかげで助かった。ありがとう。


 しかし、感傷に浸る間もなく、PCから無慈悲な通知音が響く。


『進捗どうなってます? 今日中に修正お願いします』


 現実リアルへの呼び出し音。

 私は涙を拭い、よろよろとデスクへ向かった。人生のバグはまだ直っていない。


「……仕事、しなきゃ」


「は? 今の状態でまだやるわけ? 正気?」


 ラピスが信じられないものを見る目を向ける。

 椅子に座ると、背中にズシリとナーが乗ってきた。「遊んでー」と容赦ない体重をかけてくる。


 ラピスは「効率悪い」と文句を言いながらも、咳き込む私にぬるめのお茶を出してくれた。

 いやどこでそんな技術身に着けたんだ……。


 汚れた部屋、終わらない仕事、理不尽な要求。デスマーチのファンファーレは鳴り止まない。

 けれど、背中の重みと麦茶の温かさだけが、孤独というエラーを解消してくれていた。


 これが、私の人生を根底から書き換える『デバッグ作業』の始まりであることを、私はまだ知らない。

 そして明日の朝、さらなる理不尽な命令が下されることも。

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