シーン2

​ 市庁舎(ラットハウス)の扉は、重厚な樫の木でしつらえられている。


 鉄の帯で補強されたその扉は、本来であれば外敵を拒むためのものだ。だが、今のハーメルンにおいて、堅牢けんろうな壁も扉も何の意味もなさない。


​ 足を踏み入れた瞬間、えた臭いが鼻をついた。


 古い羊皮紙と蜜蝋みつろう、脂ぎった人間たちの体臭。そこへ、床板の隙間から這い上がってくるドブネズミの糞尿の臭気が混じり合い、渾然一体こんぜんいったいとなって澱んでいる。


 ここは街の頭脳であり、心臓部だ。


 そして今や、壊死した臓器でもあった。


​ 二階の参事会室。


 薄暗い室内には、この街を動かす――あるいは動かしているつもりになっている――男たちが卓を囲んでいた。


 市長のハインリヒ、財務担当のゲオルグ。その他、ギルドの長や有力な市民(パトリツィア)たち。


 彼らは皆、ビロードや毛皮で縁取られた上等な衣装を身に纏っている。だが、その顔色は一様に優れない。卓上には、手つかずのワインと、誰も読みたがらない報告書が積み上げられている。


​「……それで、猫はどうなったのだ」


​ 沈黙を破ったのは、市長のハインリヒだった。老齢で、声には威厳よりも疲労が色濃く滲んでいる。


​「全滅です」


​ 答えたのは私だ。部屋の隅、書記官用の小さな机で、羽根ペンをインク壺に浸す。


​「先月、リューベックから輸入した三百匹の猫ですが、半数はネズミの群れに襲われて食い殺されました。残りの半数は、恐怖に駆られ、何処かへ遁走とんそうしました。現在、市内に猫の姿はありません」


​「三百匹が、か」


「三百匹が、です」


​ 乾いた音が響いた。財務担当のゲオルグが、卓を拳で叩いたのだ。


​「金貨五十枚だぞ! あの猫どもを揃えるのに、どれだけ苦労したと思っている。それが一晩で餌になっただと? 馬鹿げている!」


「毒餌はどうだ」


「効果なし、と報告しています」


​ 私は淡々と事実を並べた。感情を交える必要はない。数字だけが雄弁だ。


​「砒素を混ぜた団子を撒きましたが、奴らは知恵をつけました。今や毒餌に見向きもしません。それどころか、誤って口にした家畜が泡を吹いてたおれ、市民の不満は高まる一方です」


祈祷きとうは?」


「先ほどご覧になった通りです。司教様の喉が潰れるのが先か、ネズミが改心するのが先か」


​ 重苦しい溜息が、部屋の空気をさらに湿らせる。


 彼らは「有力者」と呼ばれている。だがその実態は、資産を守ることに汲々きゅうきゅうとする太ったガチョウに過ぎない。ネズミという自然の猛威の前では、彼らの権威など紙切れ同然だった。


​「打つ手なしか」


​ 誰かが呟いた。


 その時である。


​「嘆いている暇があるなら、次の策を考えたらどうです」


​ 冷ややかな、それでいて耳に心地よく響くバリトンの声が、湿った空気を切り裂いた。


 アルノルト・ヴィッテ。


 窓際に立ち、腕組みをして外を眺めていた男が、ゆっくりと振り返った。


 三十歳手前。背が高く、肉付きの良い顔立ちには、生まれついての支配者特有の傲慢さと、それに見合うだけの知性が張り付いている。


 身につけているのは、フランドル産の最高級の羅紗を用いた上衣だ。その襟元には、銀の鎖が鈍く光っている。


​ 私の兄だ。


 そして、私の主でもある。


​「アルノルト君、しかしだな……」


「しかしも案山子もありませんよ、市長」


​ アルノルトは、部屋の中央へと歩を進めた。足音ひとつ立てない。その優雅な所作は、彼が泥にまみれた路地裏とは無縁の世界で生きてきたことを如実にょじつに物語っている。


​「近隣の都市――ミンデンやヒルデスハイムが、今の我々をどう見ているかご存知か。『ネズミの街』。そう陰口を叩かれているのですよ。ハンザの同盟都市として、これ以上の恥辱がありますか」


