第5話「小さな商会と公爵の視線」

 リアム様の冷たい視線に怯えながらも、私は着々と計画を進めていた。まずは、身分を隠して小さな商会を立ち上げることにした。名前は「ルナ・フレグランス」。夜に輝く星降り林檎と、いずれは扱いたいと思っている香りの良い花にちなんで名付けた。


 もちろん、公爵夫人が商売をするなど前代未聞。リアム様に知られたら、今度こそ何をされるか分からない。だから、全ては秘密裏に進めなければならなかった。


 幸いにも、侍女のエマが全面的に協力してくれることになった。彼女には、信頼できる町商人の知り合いがいたのだ。その商人、マルクさんを代理人として立て、王都の片隅に小さなお店を構えることができた。


 最初は、星降り林檎のジャムと、それを使ったクッキーだけ。ささやかな船出だった。


「奥様、本当にこれでよろしいのですか? もし旦那様に知られたら…」


 エマは心配そうに眉をひそめる。


「大丈夫よ、エマ。これは私の未来のためなの。誰にも迷惑はかけないわ」


 私は彼女を安心させるように微笑んだ。心の中では、もしバレたら即離縁かも、なんて冷や汗をかいていたけれど。


 お店が開店して数日。私はお忍びで、質素な町娘の服に着替えてお店の様子を見に行った。マルクさんが一人で切り盛りする小さなお店は、まだ閑散としている。


「やっぱり、すぐには上手くいかないわよね…」


 少し落ち込みながらも、私は諦めなかった。まずはお店の存在を知ってもらわなければ。私は、クッキーの試食品を小さな袋に詰めて、近くの広場で配ることにした。


「新しいお店のお菓子です! 星降り林檎のクッキーはいかがですか?」


 最初は訝しげに見ていた人々も、一口食べると、その美味しさに目を丸くした。


「まあ、美味しい!」「この香り、初めてだわ!」


 口コミは、想像以上の速さで広がっていった。数日もすると、ルナ・フレグランスの前には、小さながらも行列ができるようになったのだ。特に、流行に敏感な貴婦人方が、その珍しいお菓子に飛びついた。


「やったわ、エマ!」


 公爵家の自室で、エマと二人、手を取り合って喜んだ。初めて自分自身の力で何かを成し遂げたという達成感が、胸いっぱいに広がる。


 商売は面白いように軌道に乗り始めた。利益は全て、次の商品開発と、お店の拡大のために再投資する。私の慰謝料計画は、順調そのものだった。


 しかし、私が生き生きと活動すればするほど、夫であるリアム様の態度は、ますます硬化していった。


 食事の席での沈黙は、もはや当たり前。それどころか、彼は私と目を合わせようともしなくなった。ただ、ふとした瞬間に感じる、背中に突き刺さるような冷たい視線だけが、彼の存在を主張している。


 庭を散歩していても、廊下を歩いていても、どこからか彼の視線を感じるのだ。それはまるで、獲物を狙う猛禽類のような、執拗で、粘着質な視線。


『私の行動、全部監視されてる…?』


 その考えに至った時、背筋がぞっとした。きっと、私がこっそり屋敷を抜け出していることに気づいているんだわ。そして、公爵家の名を汚すような行動をしていないか、見張っているのに違いない。


「私の商売が、公爵家の権威を傷つけるとでも思っているのね」


 自室で一人、そうつぶやく。彼にとって、私はアークライト公爵家の体面を保つためだけの飾り物。その飾りが、勝手なことをし始めたのだから、面白くないのだろう。


 彼との心の溝は、深まる一方だった。


 ある日、私は新しい商品の材料を仕入れるため、少し離れた市場へ向かった。もちろん、お忍びで。エマには「友人のところへ」と嘘をついて、一人で馬車に乗った。


 市場は活気に満ちていて、珍しい香辛料やハーブがたくさん並んでいる。夢中で品定めをしていると、不意に背後から声をかけられた。


「おや、嬢ちゃん、見かけない顔だね。一人かい?」


 振り返ると、ガラの悪そうな男たちが二人、にやにやしながら私を見ていた。まずい、絡まれた。貴族の令嬢だとバレたら、もっと面倒なことになる。


「…人違いです」


 私は足早にその場を去ろうとした。しかし、男の一人が私の腕を掴んだ。


「まあまあ、そう冷たいこと言わずにさ。お茶でもどうだい?」


「やめてください!」


 私が抵抗した、その時だった。


「その方に、何をしている」


 低く、静かだが、有無を言わせぬ威圧感を持った声が響いた。見ると、いつの間にか、黒い服を着た大柄な男性が男たちの背後に立っていた。見た目は普通の商人風だが、その佇まいは明らかにただ者ではない。


 男たちは一瞬で顔色を変え、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


 助けてくれた男性は、私に一礼すると、名乗ることもなく人混みの中に消えていった。


『一体、誰だったのかしら…?』


 不思議に思いながらも、私は仕入れを終えて屋敷に戻った。


 その夜の夕食。リアム様は、いつも以上に不機嫌そうだった。彼は一口も食事に手を付けず、ただじっと、私の顔を見つめている。その碧眼は、凍てつく冬の湖のように、深く、冷たく澄みきっていた。


 まるで、全てお見通しだと言われているようで、私は生きた心地がしなかった。


 彼の視線が、私にこう語りかけているような気がした。


『お前がどこで何をしていたか、全て知っているぞ』


 勘違いだと、分かっている。でも、彼が怖い。彼の沈黙が、彼の視線が、私をじわじわと追い詰めていく。


 ああ、早くお金を貯めて、この息の詰まるような場所から自由になりたい。


 その一心で、私は商売にさらにのめり込んでいくのだった。彼からの執拗な監視が、実は心配と嫉妬の裏返しだなんて、夢にも思わずに。

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