第4話「旦那様と黒い嫉妬の炎」
執務室の窓から、中庭が見える。そこでは、セレスティアが侍女たちと楽しそうにお茶会を開いていた。
柔らかな日差しを浴びて、花のように笑う俺の妻。その周りには、侍女たちの明るい笑い声が溢れている。俺の知る、殺風景で静かだったアークライト公爵家の庭が、まるで別の場所のように華やいで見えた。
『…楽しそうだな』
その光景は、一枚の美しい絵画のようだった。だが、俺の心は穏やかではいられない。彼女が笑いかけている相手が、俺ではないという事実。それが、どうしようもなく俺を苛立たせた。
侍女頭のエマが、セレスティアの隣で親しげに話している。他の侍女たちも、すっかり彼女に懐いているようだ。たった一週間で、この城の人間をここまで手懐けるとは。彼女の持つ不思議な魅力には感心するが、それ以上に、面白くないという感情が勝る。
俺の知らないところで、俺の妻が、俺の知らない顔を見せている。その事実が、腹の底で黒い炎を燃え上がらせる。
側近のギルバートが、静かに紅茶を差し出してきた。
「奥様は、すっかりこのお屋敷に馴染まれたご様子ですね」
「…ああ」
俺は素っ気なく返事をしながらも、セレスティアから目を離すことができない。
「少し、お寂しいのではありませんか、旦那様」
ギルバートの言葉に、俺は眉をひそめた。
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました」
だが、図星だった。寂しい、という言葉が的確かは分からない。だが、あの輪の中に、俺がいない。そのことが、ひどく胸をざわつかせるのだ。
数日後、俺はエマから奇妙な報告を受けた。セレスティアが、領地の特産品について詳しく知りたがっている、と。そして、厨房で何やら新しい料理の研究を始めたらしい。
『何を企んでいる…?』
俺の思考は、すぐに悪い方向へと向かう。まさか、この家から逃げ出すための準備か? あるいは、他の男に手料理でも振る舞うつもりか? ありとあらゆる可能性を考え、その度に嫉妬と不安で気が狂いそうになる。
いてもたってもいられなくなり、俺は厨房へ向かった。
甘く、香ばしい匂いが漂ってくる。そっと中を覗くと、そこには頬を粉で白く汚しながら、夢中で焼き菓子を作っているセレスティアの姿があった。侍女たちと笑い合い、生き生きとした表情で作業に打ち込んでいる。
俺の知らない、彼女の姿。
その瞬間、俺は激しい衝動に駆られた。あの笑顔を、俺だけのものにしたい。あの楽しそうな声を、俺だけが聞いていたい。他の誰にも見せるな。他の誰とも笑い合うな。
俺は、自分が彼女の楽しそうな時間を台無しにしていることに気づいていた。俺がそこにいるだけで、空気が凍りつくことを。それでも、足を止めることができなかった。
無意識のうちに、腕を組んでいた。感情を悟られまいと、必死に無表情を装う。俺の存在に気づいた彼女が、びくりと肩を震わせた。その金色の瞳に、怯えの色が浮かぶ。
『違う、そんな顔が見たいんじゃない』
心の中で叫ぶが、言葉にはならない。
「…何をしている」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。彼女がしどろもどろに何かを説明しているが、俺の耳には入ってこない。
彼女が作ったのであろう、作業台に並べられた美しいタルト。その隣には、キラキラと輝くジャムの瓶。
『これを、誰に食べさせるつもりだ?』
その問いが、喉まで出かかった。だが、そんなことを聞けるはずもない。俺は嫉妬深い、心の狭い男だと思われたくない。
結局、俺は何も言えずにその場を去ることしかできなかった。背後で、彼女が安堵のため息をついたような気がして、胸が抉られるように痛んだ。
執務室に戻り、俺はギルバートを呼んだ。
「セレスティアの行動を、逐一俺に報告しろ。誰と会い、どこへ行き、何をしているのか、全てだ」
「…かしこまりました。ですが旦那様、それは」
「命令だ」
俺の有無を言わせぬ口調に、ギルバートは黙って頭を下げた。
やりすぎだとは分かっている。これはただの監視だ。束縛だ。彼女が嫌がるに決まっている。だが、こうでもしないと、俺は不安で押し潰されそうだった。
彼女が、俺の手の届かないところへ行ってしまいそうな気がして。
後日、ギルバートからの報告で、彼女が作った菓子が、侍女たちや使用人たちに振る舞われただけだと知った。そして、その味が大変な評判だということも。
安堵と同時に、別の感情が湧き上がってきた。
『なぜ、俺にはないんだ』
なぜ、俺には食べさせてくれない。俺は、お前の夫だというのに。
その夜、俺は誰にも気づかれないように厨房へ忍び込んだ。戸棚の中に、一つだけ残されていた星降り林檎のタルトを見つける。
一口食べると、驚くほど上品な甘さと、芳醇な香りが口いっぱいに広がった。今まで食べた、どんな菓子よりも美味い。
これが、彼女が作ったもの。
俺は夢中でタルトを平らげた。皿に残った欠片まで、指で舐めとる。
ああ、駄目だ。こんなものを、他の奴らに食べさせてはいけない。彼女の作るものは、全て俺だけのものだ。
彼女の才能が、誇らしい。だが、それ以上に、その才能が彼女を俺から遠ざけるのではないかという恐怖が、俺の心を支配していた。
俺は、セレスティアという存在そのものを、この腕の中に閉じ込めてしまいたかった。
その歪んだ独占欲が、彼女との溝をさらに深くしていることに、愚かな俺はまだ気づいていなかった。
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