第2話【悪女は求婚される。】

「…………っ。」


掠れた声が零れ、アルトはゆっくりと瞼を押し上げた。

視界が霞みながらも、柔らかな光を落とすレースのカーテン、丁寧に磨かれた木製の家具、ほのかに香草の香りが漂う寝具――そんな“整えられた空間”が目に入った。


(……ここは……)


身体を起こそうとした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。

息を詰めた彼の肩に、そっと温かな手が添えられた。


「起こさなくていいわ。まだ安静にしていて。」


落ち着いた声に視線を向けると――

金色の瞳、漆黒の艶髪、柔らかく紅を引いた唇。


フィアリーナ・ヴェルティナージュ。

“悪女”と噂される公爵令嬢……しかし今の彼女の表情は驚くほど穏やかだ。


その視線が、自然とアルトへと向かう。


戦場で血と泥にまみれていたはずの彼は、もうどこにもその痕跡を残していなかった。

誰かに丁寧に整えられたのだろう。

髪はきれいに洗われ、ブロンドの光沢がふわりと枕元に広がっている。

濡れたときの乱れはなく、軽やかでやわらかな金色が際立つ。


瞼の影からのぞく青い瞳は、薄く疲れを滲ませながらも、氷のように美しい澄んだ色をしている。


与えられた寝衣は上質で、彼の体格を邪魔しないほどのゆったりした造り。

その柔らかな布越しにも、鍛えられた肩や胸板の輪郭が分かる。

無理をした痕跡だけが、その完璧な体に痛ましい陰影を落としていた。


――けれど、フィアリーナは無意識のうちに目を奪われていた。


(え……ど、どうしよう……思っていたより……ずっと綺麗な人……)


慌てて視線を外し、表情を保つのに必死だった。


「…………ここは。」


アルトが呟く。


「ヴェルティナージュ公爵家の賓客室よ。

あなたを運んだあと、体を拭いて、傷に触れないように医療用の入浴布で洗ってもらったわ。」


フィアリーナは言葉を選びつつ付け加える。


「……もちろん、医療担当の女性スタッフに任せたから安心して。」


「……そうか。」


アルトの青い瞳がわずかに揺れ、安堵と戸惑いが薄い影になって落ちる。

彼は自分の体の清潔さに気づいたのだろう。

髪も肌も、泥と血の気配が一切ない。


フィアリーナは椅子へ腰掛け、穏やかに問いかける。


「何があったか、話せる?」


アルトは胸に手を当て、苦しげに息を吸う。


「……同僚に……騙された。

軽い調査任務だと言われ、向かった先……実際には、ドラゴンの巣で……。」


その瞬間、フィアリーナの金色の瞳が、ぱちりと大きく開かれた。


(ドラ、ドラ、ドラゴン!?

いやいやいや絶対国境内にいないわよ!? えっ!? ちょ、えっ!?)


叫び出しそうになる心を、なんとか噛み殺す。


「……国外の付近まで、出たのね?」


「……なぜ、それを?」


アルトが眉を寄せる。


フィアリーナの心臓が跳ねた。


(あ、やばい……!!)


慌てて口を開く。


「あなたを拾った場所が……国境に近いスラム街だったから。

倒れた場所を見れば……だいたい察しがつくわ。」


表情は涼しげに――

内心は瀕死で。


アルトはしばらく彼女を見つめ、それから小さく息をついた。


だが――胸の鼓動はまったく落ち着かなかった。


本来なら、公爵家の令嬢としてもっと堂々と構えていればいい場面だ。

動揺する理由など、どこにもないはずだった。


それでも、胸の奥がざわつくのは……

誰にも言えない秘密が、彼女の中にあるから。


――フィアリーナは“聖女”。


百年に一度生まれる、アトランテ帝国を守護する存在。

魔物を遠ざけ、“聖域の結界”で国を外敵から守る者。


それが、彼女の本当の姿。


(国内に魔物が出ないのは確実なのよ……

だって……結界を張っているのは、わたしなんだから……)


聖女とは、自由のない存在だった。

その力ゆえに道具のように扱われ――

結婚も、恋も、友も許されない。


唯一許される結婚相手は王族のみ。

人生は国へ捧げるためだけのもの。


幼い頃、彼女が自分の異質に気づいた瞬間、世界は大きく変わった。


自然と傷が治ってしまうこと。

時折、神の声が届くような感覚。

それらが“聖女の証”だと知ったとき、震えるほど怖かった。


(聖女は野菜しか食べてはいけない、っていう古い習わしまであるのよ。

そんなの、いや……絶対いやーーー!!)


恐怖に耐えられず、幼いフィアリーナは父にすがって泣き崩れた。


『このこと……絶対に誰にも言わないで……!

わたし……普通の女の子でいたいの……!』


父は迷いながらも、その願いを受け入れた。


それ以来――

フィアリーナは“悪女”という仮面で自分を隠した。


男遊びのふり。

気まぐれで奔放なふり。

誰も彼女が聖女だと疑わないように。


だが、役目だけは捨てなかった。


毎年、帝国の外周に“聖なる結界”を張り、

魔物を国に入れないようにしてきた。


(……まずいわ。これは――回復したらすぐ帰ってもらわないと)


秘密に巻き込むわけにはいかない。

まして――聖騎士は最も危険な相手。


フィアリーナはゆっくりと椅子から立ち上がった。

表情は穏やかでも、内心は慌ただしい。


「もう少し寝ていなさい。今、医者を呼んで――」


その瞬間だった。


細い手首が、不意に掴まれた。


「……っ?」


「待って。」


弱っているはずのアルトの指なのに、

驚くほど強く、必死に縋りつくようだった。


振り返ると、青い瞳がまっすぐにこちらを捉えていた。


洗われたブロンドの髪は、濡れた跡を残すようにふんわりと額へかかり、

寝巻の襟元からのぞく喉元には、戦いの疲労が薄い影を落としている。


入浴と手当てを受けたばかりのその姿は、

“生き延びた青年の弱さ”と“騎士としての品”が混ざり合い……

フィアリーナは、思わず心を掴まれそうになった。


「何?」


アルトは迷いもなく、ただ真っ直ぐに言った。


「僕と……結婚してほしい。」


「…………は………い……?」


フィアリーナの喉が奇妙な音を立てた。

全身がびくりと固まり、噂の“悪女”の余裕などどこにもない。


ミアがこの場にいたら――

間違いなく悲鳴を上げていた。


アルトは真剣だった。

痛みに震えながらも、彼女の手首を離そうとしない。


「あなたが……女神に見えました。

雨の中で……僕を拾って、救って……

もう、離したくない。」


「ちょ、ちょっと待ちなさい!?

突然何を言っているの……っ!」


フィアリーナは必死に手を引いたが、

アルトの指は意外なほど強く、弱々しさの中に熱だけが宿っていた。


必死に頼る子どものようで――

それなのに瞳は、騎士の誓いそのもの。


「だ、だめよ。あなた……混乱しているの。絶対に。」


「ダメなら……」


アルトは喉の奥で震えながら、続けた。


「せめて……僕を……側に置いてくれないか……?

ここから……追い出さないでくれ……。」


その声は弱く、真っ直ぐで、

そして――誰よりも誠実だった。


フィアリーナの心の奥が、ふるりと揺れた。


(……なんで……こんな……まっすぐなの……)

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