第25話

 洗面所でタオルを濡らし、氷枕の準備を整えてから、私は再び真田の部屋へと戻った。

 ドアを閉める音にも気を使わず、静かに、まるで空気のように振る舞う。

 ベッドサイドの椅子に腰を下ろし、彼の寝顔を見つめる。


 規則正しい寝息。

 時折、苦しげに漏れる唸り声。

 熱に浮かされた顔は赤く、普段の整った顔立ちが少し幼く見える。

 前髪が汗で額に張り付いているのが気になり、私はそっと指で払った。


「……熱い」


 指先に伝わる体温。

 39度という数字が、ただの数値ではなく、現実の熱量として私に迫ってくる。

 こんな高熱を出して、一人で耐えていたのかと思うと、胸が痛む。


 私は新しい氷枕を彼の頭の下に差し込み、濡らしたタオルで額の汗を拭った。

 冷たさに反応したのか、彼が小さく身じろぎをする。

 長い睫毛が震え、薄く開いた瞳が彷徨うように動いたが、すぐにまた閉じられた。

 まだ深い眠りの中にいるようだ。


「……よかった」


 安堵のため息をつく。

 もし今起きられたら、どんな顔をすればいいのかわからない。

 『看病に来てあげたわよ』なんて恩着せがましく言うのも違うし、『心配で来ちゃった』なんて素直に言うのは恥ずかしすぎる。

 寝ていてくれる方が、今の私にとっては好都合だ。


 私は椅子に深く座り直し、部屋の中を見渡した。

 昔と変わらないレイアウト。

 本棚には参考書や小説が整然と並び、机の上も綺麗に片付いている。

 几帳面な性格が出ている。

 ふと、机の上のフォトフレームが目に入った。


 美佐子さんが言っていた通りだ。

 水族館でのツーショット写真。

 クラゲの水槽の前で、身を寄せ合う私たち。

 写真の中の私は、恥ずかしそうに、でも幸せそうに微笑んでいる。

 そして隣の真田も、普段学校では見せないような柔らかな表情をしている。


「……ほんとに飾ってるし」


 私は立ち上がり、そっとフォトフレームを手に取った。

 指でガラスの表面をなぞる。

 この写真を撮った時のことが、鮮明に蘇ってくる。

 彼の腕の感触、耳元での囁き、心臓の高鳴り。

 全てが昨日のことのように思い出される。


 隣には、もう一つフレームがあった。

 町内会の集合写真だ。

 おじいちゃんおばあちゃんに囲まれて、二人でそうめんを食べている写真。

 私がネギを彼の器に移している決定的瞬間が写り込んでいて、思わず笑ってしまった。


「……バカみたい」


 フレームを元に戻す。

 大切にされている。

 ミッションだから仕方なく、という態度は建前で、本当は彼も私との時間を大事に思ってくれているんじゃないか。

 そう期待してしまう自分がいる。


 でも、同時に怖くもある。

 もしこれが、彼なりの「優しさ」や「責任感」だけの行動だとしたら?

