第2章「出会いはだいたい事故みたいなものだ」


 山葉キララが引退宣言してから、一週間が経った。


 俺はというと、相変わらず家でうだうだしていた。


 脚の痺れは残ったまま…でも、日常生活には支障はない。


 そういう《小さく曖昧な不安》は、放っておくとじわじわ胸を侵食してくる。


 だから今日も、気分転換がてらに家を出た。


「……あっつ」


 春先なのに妙に暑い。


 俺は自販機で緑茶を買って、公園のベンチに腰を下ろした。


 そこで、ふと視界に見慣れた髪色が入った。


 ――銀がかった、光の粒みたいな色。


 え、いや、まさか。


 人違いだろ。


 ……と思っていたのに、こちらに向かって歩いてきた本人と、真正面から目が合った。


 山葉キララが、そこにいた。


 マスクはしてる。

 帽子も深くかぶってる。

 けど、推しの顔はファンなら秒で分かる。

 てか、ファンじゃなくても分かるんじゃ?

 俺は最推しだから、逆に気付かない方が無理だ。


(うわ、待て……ほんとに?)


 目の前に、本物。


 引退宣言したばかりの本人。


 俺の脳みそが処理を拒否してフリーズした。


「あの、すみません」


「はいっ!?」


 俺の反応がデカすぎた。

 キララがビクッと肩を揺らす。


「あ……す、すみません。声が……その、大きかったですね」


「いえ……。えっと、この辺に図書館ってありますか?」


「あ、あります。あの道を――」


 説明し始めた瞬間、俺は気づいた。


 あの道は工事で、今は通れない。


 あぶねぇ…教えるところだった。


「あー、その道は今日工事してて遠回りになります。よければ案内しますよ」


「……えっ?」


 キララは少しだけ身構えた。

 不審者を見る目……ではないけど、距離がある。

 そりゃそうだ…引退宣言後のアイドルが、知らない男と歩きたくはない。


 それなのに俺は、気づく前に口が動いていた。


「引退宣言したばかりで、大変ですよね」


 ――言った瞬間、空気が固まった。


 キララの表情が一瞬で警戒に変わる。


「……どうして、それを」


(やっば……!)


 空気読めない癖が出た。

 完全にアウトな踏み込み方した。 

 おかしい…ブレーキングには自信あったのに。


「あ、いや、その……ごめん。俺、あなたのファンで」


 正直に言った。

 嘘ついたら余計に変だし。


「……ファン、なんですね」


 キララは少しだけ視線を落として、帽子のつばを指でいじった。

 嫌悪ではない。

 けれど、やっぱり距離はある。


「迷惑なら、案内とかはやめます。あの、ほんとにすみません」

「……迷惑じゃないです。ただ、驚いただけで」


 その口調は真面目で、返事が丁寧で、まさに《キララ》そのものだった。


 俺は胸の奥が少しだけざわついた。


 この人、やっぱり真面目なんだ。


「図書館、こっちです」


 一歩を歩こうとした瞬間、キララのバッグのチャックが開いていることに気づいた。


「あ、それ、開いてま――」


 言い終わる前に、バッグから文庫本が一冊、ストンと落ちた。


 キララは気づいていない。

 反射で身体が勝手に動いた。


(――祖父の古武術、こういうところで使うもんじゃないんだけどな)


 左脚の痺れで少しだけ遅れたけど、それでも手は本をキャッチした。


「はい、これ」


「えっ、あ……ありがとうございます」


 キララの目が驚いたように丸くなった。

 その表情が妙に可愛い。

 いや、可愛いのは知ってたけど、実物だと破壊力が違う。


「落ちるの、気づきませんでした……。すみません」


「いえ」


 なんてことのないやり取りなのに、心臓がやたら忙しい。

 この距離で話してるだけで、変に手汗まで出てくる。


「……あの」


 キララがそっと口を開いた。


「図書館まで案内、お願いしてもいいですか?」


「えっ?」


「さっき、わざとらしい感じじゃなかったので。その……助けてくれたので」


 つまり――

 最低限の信頼は…くれた、ってことだ。


「あ、はい。もちろん」


 テンションが妙に上がるのを必死に沈める。


 推しが目の前にいる。

 しかも並んで歩く。

 そんな未来、想像すらしていなかった。


 ただし今はまだ、

 彼女の心はしっかり距離を置いている。


 その感じが、変にリアルだった。


 俺たちはゆっくり、公園を抜けていった。

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