​ 恥辱。


 兄の口から出たその単語に、私は内心でわらった。


 市民が飢え、子供がかじられているというのに、この男が気にするのは「外聞」だ。街の格、交易の信用、そして何よりヴィッテ家の名誉。


 彼にとって、ネズミの被害とは、『損失』の帳簿に書き込まれる数字でしかない。


​「では、どうするというのかね。金庫は空に近いのだぞ」


「出費は抑える。これ以上、無駄金は使いません」


​ アルノルトは断言した。


​「毒も猫も役立たずだ。ならば、根本的にやり方を変えるしかない。……とはいえ、まずは市民を黙らせるのが先決だ。ルーカス」


​ 不意に名を呼ばれ、私は反射的に背筋を伸ばした。


​「はい」


「議事録にはこう書いておけ。『市参事会は、聖職者団と協力し、抜本的な解決策を模索中である』とな。具体的な失敗には触れるな。不安を煽るだけだ」


「……承知いたしました」


​ ペンを走らせる。羊皮紙の上で、真実が削ぎ落とされ、耳障りの良い虚偽へと変質していく。


 私は書記官だ。


 記録者であり、隠蔽者だ。


 兄が白と言えば、黒いカラスも白くなる。それがこの部屋のルールであり、私が生まれた瞬間から定められた世界の機構からくりだった。


​ アルノルトが私の机に近づいてきた。


 彼は私の手元の書類を覗き込み、ふんと鼻を鳴らす。


​「字が汚いぞ、ルーカス。相変わらずだな」


「申し訳ありません。インクの質が悪くて」


「道具のせいにするな。心根が曲がっているから、字も曲がるんだ」


​ 彼は私の肩に手を置いた。


 親愛の情など欠片もない。それは、所有物が所定の位置にあるかを確認するような、無造作で重い手つきだった。


​「いいか、お前は余計なことを考えなくていい。私の言った通りに書き、私の言った通りに動く。それが参事会のためであり、ヴィッテ家のためだ。分かっているな?」


「……はい、兄上」


「仕事中は『参事会員』と呼べと言ったはずだ」


「失礼しました。アルノルト様」


​ 兄は満足げに頷き、再び議論の輪へと戻っていった。


 私はその背中を睨みつける。いや、睨みつけることすらできず、ただインクの染みた指先を見つめる。


​ 長男(プリムス)。


 中世において、この言葉が持つ意味は絶対だ。


 ザクセンシュピーゲル法典を持ち出すまでもない。家督、屋敷、土地、財産、そして市民権に至るまで、すべては長男が継承する。


 家とは、分割されてはならない聖なる単位なのだ。財産を兄弟で分ければ、家は弱体化し、没落する。だから、一人の継承者にすべてを集約させる。


 極めて合理的だ。街の秩序を保つためには、これ以上ない仕組みだろう。


​ では、残された者たちはどうなる?


 次男、三男、そして娘たち。


 我々は「予備」だ。長男が死んだ時のためのスペア。あるいは、他家との政略結婚の駒。それ以外の使い道はない。


 聖職者の道へ進まされる者、修道院へ幽閉される者。あるいは私のように、兄の慈悲にすがり、家業の下働きとして飼い殺しにされる者。


​ アルノルトと私は、同じ腹から生まれた。


 だが、わずか数年の時間の差が、天と地ほどの断絶を生んだ。


 彼は絹を着て、私は羊毛を着る。


 彼はワインを飲み、私はエールを飲む。


 彼は命じ、私は従う。


 彼が「ハーメルン」そのものであるならば、私はその影に巣食うネズミと変わらないのかもしれない。


​「――では、当面は現状維持ということで」


​ 会議は、何一つ決まらないまま幕を閉じようとしていた。


 疲弊した市長が席を立つ。


 結局、彼らが選んだのは「忘却」と「忍耐」だった。ネズミがいなくなるまで耐える。市民が諦めるまで待つ。それだけだ。


​「ルーカス。後片付けをしておけ。それと、明日の朝までに近隣都市への書簡を清書しておけよ。『我が市は健全である』という内容でな」


​ アルノルトは、私を見向きもせずに言い捨て、部屋を出て行った。


 重い扉が閉まる音。


 後に残されたのは、私と、インクの臭い。そして、静寂を取り戻した部屋の隅で、カサカサと動き始めたネズミの気配だけだった。


​ 私はペンを置いた。


 指先が黒く染まっている。洗っても落ちない、すすと鉄の混じったような汚れ。


 これが私の人生だ。


 兄が歴史を作る横で、私はその歴史の改竄かいざんを手伝う。


​ 窓の外を見る。日は傾きかけていた。


 石畳の街並みが、長い影に覆われていく。その影の中に、無数の若者たちがいるはずだ。私と同じように、継ぐべきものを持たず、行き場を失い、この閉塞した石壁の中で窒息しかけている「次男坊」たちが。


​ ここには未来がない。


 そんなことは、誰に言われなくとも分かっている。


 だが、どこへ行けばいい?


 市壁の外には、深い森と、盗賊と、餓えが待っているだけだ。私たちはこの街にへばりつき、兄たちの食べ残しをあさって生きるしかないのだ。ネズミのように。


​ 私は書類を束ね、逃げるように市庁舎を出た。


 向かう先は下町だ。


 せめて、安酒場で安いエールを喉に流し込み、この鼻につく腐臭を忘れたかった。


​ それはまだ、あの男――極彩色ごくさいしきの笛吹男に出会う、僅か前のことである。

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