 許婚だから、幼馴染だから、無下にはできない。

 そんな義務感でやっているとしたら、私はただの道化だ。


 ――『許婚なんて、うざいだけだ』


 あの言葉が、また脳裏をよぎる。

 棘のように突き刺さったままの言葉。

 公園での彼の反応を見る限り、何か事情があったのかもしれないとは思う。

 でも、確証はない。

 確かめるのが怖い。

 今の心地よい関係が壊れてしまうくらいなら、曖昧なままでいいと思ってしまう。


 私はベッドに戻り、再び椅子に座った。

 真田の寝顔を見つめる。

 無防備で、何も語らない寝顔。

 この顔を見ていると、余計な思考が溶けていくような気がする。


「……ねえ、真田」


 返事がないのをいいことに、私は彼に話しかけた。


「あんた、本当はどう思ってるの?」


 シーンとした部屋に、私の声だけが響く。


「私とのこと。……ただの幼馴染? それとも、少しは意識してくれてる?」


 問いかけても、返ってくるのは規則正しい寝息だけだ。

 虚しい。

 でも、こうして一方的に話しかけることで、心の澱を吐き出せるような気もする。


「私はね……正直、わかんないの」


 私は膝を抱えた。


「あんたが離れていった時、すごく悲しかった。でも、同時にホッとした自分もいたの。……これでもう、あんたの重荷にならなくて済むって」


 誰にも言えなかった本音。


「でも、再会して、こうしてまた近くにいられるようになって……やっぱり、嬉しいのよ。悔しいけど」


 私は苦笑した。


「あんたが他の女の子と仲良くしてるの見るとイライラするし、私に優しくしてくれるとドキドキする。……これって、もう完全に好きってことよね」


 認めてしまった。

 口に出した瞬間、顔がカッと熱くなる。

 誰も聞いていないとわかっていても、恥ずかしさで爆発しそうだ。


「……あーあ。言っちゃった」


 私は両手で顔を覆った。

 氷の女王、陥落。

 相手は寝ている幼馴染。

 なんと情けないシチュエーションだろう。


 その時。

 真田が「んぅ……」と呻き声を上げた。

 ビクッとして顔を上げる。

 起きた?

 聞いてた!?


 心臓が止まるかと思ったが、彼は寝返りを打っただけだった。

 掛布団がはだけ、パジャマのボタンが少し外れて鎖骨が見えている。

 ……無防備すぎる。

 目のやり場に困るが、風邪を引かせたら大変だ。

 私は慌てて布団を掛け直した。


 その時、彼の手がふわりと動いた。

 私の手首を掴む。

 熱い。

 そして、思いの外強い力。


「……えっ」


 驚いて彼を見る。

 目は閉じられたままだ。

 寝ぼけているのか、うなされているのか。


「……行くな」


 掠れた声が、漏れた。


「……置いてく、な……」


 切実な響き。

 誰に向けられた言葉なのか。

 私にか、それとも夢の中の誰かにか。


「……どこにも行かないよ」


 私は彼の手を握り返し、優しく声をかけた。

 まるで子供をあやすように。


「ここにいるから。……安心して」


 私の言葉が届いたのか、彼の手の力がふっと緩んだ。

 安心したような吐息が漏れる。

 そのまま、また深い眠りへと落ちていった。


 握られた手は離さないまま。

 私はその温もりを感じながら、しばらく動けずにいた。

 『行くな』。

 その言葉が、私の胸を激しく揺さぶる。

 もし、それが私に向けられたものだとしたら。

 彼は、私が離れていくことを恐れているのだろうか。

 私が彼を想うのと同じように、彼も私を必要としてくれているのだろうか。


 ……期待しちゃダメだ。

 熱に浮かされた戯言かもしれない。

 でも、今だけは。

 この手を握っている間だけは、その言葉を信じていたいと思った。


 ◇


 どれくらい時間が経っただろう。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。

 雨音は止み、静かな夜の空気が漂っている。

 真田の呼吸は落ち着き、熱も少し下がってきたように見える。


「……そろそろ、お粥作らなきゃ」


 私は名残惜しさを感じつつ、彼の手をそっと離した。

 彼の手のひらに、私の体温が残っているような気がした。


 一階へ降り、キッチンへと向かう。

 広々としたシステムキッチン。

 美佐子さんが言っていた通り、冷蔵庫には食材がぎっしりと詰まっていた。

 卵、ネギ、鶏肉……お粥に必要なものは揃っている。


 私はエプロン(美佐子さんのフリフリのやつしかなかったので仕方なく着用)をつけ、調理を開始した。

 米を研ぎ、土鍋にかける。

 コトコトと煮える音と、出汁の香りがキッチンに満ちていく。

 なんだか、本当に「若奥様」になった気分だ。

 いやいや、調子に乗るな私。これはミッションだ。


 お粥が煮えるのを待つ間、私はスマホを取り出した。

 楓からのメッセージが入っている。


『凜花ちゃん、大丈夫ぅ? 看病、頑張ってね』

『何かあったらすぐに連絡するのよぉ』


 心配性の親友。

 私は『大丈夫。今お粥作ってるところ』と返信した。

 すぐに既読がつき、『愛妻料理ね! キャー!』というスタンプが送られてきた。

 ……楓、面白がってるでしょ絶対。


 続いて、橘さんからもメッセージが来ていた。


『零くんの具合どう!? 熱下がった!?』

『私が行かなくて大丈夫!? 今からでも駆けつけるよ!?』


 なぜバレたのか。

 勢いがすごい。

 文字から声が聞こえてきそうだ。


『平気よ。今は落ち着いて寝てる』

『来なくていいから。絶対に来ないで』


 念を押して返信する。

 もし今橘さんが来たら、せっかくの静寂が台無しになる。

 この時間は、私と真田だけのものにしておきたい。

 ……なんて、独占欲を出してしまっている自分に気づき、苦笑する。


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