笛の音の遺言

武陵隠者

第一章 神に見放された街

シーン1

​ 臭う。


​ いや、臭うなどという生温かい言葉では追いつかない。


​ 腐臭が、街を陵辱りょうじょくしている。


​ 一二八四年、春。神聖ローマ帝国の北辺、ヴェーザー川のほとりにへばりつくこのハーメルン市は、糞尿と腐敗、そして何より、あの忌々しい獣の体臭に沈んでいた。


​ 吸い込む空気が、べとりと肺腑はいふに貼り付く。


​ 熟しきった果実が腐り落ちる寸前の甘ったるさと、下水溝の底で泥と化した汚物の瘴気しょうき。そこに、何万匹、いや何十万匹とも知れぬ獣の、脂ぎった体臭が混ざり合う。


 呼吸をするたびに、見えない汚泥が内臓の底へ、おりのように沈殿していくようだ。


​「悔い改めよ!」


​ 市庁舎(ラットハウス)前の広場で、男ががなり立てていた。


 司教だ。金糸で刺繍された豪奢ごうしゃな祭服をまとっているが、その下の醜い太鼓腹は隠しようもない。脂汗を額に滲ませ、口角から泡を飛ばし、聖職者は声を張り上げる。


​「これは懲罰ちょうばつである! 神は見ておられるのだ。市民(ビュルガー)たちの信仰が弛緩しかんし、強欲という大罪に溺れたゆえに、主がエジプトの災いの如く『それ』を遣わしたのだ!」


​ 広場を埋め尽くす市民たちは、一様に膝をつき、指を組み合わせていた。


 祈り。


 彼らの服は薄汚れ、頬はこけている。その眼は天上の神を見ているのではない。ただ、明日の糧と、夜になれば枕元を走り回る小さな悪魔たちへの恐怖に怯えているだけだ。


​ 私は、広場の端にある回廊の柱に背を預け、その茶番劇を冷めた目で眺めていた。


 手には羊皮紙の束と、携帯用の筆記具。


​ ルーカス・フォン・レーヴェン。この薄汚れた街の、しがない市参事会書記官。それが私だ。


 書記官といえば聞こえはいいが、要するに代書屋である。街の収支を記録し、揉め事を書き留め、有力者たちの機嫌を損ねぬようインクの染みに埋もれて生きる。それだけの存在だ。


​ ふと、視界の端を何かがかすめた。


 黒い塊だ。


 丸々と肥え太った、猫ほどもあろうかというドブネズミが一匹。あろうことか、説教を垂れる司教の足元を、悠然と横切っていく。


​ 司教の声が一瞬、裏返った。


 だが、彼は無視した。気づかないふりをした。神の威光を説くその足元を、不浄の象徴が踏み荒らしていく事実を、祭服の裾で隠そうとしたのだ。


 あるいは、悟ったのかもしれない。


 この街の真の支配者が、もはや神でも参事会でもなく、彼ら――ネズミたちであることを。


​ ネズミ。


 どこにでもいる。


 路地裏の汚泥の中に。家の軒下に。穀物倉庫の麦の山に。そして、教会の祭壇の裏側にさえ。


 クマネズミ、ドブネズミ。種類などどうでもいい。彼らは食らい、交尾し、増える。無限に増える。


 彼らは知っているのだ。人間という生き物が、いかに無力で、いかに多くの食べ物を無駄にし、そしていかにぎょしやすい家主であるかを。


​ 私は手元の羊皮紙に視線を落とした。


 そこには、聖書の言葉など一行も書かれていない。


 並んでいるのは無慈悲な数字だけだ。


​『四月十二日。聖ゲオルギウス教会の備蓄倉庫、被害甚大。小麦の三割が廃棄』


『四月十四日。皮なめし職人の赤子、就寝中に耳をかじられ、高熱を発す』


​ インクが乾く間もなく、新たな被害が積み上がる。


 祈りで腹は膨れない。


 説教でネズミは死なない。


 だというのに、広場の市民たちはまだ頭を垂れている。まるで、そうしていればいつか空から奇跡が降ってくるとでも信じているかのように。


​「馬鹿馬鹿しい」


​ 私は小さく呟き、回廊の石壁を背中で小突いて体勢を変えた。


 鼻腔の奥に、鉄錆と血の混じったような臭いがこびりついている。


​ この街は死にかけている。


 ネズミに食い荒らされているのは穀物だけではない。街の未来そのものだ。そして、私のような家督を持たぬ次男坊には、その沈みゆく船から逃げ出す権利すら与えられていない。


​ 司教が両手を広げ、説教の締めくくりに入った。


 その背後の壁を、また一匹、黒い影が素早く駆け上がっていくのが見えた。


​ 神はいない。


 少なくとも、一二八四年のハーメルンの地図をお持ちではないらしい。

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