デバッグ・マイ・ライフ~過労で倒れたら愛猫たちが人間化!?激重甘えん坊男子と毒舌ツンデレ美少女に、人生を修正されています~
らぴな
第1話 猫の手は、物理的に重すぎる
午前2時45分。
デュアルディスプレイの青白い光が、荒れ果てたワンルームを冷ややかに照らし出している。
「……また、仕様変更……?」
カサついた唇から乾いた音が漏れる。
チャットツールには、クライアントからの無慈悲なメッセージ。
『認証周りのロジック、やっぱりB案に戻せませんか? 明日の朝一までに』
私はフリーランスのエンジニア、
抱えている三つの案件は、どれもこれも『事故物件』だ。前任者がクソコードを残してバックレた炎上案件に、あまりの過酷さにメンバー全員が逃亡し、私一人だけが取り残された焼け野原のようなプロジェクト。私のリソースは、他人の尻拭いだけで常に枯渇している。
机の上には栄養ドリンクとエナジードリンクの空き瓶が墓標のように並び、スマホには元夫からの『金貸して』という複数の通知が鎮座している。
断れない性格という脆弱性を突かれ、仕事もプライベートも搾取されるだけの無限ループ。
「猫の手も……借りたい……」
足元を見るが、愛猫であるナーとラピスの姿はない。私の殺気立った空気を察知して隠れてしまったのだろう。
ごめんね、にゃーくん、らぴたん。
キーボードに伸ばした指先が震え、心臓がキュッ、と異音を立てる。視界の端から闇が広がり、強制シャットダウンのように意識はプツリと途切れた。
* * *
――重い。
呼吸ができない。三途の川を渡る前に、生前の罪の重さを漬物石として乗せられているのか。
私は重い
「……ッ!?」
目の前に、見知らぬ男の胸板があった。整った筋肉の上に、赤茶色の髪がサラサラと掛かっている。それが私の上に覆いかぶさっていた。
さらに足元には、Tシャツ一枚の美少女。彼女は私の太ももを抱き枕のように挟み込み、むすっとした顔で眠っている。
不法侵入? 強盗?
パニックで悲鳴を上げようとしたが、80キロはあろうかという質量が物理的に声を阻害する。
「ど、どいて……!」
掠れた声で訴えると、上の男が顔を上げ、人懐っこい瞳をキラキラと輝かせた。
「ミヅキー! おはよー!」
「!?」
男は満面の笑みで、私の顔に自分の額をガンッ! と押し付けてきた。全力の頭突きだ。
すると足元の少女が、気怠げに身じろぎした。
「……うるさい。ミヅキ、起きるの遅い」
冷ややかな視線。宝石のようなブルーの瞳。
この距離感、この理不尽さ。
そして部屋に愛猫たちの姿がない。
「……にゃーくん!? らぴたん! ど、どこなの……!!」
愛猫の名前を呼ぶと、赤茶色の髪の男は嬉しそうにぱっと目を輝かせた。
「ミヅキ! ボクだよ! にゃーくんだよ~!!」
「……みてわかるでしょ。どんくさい」
少女は呆れたようにため息をついた。
は? この二人が私の愛しい愛猫のナーと、ラピス? ど……どういうこと……。
過労で倒れた私を心配して猫が人間に?
いやいやいや。そんな、猫の恩返しみたいなことあるわけが。
夢だとしても、全裸の成人男性は教育上よろしくない。
私はどうにか身体を引き抜き、ナーにはピチピチのパーカーを、ラピスにはブカブカのスウェットを着せた。
その時、乱暴にインターホンが連打された。
『おい美月! いるんだろ!?』
元夫だ。心臓が跳ね上がる。
居留守を使おうとしたが、ドアを蹴る音が響き、近所迷惑を恐れた私は震えながらチェーン越しにドアを開けてしまった。
隙間から、酒臭い息と充血した目が覗く。
「金、あるだろ? 貸してくれよ」
「……もう、ないよ」
「あるだろ? 俺たち夫婦だったんだから助け合うのは当然だろ」
三年前の話だ。助け合うと言いながら私の貯金を食いつぶし、最後は浮気して出て行った男。
恐怖で思考が止まる。早く帰ってほしい一心で、私は財布に手を伸ばした。
「わ、わかったから……」
ガシッ。
私の手首を、白く細い指が掴んだ。いつの間にか背後にラピスが立っていた。
「……アンタ、馬鹿なの?」
「え……?」
「その金で、高級なちゅーるがいくつ買えると思ってんの。貢ぐならもっとマシなオスにしなさいよ」
淡々とした、しかし鋭利なナイフのような言葉。
「あ? 誰だそのガキ」
「ガキ……? 誰に向かって口きいてんのよ、この雑種」
ラピスの瞳が細まり、その背後に獣の影が見えた気がした。
元夫がドアをこじ開けようとした瞬間。
背後から、すっと長い腕が伸びてきた。
「………」
私の体は、一瞬にして大きく温かい何かに包み込まれた。
ナーだった。
音もなく現れた彼は、私を背後から守るように強く抱きしめると、その顎を私の頭に乗せた。
そして――私を抱く腕の優しさとは裏腹に、ドアの隙間の男へ、氷のような視線を突き刺した。
「ミヅキ、震えてる……。お前、何?」
唸り声はない。けれど、その静かな威圧感と、邪魔者を排除しようとする鋭い眼光に、元夫の顔が引きつった。
身長180センチ超の巨体と、底知れない殺気。
「な、なんなんだよお前ら! クソッ!」
元夫は転がるように逃げ出した。
遠ざかる足音が消え、私はその場にへたり込みそうになる。
その体を、ナーが力強く支えた。
「ミヅキー!」
すぐにナーが甘えた声で、抱き着いたまま私の頭の上でぐりぐりと顔を押し付けてくる。
重い。
でも、その体温と力強さに、涙が滲んだ。
ラピスも「弱そうな奴」と毒づきながら、私の肩に手を置いてくれた。
二人のおかげで助かった。ありがとう。
しかし、感傷に浸る間もなく、PCから無慈悲な通知音が響く。
『進捗どうなってます? 今日中に修正お願いします』
私は涙を拭い、よろよろとデスクへ向かった。人生のバグはまだ直っていない。
「……仕事、しなきゃ」
「は? 今の状態でまだやるわけ? 正気?」
ラピスが信じられないものを見る目を向ける。
椅子に座ると、背中にズシリとナーが乗ってきた。「遊んでー」と容赦ない体重をかけてくる。
ラピスは「効率悪い」と文句を言いながらも、咳き込む私にぬるめのお茶を出してくれた。
いやどこでそんな技術身に着けたんだ……。
汚れた部屋、終わらない仕事、理不尽な要求。デスマーチのファンファーレは鳴り止まない。
けれど、背中の重みと麦茶の温かさだけが、孤独というエラーを解消してくれていた。
これが、私の人生を根底から書き換える『デバッグ作業』の始まりであることを、私はまだ知らない。
そして明日の朝、さらなる理不尽な命令が下されることも。
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